写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

木鶏(もっけい) その1

2015年03月18日 | 随想

 

 

  

 

 

 

毎度のことでウンザリするのだが、野党の「政治とカネ」に関する

空疎な質問の最中に、安倍首相が「日教組は?」などと ヤジを

飛ばしたことを反省する答弁の中で放った木鶏たり得ずという

フレーズが注目された、と各社が伝えた。

 

 

首相「全く木鶏たり得ず」 やじへの反応を反省

http://nazr.in/U11

 

 

記事では

  元横綱の双葉山が69連勝で記録が途絶えた際に

  知人にあてた電報「イマダ モッケイ タリエズ」を引用。

  「木鶏」は意気盛んで心が乱れていた闘鶏が、時を経て

  無の境地に至った状況をあらわしている

 

と記してあるが、『知人』とは『安岡正篤』のことであり、

そのときの逸話が『人物を修める』(致知出版社刊)に載っている。

 

 

 

この内容が、安岡正篤のエピソードとして、

名横綱双葉山と木鶏の逸話 (安岡正篤「一日一言」)」で紹介されている。

 

 

Wiki によれば、「木鶏」とは、

「他の闘鶏が鳴いても全く相手にせず、まるで木鶏のように泰然自若。

その徳の前に、かなう闘鶏はいない」というもので

  ・他の闘鶏が鳴いても全く相手にしない

  ・木鶏のように泰然自若としている

  ・その徳の前に、かなう闘鶏はいない

という境地。

 

とても、生身の人間には・・・と思われるのだが、

この「木鶏」、知る人ぞ知る逸話であり、全国に「「木鶏会」なる勉強会が

数多く組織されている。

 

致知出版社が主宰している勉強会、「木鶏会」

http://is.gd/a9MEWq

 

主に経営者たちが、自らの人間力を高めようという意識で作られて

いるようだ。

 

間違っても、豚野幹事長のような2回目はうまくできるというような

態度の 身の程知らずには加入資格はない。

 

 

こんなんだから「鵜(う)の真似をしようとしている烏(からす)」 だ、

などと毒づかれるのである。カラダは重たそうだが、発言が軽すぎる。

 

 

ところで、本の画像を見ると、「木鶏」の「けい」という字は「」ではなくて

 

という字が使われている。

 

 

本来は、この字のようだが、ここ にあるように、もとは同じ意味の

字で、使われる場所の違いのようであり、特に問題はなさそうだ。

 

 

まぁ、使われる場所が違うと意味も違う、ということは「歴史」あるいは

「歴史観」とかにもよく出てくるようで・・・

 

歴史とは

  日本では「ヒストリー」

  中国では「プロパガンダ」

  韓国では「ファンタジー」

という米スタンフォード大学の研究がある、というから面白い。

 

 

日本=自分をネコだと思い込んでるトラ

中国=自分をトラだと自覚しているトラ

韓国=自分をトラだと思い込んでるネコ

 

という、「トラネコ問答」 というものもあるらしい。

 

 

130年前の明治18(1885)年に出されたという『脱亜論』 の

「日本の不幸は中国と朝鮮半島」という現実が情けない。