


6月30日に 歴史探訪情報発信のBコース「本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -日野町-」のツアーに参加してきた。
今回のテーマは「本能寺の変直後の蒲生氏郷…」と云うことになっているが、本能寺の変が起きたのは天正10年6月2日未明で、この頃なら父親の蒲生賢秀がバリバリの健在で、信長と同い年の49歳でまだ実権は握っていた。
と云うことで、先に父親の「蒲生賢秀」についてお浚いをしてみる。
蒲生賢秀は天文3年(1534年)、六角氏の重臣・蒲生定秀の長男として生まれる。母は同じく六角氏の重臣馬淵氏の女。主君である六角義賢の偏諱(へんき) をうけ、賢秀と名乗った。
永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛の途中、六角氏に協力を求めてきた。これを拒否した主君の六角氏は信長によって滅ぼされた(観音寺城の戦い) と云うより逃亡した。
賢秀は日野城で少数の兵ながら奮戦して信長軍を苦しめた。
困った信長は賢秀の妹婿・伊勢の神戸友盛(かんべとももり)を呼び、三男の信孝を友盛の養子にすると云う約束を結び、友盛から説得してもらった。 それでようやく賢秀は開城した。
降伏した賢秀は 嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となり、父祖以来の近江蒲生郡の知行安堵を受けた。
当初は蒲生郡長光寺城を預けられた柴田勝家の与騎(よりき)の身分だったが、天正3年に寄親(よりおや)の勝家が越前に移封されたが、その後も近江に留まり、以後日野城主となった。
信長は賢秀・氏郷父子をたいへん気に入り、氏郷に娘の冬姫を嫁がせて娘婿に迎えている。
後に信長包囲網が敷かれたときは六角氏から味方に誘われたがこれを断り織田方として戦った。
「誠実」、「信義」の人として定評があり、信長の信任厚く、自身が不在の折は好んで賢秀を安土城の留守居役に起用した。
しかし出身の序列上から連枝衆の津田源十郎が留守居役のトップで、次に山崎志摩守がつづき、賢秀は3番目の留守居役大将であった。

天正10(1582)年6月2日、「本能寺の変」勃発時にも、蒲生賢秀は津田(織田)源十郎信益(本丸留守居役)や木村次郎左衛門らと共に安土留守居役を務めており、賢秀自身は二ノ丸に入っていた。
「惟任(明智光秀)ご謀反」「お屋形(信長)さま宿所・本能寺炎上中」の知らせは、2日の巳の刻(午前10時頃)に早くも噂話として安土にもたらされていた。だが事実かどうかはっきりしないため多くの領民はじっと事態を見守っていた。
流言飛語は茶飯事のご時世なので、これまでにも誤報騒動はよくあったらしい。
ところが隣接する観音寺城の在京の旗頭、堀伊賀守よりの書状で、これは事実だと判断するに至った。
凶報が事実と分かり、尾張や美濃出身の者はそれぞれ出身地を目指しはじめ、城内は蜂の巣を突付いた様な騒ぎになった。
夜には留守居役 No.2 の山崎秀家までもが安土の邸宅に火をつけて領国に逃亡した。
本丸留守居の津田信益の動静は不明だがすでに姿は見えない。
賢秀は上位留守居役二人が消えてしまった今となっては自分がこの危機に立ち向かわざるをえないと悟った。
賢秀はまず城内の騒ぎを鎮めてから、安土城二ノ丸にいる信長の妻子を保護するため、日野城にいた息子・氏郷に護衛の兵を送るよう指示。
賢秀等にとって幸いなことに、明智軍が攻めてくる東海道の勢多(瀬田)橋を勢多城の山岡氏が城もろとも焼き落とした。
このため光秀が橋を修理して渡れるようになるのは早くて5日。 賢秀等が安土城を脱出して日野城で応戦の準備をする時間かせぎができた。
明けて3日、当初、安土城から落ち延びることを一部の婦人らが拒んだり、賢秀に対し安土城を退去するのであれば城内の金銀財宝を運び出し城に火をかけるようにと云うものまでいた。
しかし、賢秀は「上様(信長)が心血注ぎ作り上げた天下無双のこの城を焼くのは恐れ多く、金銀などを持ち出すことは天下の嘲り(あざけり)を受ける」と、これを拒否した。
結果として、安土城は無傷のまま一旦は明智軍の手に渡ることになった。
二ノ丸の女衆(信長の妻子、側室たち、皇女、乳母)を連れて安土城を退去した賢秀は、居城・日野城に向かった。息子の氏郷が日野城から南腰越えまで迎えに出てきていた。
このとき、賢秀一行が通った道が、安土街道で、八日市からは御代参街道を通ったと思われる。
そして居城の日野城で信長の妻子・側室らを匿い、息子の氏郷と共に明智軍を迎え撃つ準備にかかった。
私は日野城が秀郷の居城だから日野城に連れてきて匿ったと思っていたのだが、日野町のガイド(職員)さんの話では、安土城周辺の他の城も検討した結果、例えば長浜城へはすでに光秀の兵やシンパによって街道を封鎖されていてダメとかの状況になっていたらしい。そこまで考えた上での日野城への脱出だったとのこと。
この動きに対し明智光秀は蒲生父子に法外な恩賞をもって勧誘したが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと敢然と拒絶したという。
このため光秀は日野城攻撃を決めたようであったが、日野に攻め入る前にあの「中国大返し」で急遽戻ってきた羽柴秀吉に「山崎の合戦」で敗れた。
この様なタイミングで蒲生家はこの最大の危機を乗り越えた。
山崎の合戦は主戦場となった地点の名をとって「天王山の戦い」とも呼ばれている。
よくスポーツ新聞紙上て「天王山の戦い」との見出しをよく目にするが、これは頂上決戦を表す言葉で、語源はこの戦いからきている。
13日の夕刻、明智軍の敗戦が決定的となると、明智軍の武将 御牧景重(みまきかげしげ) は 明智光秀 に撤退して再起を計ることを進言、これを受けて明智光秀は戦場から逃走した。
御牧景重は殿(しんがり)となって戦ったが討ち死にした。
逃走した光秀であったが同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民の落ち武者狩りに竹槍で襲われて、あえなく落命した。
本能寺の変からわずか11日で、明智光秀の天下は終わることとなった。
このことが、いわゆる「光秀の三日天下」であり、「三日天下」の語源とされる所以である。
明智光秀は死したが、まだ居城の坂本城まで危険な道中が続くため、家臣の溝尾茂朝(みぞお しげとも) は光秀の首を城まで持って帰ることは出来ないと判断して、その付近の藪の中に埋めて弔ったと云う。
このため、明智光秀のものだとわかる遺体も、首も見つかっていない。
奇しくも信長、光秀ともに遺体も首も見つから無いと云う結末となった。
その後、家臣の溝尾茂朝と、安土城を守っていた明智秀満は明智家の居城 「坂本城」 に帰還した。
そして、城に火を放ち、明智光秀の家族と共に自害した。
明智光秀の一族は滅亡し、光秀の野望はここで終わりを迎えた。
余談ながら、天下無双の「安土城」も炎上した。誰が火を放ったかは、今も「謎」で、これについても諸説いろいろ取上げられている。
話しは、蒲生賢秀だけでなく、その周辺以上に拡大してしまったが、これも大きな事件の顛末ゆえ致し方ないか。
蒲生賢秀は、「本能寺の変」の二年後の天正12年(1584年) 4月、51歳で死去した。
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