細菌戦の系譜!!

2023-05-13 14:11:56 | Weblog

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

             伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

 

実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

本所職制改正

この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。

特別研究室とは何だ??

 

 
実験医学雑報22巻 第1号(1938年)

昭和13年元旦式辞      宮川米次

 
 支那の家屋には普通は便所がありませぬ。日々の用便は想像の限りであります。支那人は松を不浄の樹となし、松のある所は必ず墓地であります。それを新春の祝いに使用する日本人の気が知れぬと言われたのも尤もであります。これと同様に亀は淫乱の表徴動物としていて非常に嫌う。(最も日本にも出歯亀のごときがありましたが)。この辺 私にも何れに真理があるのか解りませぬが、結婚式に鶴亀の曲などを歌うことをは、支那人には一大禁物であるらしいのであります。この様な事例を求めたら数限りなく沢山あります。要するに支那人を吾等と直ちに同文同種のものとして、簡単に片付けることには私は却々(なかなか)に賛成ができませぬ。今後日支間は益々緊密の度を加えなくてはなりませんぬ。少とも吾々は今春より直接それに携わることになってきましたから、新春初頭において支那人になるものを善く御了解しておいて頂くことが非常に大切と存じます。
 以上を以て聊か新年の式辞と致します。


     

 

1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
 

浜一中大福餅事件

               

浜松一中の慰霊碑

 

大牟田の慰霊碑(裏)

 

(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」

 

<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。

 

 

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

                    北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)

 

 

赤痢予防錠について

 

 陸軍軍医学校にて石井四郎は防疫部、防疫学教室で、赤痢、コレラ、ペスト菌の研究、開発を進めていました。その後、防疫給水部731部隊で兵器化しますが、赤痢予防錠(経口ワクチン)という名で開発した、人体実験を繰り返しながら(兵士に持たせる)量産体制に入っていく。

 時は1931年満州事変。

 この赤痢予防錠は通常のワクチンに比して、1人当たりの細菌の量が2㏄で、この為副作用が強いものであった。ワクチンとしての効果はほとんどないもの。

 だが、大量生産の為、石井四郎が考案した細菌培養缶(特許出願1932年1月、許可1933年4月17日、許可番号100615号)を防疫部は1934年まで115個製作し、大量生産にあたった。

 24万人分の生産を保存し、1937年当時、熊本、久留米の師団、連隊に保存。

科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)
 
 

   





 
 
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?
 
 

 


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