●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
三月一日
晴 風少々、零下十度。日曜外出 カフェーモダ帰営時間は一杯也。ずいぶん危ないもの。
朝から床の中 戦友が大勢来ていじめて仕様がない。胸の方は痛くもなし 日曜に来ている僕も初めは行く気でもなかったが、陽気な春日に誘われて武田と共に遊びに行く 本当にのんびりした。日曜だ 一ヵ年と三ヶ月ぶりに床屋に行った 中隊で床の上で顔を剃るよりもはるかに心持ちよい
「一つ軍人は質素を旨とすべし」主旨に反するが 時には良いからね。顔至晴れ晴れとして街も輝いて見える そして行ったところはモダン 午後二時から五時十五分まで遊んだ 気の利いた女給はいないが流れ損なった腕のものだけにもてなしは悪くない 榊原の奴さんには閉口した。青柳に身を置いたり尖端ガールの唄に心を取られたりして―楽しい一日は終わった 後五分で営倉に入らねばならない時間になって帰って来た。
1 広島への最初の旅
しかし代表たちの群集は次第に弛緩してくる、彼らは基調報告を受け入れていない。反発しやじる者さえいる。それは老哲学者が勇敢に、一番危険な命題を避けることがない、ということを示している。≪いかなる国・・・≫について彼は語る。核停条件についてもそれが評価されるべきだと、彼は言う。反発のざわめきと、決して多くは無い拍手がある。ポラリス潜水艦、F105Bに基調報告が触れる時、初めて、あの大喝采が公園一杯に拡がる。これら2万名の人々が熱情に駆られて、この広島の夏の盛りの原爆慰霊塔の前に集まって来たこと、彼らが日本のあらゆる地方で重ねてきた努力、そして彼らの一人一人の人間的エネルギーの総量の圧倒的な量感、それらに僕が深い印象を受けていることは確かだ。しかし僕は又、彼ら2万名と広島原水協及び被団協の代表である老哲学者の間に、覆い隠すことのできない断絶があり、基調報告が読み上げられる間も次第に、その断絶は確固となってゆくのを感じて、暗然としないではいられないのである。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・
鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。
昭和13(1938)年3月、15歳だった私は盛岡で少年航空兵の募集があると知り、親父のタンスから金を失敬して、県の公会堂へ行きました。そこで身体検査官として来盛中の増田大尉と降籏軍医中尉に、「お前は俺が面倒見て育てるから、俺の所に来い」と言われて、その年の6月に私は東京の陸軍軍医学校に行きました。
●『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
四 細菌兵器製造の為の大がかりな鼠類収集
康徳12年度興濃部・文教部・協和会中央本部軍用畑栗鼠(はたりす)収集要領(1945年2月24日)
第3 措置
畑栗鼠の捕獲、飼育、検収方法などを指導並びに研究する為、収集開始の前に、部隊及び興農部から要員を派遣する。
この捕獲業務に関しては、協和青少年団も協力しなければならない。
(1)149,1
原注:1945年春、日本帝国主義は降伏を前に、失敗に甘んじず、中国とソ連に対して大規模な細菌戦を行い、中ソ両国の軍民を虐殺する準備を積極的に進めていた。本文と、「満洲国」政権が大衆を使って大掛かりな鼠捕獲を行った事に関する幾つかの資料は、この事実を示すものである。731部隊は30万匹の鼠類を使って細菌を製造しようと計画していた。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第1章毒ガス兵器の製造と教育
3 民間企業は毒ガスの製造にどのように関与したか
民間企業で毒ガスとその原料を製造
表9 陸軍の毒ガス兵器関係の軍需品を納入した民間企業(1934年)
民間企業名 陸軍軍需品納入内容
1、旭電化工業株式会社尾久工場(東京府) 主要原材料、化学戦資材
2、共同ゴム株(東京府) 特種被服、化学戦資材
3、桜組工業株(東京府) 特種被服 化学戦資材
4、大日本人造肥料株王子工場(東京府) 主要原材料、化学戦資材
5、大日本活性炭株(東京府) 主要原材料、化学戦資材
6、月島機械株本社工場(東京府) 化学戦資材、航空器材
7、東京護膜株(東京府) 特種被服、化学戦資材
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第1章 「陸軍科学研究所」-日本の毒ガス兵器のゆりかご
臨時毒ガス調査委員会
委員会の存在と同時に、当委員会であり日本陸軍軍医学校軍医の小泉親彦も毒ガスの防護方面の研究をしていた。彼は自分の実験室の中に毒ガス実験の設備を作っており、各種の防毒マスクの効果について試験を行った。試験中彼自身が毒ガスにあたって倒れ、50日間入院したが、その後新式の防毒マスクの制作に成功し、陸軍の検査を経て制式化された。1918年から1919年の間、この種の防毒マスク約2万個がシベリアに駐屯してソビエト革命に干渉していた日本軍に送られた。
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