「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
原爆
もう半数の150人は、爆心地から900メートル弱の場所にあった校舎で自習をしていました。爆風で木造の建物は押しつぶされ、生徒たちは下敷きになりました。熱線によって、崩れた建物に火がつき、生徒は「お母さん」「天皇陛下万歳」などと叫びながら焼かれていきました。
下敷きになった150人のうち、数十人は何とか脱出し家族のもとに帰ることができましたが、1週間ほど経つと頭髪が抜け、歯ぐきから出血するなどの症状が現れました。建物を通り抜けた放射線が、生徒たちの細胞を傷つけていたためです。白血球がつくれなくなるなどして、免疫機能が極度に低下し、感染症に襲われました。また、全身で内出血が起こって体中に斑点が生じ、腸の内部が崩れるなどして、下血が始まりました。生徒たちは衰弱し、亡くなっていきました。
原爆が使用されたのはなぜ?
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
宮川米次
3、興味ある細菌学的所見
ジフテリア菌に関する研究
(ニ)球形ジフテリア菌
Polonyi(C.f.Bac.141,1938)は、本菌の24時問培養のものを久しきに亘って観察すると、終に球形に変態するということを見出し、2-3-5週間目、時には9ヶ月目に完全に球形に変化し終わった終わったというている。然し、この物をLoffler等の培地に移すと「コリネ」型に変わって来ることも認め、且つ、氏は本病の感染は常に他よりもたらされる菌のみによらずして、自個体に有しているこの種の菌が何等かの原因で発病の因を為すことも決して少なくないというている。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
Ⅱ
そして、同夜租界周辺に3万3500の兵力で駐留して海岸沿いに展開していた第19路軍に戦いを挑んだ。中国軍は陸戦隊に大きな打撃を与えた。艦隊から兵員を増強したにもかかわらず、戦況の好転は望めず、海軍は陸軍に支援を要請しなければならなくなった。犬養は上海への派兵命令について天皇の裁可を得たが、中国軍は依然、頑強であり、ふたたび大きな損害を被った。東京の参謀本部は、白川義則大将のもと、強力な上海派遣軍を編成し、2個師団を増派した。激戦が展開され、結局、中国軍が撤退したことで、日本は面子を保って停戦を声明することができた。停戦に引き続き、1932年5月5日、イギリスが加わった交渉により中国側のボイコットも終わった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます