「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
731部隊
ニュース257号
原爆被害の概要
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下されました。
原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。
原爆被害の概要についてもっと詳しくお知りになりたい場合は、ヒロシマ・ピース・サイト(広島平和記念資料館ホームページ)をご覧ください。
日航123便の怪(1985年8月12日)
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報4号(23巻、1939年)
学友会へ寄付
金14円14銭也 細谷省吾君
金9円24銭也 細谷省吾君
金60円03銭也 佐藤久蔵君
金16円77銭也 小田通男君、新井三九雄君、宮崎正之助君、松兼正司君、須藤正君
金22円39銭也 西尾憲三君
金14円63銭也 関谷重徳君
金20円34銭也 木村政長君、臼杵仁君、佐々木英一君
金11円11銭也 宮本正治君
金18円97銭也 佐藤久蔵君
金131円20銭也 矢田興久君
金22円48銭也 真鍋清明君
金50円15銭也 吉永元三郎君
金115円48銭也 西尾憲三君
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
その時点で、天皇はわずかな機会ではあったが、金谷参謀総長、南陸軍大臣を通じ現地軍が錦州に総攻撃をかけるのを止めさせるために決意ある行動をとった。しかしながら、東京の参謀本部が満州三省に「独立した」中国の政権を設立し、将来のソ連侵攻に備え日本軍を満州北部に配置できるようにしたいという関東軍の考えを承認したとき、天皇も、宮中グループも何ら異を唱えることはなかった。11月23日、幣原はニューヨークのAP通信に虚偽の声明を送り、事変勃発の責任のみならず、満州北部斉斉哈爾(チチハル)、哈爾濱(ハルピン)占領も責任は中国側にあるときっぱり表明した。「日本軍は鉄道周辺の単なる飾り物ではない」と彼は宣言し、「中国軍が攻撃して来た時、日本軍は彼らが当地で与えられた職務を遂行せざるを得ない、つまり、攻撃に反撃し、敵の反撃を防ぐ」と言明した。