「人間には、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」
僕はこの言葉を佐藤愛子氏のエッセイの本の中で見て、そこに佐藤愛子氏の父であった佐藤紅緑氏がよく口にした言葉であり、ボードレールが言った言葉だとあったので、ずっとその1800年代のフランスの詩人兼批評家の言葉だと思っていた。
ところが5年前に、大橋巨泉氏が民主党から立候補することになった時、彼がアメリカの作家のウィリアム・サローヤンの言葉だと書いていたのでわからなくなってしまった。
ネットで検索すると、
数日前、『ダカーポ』という雑誌を読んでいたら、作家の荻野アンナ氏の次の言葉をみつけた。
「私が専門とするフランス文学を一言で言い表すとすれば、マイモラルを持て、ということでしょうか。マイモラルとは自分自身が譲ることのできない、守らなければならない掟です」
やはりボードレールのほうだったのだろうか?という気も少しだがする。
「人間には、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」という意味での言葉の「人間には」は、宇宙戦艦ヤマトに搭乗し敵戦艦と戦う時にキャプテン・ハーロック艦長が使ったような薄っぺらなものではもとよりない。たとえば、ハーロック艦長の言は、太平洋戦争の時の特攻隊員にも使えそうである。けれど、この「人間には」という言葉は、単にその時の勝ち負けではなく、その戦争に至った原因、経緯、そして戦争の本当の意味などを考えることである。従ってこの場合は、特攻隊にはならない、と意を決するほうになるのだと思う。
人生、哲学からくる、譲れない生き方といった意味であるように思う。
”勝ち組、負け組”という品性のかけらもない軽薄な言葉をマスメディアが使い出したのは6年程前からだろうか。容易に社会的地位が転落する今のような世の中であれば、「負ける」という言葉のほうは、その”負け組”の「負け」にもつながるのだろう。
けれども、そんな「負け」などどうでもいいというようなことが、人間にはある、という言葉なのだと思う。人間にはもっと大事なことがある、という意味でである。
そういう立場、状況に置かれることがない人は、幸福な人生、といえるのかもしれない。
僕はこの言葉を佐藤愛子氏のエッセイの本の中で見て、そこに佐藤愛子氏の父であった佐藤紅緑氏がよく口にした言葉であり、ボードレールが言った言葉だとあったので、ずっとその1800年代のフランスの詩人兼批評家の言葉だと思っていた。
ところが5年前に、大橋巨泉氏が民主党から立候補することになった時、彼がアメリカの作家のウィリアム・サローヤンの言葉だと書いていたのでわからなくなってしまった。
ネットで検索すると、
「男は負けるとわかっていても戦わなければならないときがある、死ぬとわかっていても行かなければならないときがある」などという、見当違いで漫画の作者が使った一節が一番多くヒットするようだ。しかし、肝腎のボードレールもサローヤンもまったく出てこない。
アルカディア号の艦橋でキャプテン・ハーロックは言った。
数日前、『ダカーポ』という雑誌を読んでいたら、作家の荻野アンナ氏の次の言葉をみつけた。
「私が専門とするフランス文学を一言で言い表すとすれば、マイモラルを持て、ということでしょうか。マイモラルとは自分自身が譲ることのできない、守らなければならない掟です」
やはりボードレールのほうだったのだろうか?という気も少しだがする。
「人間には、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」という意味での言葉の「人間には」は、宇宙戦艦ヤマトに搭乗し敵戦艦と戦う時にキャプテン・ハーロック艦長が使ったような薄っぺらなものではもとよりない。たとえば、ハーロック艦長の言は、太平洋戦争の時の特攻隊員にも使えそうである。けれど、この「人間には」という言葉は、単にその時の勝ち負けではなく、その戦争に至った原因、経緯、そして戦争の本当の意味などを考えることである。従ってこの場合は、特攻隊にはならない、と意を決するほうになるのだと思う。
人生、哲学からくる、譲れない生き方といった意味であるように思う。
”勝ち組、負け組”という品性のかけらもない軽薄な言葉をマスメディアが使い出したのは6年程前からだろうか。容易に社会的地位が転落する今のような世の中であれば、「負ける」という言葉のほうは、その”負け組”の「負け」にもつながるのだろう。
けれども、そんな「負け」などどうでもいいというようなことが、人間にはある、という言葉なのだと思う。人間にはもっと大事なことがある、という意味でである。
そういう立場、状況に置かれることがない人は、幸福な人生、といえるのかもしれない。
尾崎紅葉は「金色夜叉」の作者で、『人間には、負けると…』という台詞も似合いませんね。
名前の誤りでした。申し訳ありませんでした。
本文のほうも訂正しました。
「死んだ奴のたわごと」に処理された例のほうが圧倒的多数なのですよね。
こういう馬鹿な論説はやめましょう。
人は生きていてこそ人です。死ぬ覚悟があるのであれば、彼らの理屈によれば生きるのはたやすいらしいのです。では死ぬ覚悟より、生きる覚悟をしましょう。
ですから、雑感めいたことを書くことで返事とかえさせていただきます。
「人間には、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」と書きましたが、「戦わなければ」は「たたかわなければ」にしたほうがよいのかもしれません。
なぜなら、この言葉は現実の戦争、暴力などの「戦(いくさ)・軍(いくさ)」とは本来無縁のものだと思われるからです。
キャプテンハーロックの「男には…」の”たたかう”は、その”戦・軍”の意味が大きく、本来のその言葉の持つ人間の”生き方的なもの”、”内面の譲れないもの”というのを、誤解し、またねじまげているように思われたのです。
もう一つ言っておきたいのは、僕は「人間には、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」を論じているのであって、『宇宙戦艦ヤマト』を、また『特攻隊』を論じているのではないということです。特攻隊で例えれば、ということで特攻隊を挙げたにすぎません。キャプテンハーロックにその作者が実際に使わせているように、危険な誤解を招くおそれのあるものでもあると思ったからでもあります。
特攻隊に関する記述では、「彼らには現実の様々な情報が与えられていなかった。その彼らに正しい選択をしろというのはそもそも無理な話であり不可能だ。また仮に情報が与えられ、彼らが正しい判断をおこなうことができたとしても、当時の状況は彼らにそれをまっとうすることを許さなかった」という非難はあると思いました。
しかし、書いたように、僕は「人間には、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」を論じているのであって、特攻隊にそれをあてはめたら、ということを書いたにすぎません。
そして、もう一度言えば、「戦わなければならない」というのは、現実のイクサのことではありません。特攻隊をお上から命じられたのであれば、それに抗する、というほうなのです。
当時の状況では、それは単に国家権力にはむかうということのみならず、世の中全体を相手にすることになるものだったでしょう。戦っても、勝ち目はまずないことだったのです。「人間には、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」というのは、そういうことです。
気になったので、ネットで検索してみました。
佐藤紅緑氏は、バイロンの言葉としてるようです。
また、日本語訳が違うものもあるようです。
畑に家を建てるまで 佐藤愛子の「血脈」
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/diary7.html
北日本石油 エッセイ-「愛子先生と母」―顛末記
http://www.kitanihon-oil.co.jp/pc/essay/aiko-sensei2.htm
びっくりしたのは、福沢諭吉の言葉だと思ってる人もいることです。
今度はバイロンと福沢さんですか...(でも、正解はバイロンぽいですね。僕は愛子氏のエッセーで読んだので、もう一度確認してみますが。とはいえ、10年も前のことなので探せるかどうか)
うーん、と考えこんでしまいます。
けれど、目閉ずれど心に浮かぶ何もなし 寂しくもまた……でしょうか (笑)
これは谷村新司でしたね。いや、彼のは、「目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ」でした。上記の原句は石川啄木でした。
ご紹介の”「愛子先生と母」―顛末記”の次の一節で、佐藤愛子氏の本の雰囲気などがよみがえりました。
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どんな困難にも決して逃げることなく、その先には必ずや道が開けると信じて、真正直にがむしゃらに生きてきた作家の、真摯な姿勢が好きなのである。
ただ、正直に生きるがゆえに、バカを見る。
それでも作家は迎合せず妥協もしないで、みごとに人生の道を切り開いてきた人である。
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そういえば最近は作家のエッセーなどはまったく読まなくなりました。以前は、中学時代に佐藤愛子氏の気を惹こうと苦心されたらしい(笑)遠藤周作氏、また愛子氏と『文芸首都(酒徒?)』で一緒だった北杜夫氏のエッセーなど、とくにユモア&ペーソス系のものはほぼ読んでいたりしていたのですが、今はその北杜夫氏のご令嬢の次のようなエッセーや、日々の時事にばかり気がいって…だめですね。
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昨秋、蓮航さんと編集者A子、某省の美人キャリアと居酒屋に行き、みんなで個室に付いているお風呂に入ったりして楽しんだ。
その際、六千人の部下を持つ美人キャリアが、
「ねえねえ、やる気のない男の人をどうやってやる気にさせたらいいかなあ」
と、ぼやくのを聞いて、みんなで大笑いした。朝から夕方までボーッと働いているオジサン達をやる気にさせるのは至難の業らしい。
今、女性達の最大のストレスの元凶は、「オヤジ」と、言われている。
編集者のA子は、
「オヤジ被害なんて日常茶飯事ですよ。地方に行くと、警察の幹部の人から、『内緒で情報をあげるから』と、小料理屋の個室に呼ばれ、部屋を出る時にキスを迫られたりするんだから」
私達はビックリ仰天!
「エーッ、マジッ!?そっ、それでどうするの?」
「キスをかわして店を出ても、やたらに暗い夜道を歩いたりするの。情報収集の夜回りでは、独り暮らしの地検関係者に、『私の家に入って話をしよう』と言われ、本当に困るんだから!」
私達はビックリ仰天!
蓮航さんは怒りっぽいから、湯気を出して大激怒。
(斉藤由香”トホホな朝 ウフフの夜 「デキると思っているダメ上司」”『週刊新潮』2006.03.30号)
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北杜夫氏といえば、彼の父の斉藤茂吉翁は北氏に、
「俺とたたかう者はかならず死ぬ!」
と言っていたとか。これは論戦のことなのですが、たとえばマルクスに関する論戦の時には、『資本論』のドイツ語の原著を読破したり半端ではなかったとか。
あらためて、いろんなことを思い出したりしました。
<オヤジ被害
若い頃は、セクハラ・・・なんて概念なんてなかったので、
上司も見て見ぬ振りで・・・。
(その点、今は改善されたか?・・・と言うと、
案外そうでもないみたいですね。特にお酒の席じゃw)
下手に出て、機嫌を損ねでもしたら、上司はいきり立つでしょうが、
女性側が我慢している間は問題なし・・・と言うのはいまだ変わらないようですね。
もっと書いた筈なんだけど???(笑)
ところで、「探偵業法案」ですが、またアヤしげで問題な法案が出ているようです。
・探偵業法で取材活動に制約?!~民放連が申し入れ
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/9c0e9d22d9e90e961318506265e42094
一方、佐藤愛子氏の本の探索ですが、書棚の中をひっくりかえしてみると、出てくるわ出てくるわ…
『ひとりで渡ればあぶなくない』『エエカゲンがおもしろい』『佐保利流数学のすすめ』『チャランポランのすすめ』『まちがったっていいじゃないか』『気まぐれのすすめ』『居なおりのすすめ』『ものぐさのすすめ』『軽薄のすすめ』
僕には洒落にならない本ばかりで…申し訳ありません。肝腎の愛子氏の本はまだ2冊しか…
彼女のエッセー本は十数冊は読んでいるので、多分処分したもののなかにはいっているかも。でも、ボードレールは僕の勘違いである線が農耕(これはコイです)のようです。反省。