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つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

こまいぬ(狛犬)

2014年08月31日 | 書・ことば

 

 

漢字に託した「日本の心 (NHK出版)を読み進めていくと、

しつこいくらいに「漢字は『表文字』である」という記載が

多く出てくる。

 

 

いや、漢字こそ「表文字」でしょ?、だからこそ、文字

しての「ひらがな」や「カタカナ」が日本で生まれたんでしょう?と

かなりの抵抗感を持ち続けていたのだが、「極東ブログ」の中に

漢字は表意文字という話」というページがあり、結論として

漢字は表文字的に発生したが、(多民族を支配するために)

文字として利用されてきた」ということが解説されている。

 

漢字を表意文字と見なしてきたのは日本だけらしいのだ。


仏典の漢訳とかも 「仕方なく・・・」じゃなくて、「積極的」だったんだ・・・。

 

 

中国語は表音文字」でググると、「仏教思想へのアプローチ:

釈迦の智慧を理知的に学ぶ本」などもヒットする。

 

 

その、「仏教思想へのアプローチ」という本の224ページに、

 

・・・先ごろ世を騒がせた「オウム真理教」の「オウム」は、かつての

日本人にとってよく知られていた「阿吽(あうん)」という言葉から

きたものである。・・・

 

という記載箇所がある。

 

 

 

オウム(AUM)」とは、もともとは サンスクリット語で

「始まりから おわりまでの すべて」を表すマントラ(呪文)の一種であり、

Aは宇宙の「創造」、Uは「維持」、Mは「破壊」の意味がある

とのこと。

 

仏教では「阿吽」と「音訳」され、「」が「万有の始まり」、

」が「万有の帰着」を意味している、とされる。

 

阿吽=AUM(オーム)、ということだったんだ・・・。

(「M」だから、「あうん(N)」よりも「あうむ(M)」か・・・?)

 

 

ウ~ム・・・、「オーム」かぁ・・。

 

「オウム真理教」という「カルト教団」には、多くの高学歴者が

嵌まっていっただけあって、現在の教育では得ることのできない、

いろいろな古来からの知識を「売り」にしていたようだ。

 

その「売り」の1つは、仏教用語の神秘的な響きを巧みに利用して

教団への入会を誘ったということがあったのだろう。言葉のきちんと

した理解がなければ、誰でも奈落に陥る危険性がある、ということを

あの事件は教えていたはずなのである。

 

「カルト」への防衛というのは、きちんとした教育機関でなされるべき

だと痛感するのだが、現在の日本の教育現場では宗教はおろか、

日本昔ばなしとか、神話とかを教えることは全くないようだし、まして、

幸せになる方法とか、成功の方程式や、充実した「生き方」なども全然

教えてないし・・・カルトに走っても止めることができないのが現実で

あって、かと言って、教職員とかに期待するのは とても無理だろうし。。。。

 

 

 

「オウム」の話題は後ほどにして、「阿吽」のほうの話しを少し・・・。

 

巷間、よく知られている「阿吽」と言えば、寺院の入口の左右に

立っている一対の仁王像(金剛力士像)であり、片方が口を開けた

形(あぎょう)像、もう一方が、口を結んだ形(うんぎょう)像で、

寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神なのだという。

 

阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情

と、ここでも見事な対比で構成されている。

 

 

 

また、もう1つ阿吽でポピュラーなのは、神社の入口に設置されて

いる「狛犬」であり、右側が大きな口を開けた「」像、左側は口を

閉ざした「」像の対となっている。

 

 

100万人の狛犬講座」によれば、双方とも空想上の獣なのだが、

本来は「獅子・狛犬」といい、右側の口を開いた「阿像」は「獅子」で

」なし、左側の「吽像」が口を閉じた「角あり」で 「狛犬」なのだという。

 

         

       

正面から見た時右にいる、口を開けた狛犬

正面から見た時左にいる、口を閉じた狛犬

●正式には無性だが、メスとして扱っているものが多い。

●正式には無性だが、オスとして扱っているものが多い。

●正式には、獅子。(狛犬として扱っている物も多い)

●正式には、角が生えている。

●正式には耳が垂れている。

●正式には、耳が立っている。

●頭に擬宝珠(ぎぼし)を乗っけているものもある。

●玉、もしくは鞠(まり)を持っているものが多い。

 

 

獅子」は古来、中国から伝わったもののようだが、「狛犬」は、

平安時代後期に天皇の玉座を守る守護獣像として誕生したと

いう日本独自のもののようで、鎌倉時代末期に書かれたという

徒然草」 の236 にも、下記のように さらりと出てくる。

 

丹波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。

御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

[現代語訳]

京都の亀岡にも出雲というところがある。出雲大社の分霊を祀った立派な神社だ。志田の某という人の領土で、秋になると、「出雲にお参り下さい。そばがきをご馳走します」と言って、聖海上人の他、大勢を連れ出して、めいめい拝み、その信仰心は相当なものだった。

神前にある魔除けの獅子と狛犬が後ろを向いて背中合わせに立っていたので、聖海上人は非常に感動した。「何と素晴らしいお姿か。この獅子の立ち方は特別です。何か深い由縁があるのでしょう」と、ボロボロ泣き出した。「皆さん、この恍惚たるお姿を見て鳥肌が立ちませんか。何も感じないのは非道いです」と言うので、一同も変だと思い、「本当に不思議な獅子狛犬だ」とか、「都に帰って土産話にしよう」などと言い出した。上人は、この獅子狛犬についてもっと詳しく知りたくなった。そこで、年配のいかにも詳しく知っていそうな神主を呼んで、「この神社の獅子の立ち方は、私などには計り知れない由縁があるとお見受けしました。是非教えて下さい」と質問した。神主は、「あぁ、あの獅子と狛犬ですか。近所の悪ガキが悪戯したのですよ。困ったガキどもだ」と言いながら、もとの向きに戻して去ってしまった。果たして、聖海上人の涙は蒸発したのだった。

 

というように、「獅子と狛犬」が対で鎮座していたことが記してある。

(本来の内容は、偉いお坊さんが子供のいたずらに気付かずに大恥を

かく、というものみたいだが・・・)

 

これは貴重な歴史書としても価値がある。

 

 

 

 

もともと、獅子である「阿像」と、狛犬である「吽像」というのは

別々の物だったようなのだが、現在では、形状は「獅子」呼び名が「狛犬」

定着している、という いかにも日本的な流れで来ているようだ。

 

 

入口に設置して厄除けとする風習は、古今東西、洋を問わずある

ようで、スフインクスなどが源流のようだが、中国の獅子像などは、

左右どちらも同じような姿で、「阿吽」の対比にはなっていない。

 

 

東京国立博物館の正面入口を入って左側にある「表慶館」という

建物の入口の両脇には、ライオンの像が堂々と鎮座しているが、その

左側のライオンは口を閉じ、右側のライオンは口を開けており、「阿吽」

の配列になっている。

 

 

 

もう1つ。

 

ウイーンのハプスブルグ家の玄関にも二頭のライオンがいて、

同じように、片方は口を開け、片方は口をつぐんでいる、という

紹介が ここ のサイトに載っている。

 

 

 

そして、そこには、「阿吽」というのは、元は「アーメン」とのこと。

 

おっと、神秘主義に陥っていきそうだぞ。。。。

 

 

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」と

旧約聖書(出エジプト記 20:7)に出ていることも紹介されているが、

ん? これ、例の「言霊」じゃないけ?