1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
<iframe src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x7ulhlc" height="360" frameborder="0" data-blogger-escaped-allow="autoplay" data-blogger-escaped-allowfullscreen=""></iframe>
検証・中国に於ける生体実験
東京帝大医学部の犯罪 美馬聡昭著 桐書房(2013年)
第4章 伝染病研究所と「実験医学雑誌」の雑報
日中戦争始まる
宮川米次は、1937年6月1日を第1回目の伝染病研究所記念日とした。その式辞(雑報、21巻6号)で、彼は「各国にも記念日がある。わが国では、神武天皇が即位した2月11日を紀元節としている。また東大は、従来帝大学令の発布した3月1日を記念日にしていたが、本年(1937)から、4月12日に改正した。まだ伝病研究所には記念日ない。6月1日を伝染病研究所の記念日としたい。この日を選んだ理由は、官立の研究所創立されたのは1899年3月1日であるが、芝公園内の研究所が、この地に起工したのが1905年6月で、竣工したのは1906年6月であった。ところが関東大震災(1923年9月1日)で大破して使用不能になり、現在の庁合は1931年6月に起工し、1934年6月に現在の新庁合の竣工にいたった」と述べた。