※Internet Explorer よりグーグルクローム(Google Chrome)で見るとスムーズに画面が動きます。
●731部隊
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展
秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!
“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”
どうして731部隊や南京大虐殺についての歴史教科書の記述が薄いのですか?日本が反省していない証拠ですか?
そうです!!
安倍は「皆、731・裕仁の犠牲者に対し責任を負う」と言うべきではないのか?
独首相「皆 ナチスの犠牲者に対し責任負う」
なぜ、マスコミは731問題を取り上げようとしないのか?90年代、2000年代初頭にかけてはがんばってやっていたではありませんか?
マスコミに安倍自民から圧力がかかっている?それとも自主規制?
政府は、「秘密保護法」を撤廃して、731その他戦争資料を全て国民の前に公表しなさい!!
●脱原発!!小出裕章先生:そもそもそんな道(集団的自衛権・戦争加担)に行くのが間違えてるとは思います
●731部隊について、多くの書物・証言・映像などがあり、また、「731部隊展」や1980年代~2000年代の初めまで、裁判もあり、国民の多くはその様子を注視し、事実である事を知っている。
中国では、いろいろな史料が公開され、731部隊の建物も復元されるつつある。密約があったとしても、この事実は隠せない。
ところが、政治というものは、本当にこわい。敗戦後米国に全ての731部隊の研究資料を渡すことを条件に、米国は昭和天皇と731部隊等の細菌戦の部隊員の戦争責任を問わないという裏取引をし、日本にとって都合の悪い事実を隠蔽し続けている。
今回の安倍の訪米を見ていて、つくづくそう思う。政権を再び奪取すると、すぐに秘密保護法を作り、731の史料を隠す。訪米前の日本医学会総会では、731の事は公然の秘密として、今までと同様に絶対に取り上げさせなかった。そして、訪米し、天皇制護持と731の密約、同盟の強化を再確認すると、あの戦争に一番深く関係した裕仁(ヒロヒト)の誕生日に、日本の総理大臣として初めてアメリカ議会上下両院の合同会議で行った演説を行った。(いくらロビー活動にお金をばら撒いたのか知らないが?)その演説の中身では、米国従属と取れる安全保障関連法案を今夏までに成立させると明言してしまった。それは、日本の国会で全く審議もしていない法案であり、成立を約束するなど国会無視の言語道断の暴挙だった。731部隊等に関し、日本の医学者(ノーベル賞受賞者、東大、京大の先生等々)からの謝罪、反省なし。お国の為に、医学の発展の為にやった?
“地獄の沙汰も金次第”とはこのことだ。731で残虐な事がいくら行われようと、関係ない。金と権力を持っていれば、何とでもなる。
実証主義も関係ない?密約を結び、情報を隠してしまえばそれでいいのか?正義も道徳も倫理もないのか?
●【5/9】第15回 水俣病記念講演会
1956年5月1日に発生が報告されて以来半世紀、水俣病は日本が強引に近代化を進める中で惹き起こされたために、またあまりに悲惨であったために、現在もなおこの社会を鋭く問うています。・・・
「いま、人として」
2015年5月9日[土]午後1時―4時30分(12時30分開場)有楽町マリオン朝日ホール
・チッソと雅子
雅子の母方の祖父江頭豊は60年代取締役、70年代会長、相談役の要職にあり、水俣病の原因が工場にあると知りつつの操業をとめようとしなかった。
・チッソと昭和天皇
チッソは、戦前朝鮮で電力事業を手がけ、大もうけした。
1931年と1949年に昭和天皇はチッソ水俣工場に行幸した。
・1942年確認できる最初の水俣病患者が発病
・田宮猛雄とチッソ
北野政次731部隊2代目隊長(東大卒)が戦後東大伝研に現れたとき、それを庇護したのは田宮猛雄伝研所長であった。田宮は日本医学会の大ボスで、多くの伝研所員を「徴兵逃れ」を餌に731部隊や同仁会に送り込んでいた人物。
昭和20年9月2日、東大助教授A(伝研2部)は1644部隊(南京栄部隊)で行った人体実験を苦にして自分の研究室でガス自殺をしている。(以上「731部隊細菌戦の医師を追え、高杉晋吾著より)
「医学界主流にあった東京大学医学部を中心として作られた田宮委員会は、水俣病つぶしの有力な手段であり、日本化学工業協会とチッソから研究費をもらっていたが、表に出ないもくろみは、米国の公衆衛生院(NIH)から熊大へ支給された三万ドルの研究費をねらったらしいことが、複数の関係者の証言で裏づけられる。」医学は水俣病で何をしたか 宇井純より
日本人を大量虐殺した天皇家の皇太子妃・雅子の一族
水俣病Q&A
水俣病
●陛下の戦争
治安維持法等で「思想の自由」「良心の自由」は奪われ、ただただ国民は「天皇教」に帰依せざるを得なかった!!
陛下の戦争
●戦犯で処刑された東条英機は、天皇の「忠臣」ではなかったか?
・内閣特別顧問である退役した満州の戦略家石原莞爾は、町から町へ敗戦を説明するための特殊任務に任ぜられた。・・・彼の演説の主調低音は単純なものだったー前総理大臣東条が戦争を引き起こした、他の誰も責任はない。石原と東条は1930年代に天皇の寵を争うきびしい好敵手として活動した。東条が勝った。・・・(「天皇の陰謀」(上)p153)
・(東京裁判で)
東条「私の知る限り、そういう事例はありません。のみならず、日本国の臣民が天皇の御意志に反して行動する事などあり得ず、まして日本政府や、日本国の高官においては尚更ありえないことです。」(「天皇の陰謀」(上)p229)
・学徒出陣の式典で東条は「天皇陛下万歳!!」を三唱しているではないか?「ハイル、東条」ではなく、「ハイル、天皇陛下」と。
学徒出陣 1943年昭和18年10月27日【日本ニュース】
●特別取材:日米は731部隊の細菌戦の罪を密かに覆い隠している―日本人学者、近藤昭二氏を取材【新華社東京4月27日】日本のNPO法人「731部隊・細菌戦資料センター」の共同代表、近藤昭二氏が近ごろ新華社記者の取材に応じた際、日本は戦後米国に全ての731部隊の研究資料を渡すことを条件に、米国は昭和天皇と細菌戦の責任者の戦争責任を問わないという裏取引を行っており、今日まで日本と米国はまだ関連史料を公開していないと語った。
近藤氏は次のように語った。日本への戦後統治を順調に実現させるため、米国は日本の天皇制を維持させる必要があった。天皇の戦争責任を問わないという点で、日米は利益において合意に達していた。同時に、ソビエト連邦に対抗する必要により、米国は731部隊の研究資料がソビエト連邦の手に渡るのを見たくない。石井四郎(731部隊の創始者)はこの機に乗じて米国に交渉を持ちかけ、この裏取引が最終的に成立させた。日本は全ての731部隊のデータ資料を米国に渡し、また米国は昭和天皇と石井らの責任を問うことはなかった。
「私はかつて極東国際軍事裁判の審判に参与した米国人検察官と自ら話をしたことがあります。その検察官の話によると、東京に到着する前に、彼の上司であるキーナム(音訳)氏が天皇の戦争責任は問えないと伝えていたと言っていました。米国は最初から天皇制の維持を決めていたんです」と近藤氏は語った。
近藤氏は、細菌や毒ガスなどの生物・化学兵器は経済的且つ実利的で、銃砲と比べ殺傷能力や致死率が高く、自然資源の乏しい日本にとってはたいへん魅力があった。当時、国際社会では細菌兵器や毒ガスの使用禁止が取り決められていたが、日本は厳守しなかったと指摘している。
近藤氏は「生物・化学兵器の研究は非常に危険で、その濫用を阻止できるのはつまり倫理です。倫理の厳格な制限がない場合、戦時に731部隊が行った細菌戦が繰り返されないとはとても保証しかねます」、「私たちは必ず厳格な審査機関を設立することで関連の研究が生命理論に合っているかを監督しなければなりません。そして過去の歴史に対して厳格な検証を行うことが、ちょうど倫理体制を構築させる重要な材料となるのです。」と語っている。
731部隊めぐる日本と米国の密約、ジャーナリストの近藤昭二氏語る
・・・・また、「当時、中国の東北地域に設置された捕虜收容所には、米国人捕虜もおり、731部隊軍医の実験対象になった。それにより死亡した米国人も、後遺症が残った米国人もいる。戦後、それら米国人兵士は経験したことを、米国政府に訴えたが、米国は日本との密約があったため、それらを覆い隠した」という。
近藤氏は、「米国が、自国の兵士も731部隊の迫害を受けたことを知っていたにもかかわらず、それを覆い隠し、密約を交わしたことを、世界に知られたとすれば、結果は大きく変わっていた。米国政府にとって不利になる。現時点では推測にすぎないが、日本にとっても、米国にとっても、731部隊の事は秘密にしておきたい問題。今でも密約は密約で、両国ともに関連の資料を公開することは今後もないだろう」との見方を示している。
日本で医学シンポジウムを開催、731部隊などの医学犯罪問題について討論す
日本の「医の倫理」-過去・現在・未来-企画実行委員会は12日、京都で医学シンポジウムを開催し、日本の医学界が現在、中国侵略旧日本軍第731部隊の悪行を含む医学犯罪を消極的に隠蔽する姿勢に疑問を投げかけ、学界が戦時中の医学犯罪を検証し、歴史の事実を直視することで、医学界の医学倫理に欠ける現状を是正するように呼びかけた。
・731部隊の罪を暴き続ける、ペスト被害の生存者たち
●ニュース
フランスのメディア:日本側の懺悔は足りない
「国の借金」1053兆円=過去最大、1人当たり830万円―14年度末
米で安倍さんが演説した見返りか?
日本がオスプレイ17機を購入、南西諸島防衛に投入で中国と対抗・・中国ネットは「いつも墜落するヤツな。日本も気を付けな」
米軍のオスプレイ、本土に配備へ 年内にも横田基地に
<辺野古基金>共同代表に宮崎駿氏と鳥越俊太郎氏
日本の世界遺産申請に韓国が猛反対=「朝鮮人労働者の血と汗と涙を忘れてはならない」―中国メディア
植民地時代の「国債報償運動」 世界遺産登録目指す=韓国
ロシアの学者「第二次世界大戦は日本の中国侵略から始まった」=中国ネット「よくぞ言ってくれました!」「ソ連も中国を侵略したくせに」
安倍首相の訪米は成功したが、歴史問題めぐる欧米の歴史学者からの批判で米国との同盟関係を損なう可能性も―英紙
元慰安婦の女性、米グレンデール市の慰安婦像を訪問「謝罪の言葉を聞くまでは200歳になっても生きる」―米紙
韓国、慰安婦資料の世界記憶遺産への登録目指す、被害国と連携へ―中国メディア
●「君が代」は歌えない!!
『君が代は歌うべきだと思いますか?』 田原総一朗
上記のビデオで新しい国歌制定の動きがなかったのか、なぜ盛り上がらなかったのか?ということが疑問として投げかけられている?
・国歌制定の動き
1、1951年1月、「君が代」にかわる「国民主権」に基づく新しい国歌を作るという目的の為に、日教組の中央委員会で提案され、公募された。その結果「緑の山河」に決定し、日教組の教研集会や一部の小学校の運動会などで使われた。ところが教育委員会の圧力がかかり、衰えて行った?
「日教組が組織を挙げて公募して、広めてきた「新国歌制定運動」に対して、何等総括もなく、いつの間にか歌わなくなりましたじゃすまないよ、ということです。」(「日の丸・君が代」が人を殺す!北村小夜・天野恵一著、社会評論社)より要約
※今現在の取り組みについては分かりません。
2、敗戦後の1953年、壽屋(サントリーの前身)の社長:佐治敬三が中心となって、新国家、新憲法にふさわしい新しい国民歌(国歌)を作ろうという呼びかけが行われた。その呼び掛けに応じて、全国からよせられた5万点を超す応募の中から選ばれたのが「われら愛す」である。
NHKなどの洗脳放送が功を奏しているのか、主権在民にそぐわない「君が代」が当たり前のように演奏され続け、そして強制される現在、長く地下水脈のように歌われてきたこの歌は、再び新たな国民歌(国歌)の第一候補として、注目をあび、歌われようとしている。
この歌が、現在の閉塞状況からの脱却を願う多くの市民の口から、大きな声で歌われ、再び新国歌制定の大運動になったとき、「アラブの春」「アメリカの99%」の人々の運動に続く、「日本の春」は現実のものとなるだろう。
(曲は{われら愛す}→検索)
作詞=芳賀秀次郎
作曲=西崎嘉太郎
編曲=高浪 晋一
一、われら愛す
胸せまる あつきおもいに
この国を われら愛す
しらぬ火 筑紫のうみべ
みすずかる 信濃のやまべ
われら愛す 涙あふれて
この国の 空の青さよ
この国の 水の青さよ・・・・・
・天皇制をアメリカが認めた責任は大きい。
731のデータと引き換えに、天皇の戦争責任を問わない事と731部隊の免責をアメリカがしたことに、そもそも問題の根幹がある。
戦後、天皇制が残ったため、戦争の反省が十分為されなかった。昭和天皇が戦争を主導し、負けになると証拠を、焼却してしまった。
アメリカは天皇といろいろな取引をした。(全て極秘)
皇族方も多くが戦争に中心的な役割を担って参加していた。
ここが、戦後、裁判で裁かれる事なく、残ったために、財界・経済界とのつながりは戦前と変わらず、裁かれなかった日本軍幹部もそのまま残り、あの戦争のことを隠し、自衛隊などで活躍し、靖国に参拝し公然とあの戦争は「自存自衛のための戦争」と言ってはばからなかった。
天皇制の国家がそのまま存続したものだから、また「君が代」が復活し、人々を苦しめている。
・そう!「君が代」ではなく、「民が代」です!!上記のビデオで竹田恒泰という元皇族の子孫の方がしゃべっているが、この人の祖父は、竹田恒徳ではないか。
君主国家だから「君が代」を歌うのは当たり前だというような発言をしているが、祖父が戦中どんな事をやっていたかを「君が代」を語る前に調べて、国民に公表してもらいたい。
『死の工場』(隠された731部隊)シェルダン・H・ハリス著 p227~228にはこう書いてある。
1964年4月、『ジャパン・タイムズ』は、裕仁のいとこである元皇族の竹田宮恒徳を、日本の「スポーツ好きなプリンス」として人物紹介した。・・・しかしこの記事は竹田宮の経験のうち重要な部分をカバーしなかった。竹田宮は20数年前、日本占領下の満洲で任務に従事した。そこで彼は、首席主計官として、関東軍において戦時に設置された重要なポジションについた。そういう地位の人間として、彼は満洲におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。彼は平房を頻繁に訪れたが、その際、宮田武中佐と名乗っている。おそらく竹田宮・宮田中佐は、自らの任務を果たすために、満洲にある他の死の工場も視察したはずである。
竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は、関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の施設支部を訪問する許可を与えるかどうかを決定する事であった。・・・・
●731部隊めぐる日本と米国の密約、ジャーナリストの近藤昭二氏語る
「731部隊はどこまで明らかになったか、この部分はまだ謎」
4月26日近藤昭二講演 001
4月26日近藤昭二講演 002
4月26日近藤昭二講演 003
4月26日近藤昭二講演 004
4月26日近藤昭二講演 005
●映像でみる731部隊とは
(参考)黒い太陽731
終戦50年特別企画
731部隊(アメリカとの取引き・戦犯免責の経緯、部隊員の証言等)
知ってるつもり「731部隊と医学者たち」
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
●731に関係する簡単な映像作品を作ってみませんか?
もし、戦争にでもなれば、自衛・侵略戦争にかかわらず、原発は狙われ、甚大な被害を蒙る。その結果、人類が地球上に住めなくなる可能性も出てくる。それよりも、交渉の手立てをきちんと考えて解決できないものか?
戦争がエスカレートすると、前の大戦のように、国民は総動員され、国際条約は無視され、手段を選ばず、生物兵器・毒ガス(化学兵器)・核兵器等を使い、相手に打撃を与える事を考えるだろう。地球の環境破壊は計り知れない!!国民はまたもや天皇の股肱(ここう)となり、自衛隊(軍隊)が最終的に守るのは、天皇家と政治家と霞ヶ関ではないのか?国民は捨石になる。
●東京大空襲
政府は被災者に何の補償もしない!!
1945年の春を過ぎると日本民衆はこれ以上持ちこたえることが、いよいよ出来そうもなくなってきた。3月9日から10日にかけてアメリカの太平洋空軍は、B29、334機で最初の焼夷弾による夜間空襲を東京の人口密集地に対して行った。首都の約4割が灰燼に帰し、推計8万から10万名が焼死した。火災はすさまじく、そのため河川は沸騰し、ガラスは溶け、そして熱風にあおられて墜落した爆撃機もあった。9日後の18日、昭和天皇は侍医と侍従を伴い、車で首都を視察した。当時、別の車で随行した吉橋戒三時中武官は、後に罹災者の様子を次のように回想していた。
焼け跡を掘り返している罹災者のうつろな顔、うらめしそうな顔が、お辞儀もせずに御車を見送っている。平時の行幸とは違って予告していなかったとはいうものの、菊の御紋章をつけた赤塗りの自動車が、3、4台も通るのだから、行幸であることが判りそうなものなのにと思ったりもした。肉親を失い、家財を焼失した罹災者達は、陛下を恨んでいるのか、それとも虚脱状態でただボーっとしているのか、この不幸な人たちを真近にご覧になる陛下の御胸中はいかばかりかと、拝察したわけである。」p118「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)
※裕仁はまだ戦争を続行する。国民の苦しんでいる姿に同情もないようだ。(天皇家の資産管理に余念がなかった?)
「沖縄戦で甚大な損害を被り、アメリカ軍の焼夷弾爆撃により60以上の都市をあらかた焼け野原としてしまってから、ようやく昭和天皇は和平の希望を示唆し、戦争終結の方途を模索し始めたのである。」p120「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)
東京大空襲
最高裁で敗訴が確定した東京大空襲訴訟が問いかけたもの 戦争被害を国民は受忍できるのか
※以前の東京大空襲は記事は「昭和天皇」に移しました。
●敗戦前から敗戦後の流れを想像してみると?
・東京大空襲のみならず、地方の各都市も空爆にあう。また最悪の地上戦沖縄。そして、原爆だ。どうしてご聖断?(敗戦)が遅れたのか?その答えは、国体護持(天皇制存続)のためだ。このために多くの人たちが犠牲になった。731では施設の破壊と同時にマルタと呼ばれる人たちを全て殺して、隊員はいち早く日本へ引き揚げた。(国体を護持するための証拠湮滅)
・アメリカは、戦争中から日本人が天皇を神とあがめている事を知っていた。それを利用して占領統治円滑に進めようとした。日本とアメリカは敗戦前から、交渉を極秘にしていて、日本政府も空襲の事、原爆投下の情報をあらかじめ入手していた。そして広島に原爆が投下されるときに、畑俊六(当時第2総軍司令官)に第2総軍を広島に集めさせ、敗戦後に日本で天皇制打倒の反乱が起きないように壊滅させた。
・広島に原爆が投下されると、アメリカに心象をよくしようと日本医学者(石川太刀雄丸等、731からも参加)が現地に入り、原爆の被害状況(核兵器の破壊力・人体に対する影響)を調べて181冊の報告書を作成し英文にしてアメリカに敗戦後渡した。(治療はほとんどしない、731の免責をねらう)
アメリカは、原爆の被害の実態の公表などの報道を全て統制し、隠し続けた。治療は行わずABCCを発足させて、731関係者なども参加させて、人体に対する放射能の影響を極秘に調べた。「日本は核兵器の非人道的な訴えを国際社会に向かって発言しない」ということも731の免責をする条件の中に入っていたのでは?
平和とは人間の生命を 尊ぶことです。
(参考)「日本のいちばん醜い日」p524~525
次に藤田尚徳の「侍従長の回想」を引用する。蓮沼侍従武官長の奏上を聞く場面である。
陛下には蓮沼侍従武官長から奏上したが、〔略〕新型爆弾については、特別なおたずねはなかった様子だったが、広島市全域の報に、陛下は深い憂慮の色を浮かべておられた。〔略〕8日朝、東郷外相が決意の色を浮かべて参内してきた。そして御文庫地下壕の御座所に進んだ外相は、原子爆弾に関する米英の放送を詳細に言上すると、陛下は原子爆弾の惨害をよく知っておられ、次のように、一刻も速やかに和平を実現する事が先決問題である点をお示しになった。
天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ヨハンセン(吉田反戦グループの略)・グループはスティムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、その都度天皇に報告していたからである。
では、どうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理を付けられる見通しがたったからである。
東郷茂徳も天皇から“急げ”と告げられ、赤十字との交渉を急いだ。グルーはヨハンセン経由で天皇に8月6日の原爆投下の予定を告げていた。東郷茂徳は8日、天皇に会い、最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資産は凍結されますが、遅くとも3~5年後には凍結を解除してくれるとスティムソンが申しております・・・」と言ったはずである。それから天皇と原爆を“天佑”として終戦工作に入るべく相談したに違いない。(以上、引用)
8月14日から15日には宮城で某宮様が中心となって偽装クーデターを起こさせ、近衛師団長を惨殺し、偽命令を出したが第1総軍がおさえた。そして阿南(あなみ)陸相を自決させ、降伏の段取りをした。(天皇の敗戦の段取り?)
マッカーサーの主張などによりアメリカは、秘かに天皇制護持を容認し、日本の占領政策を円滑にいくようにして、731などの戦争犯罪で天皇に戦争責任が及ばないようにした。天皇とマッカーサーの極秘の会談は11回に及んだ。決して公開されることはない密約が多数存在するのでは?
アメリカも日本に配慮し、マッカーサーの日本上陸を余裕を持たせた。それまでに日本政府は、天皇の戦争責任に関わる極秘文書を焼却した。
・1945年8月30日にマッカーサーが厚木飛行場に降り立った時、「ジェネラル石井はどこにいるか?」と言って、部下にその行方を探させた。
・アメリカ占領軍の上層部は、石井四郎を早くから探し出し懇意にしていた。1945年11月20日行方不明のはずの石井四郎と若松町の石井の家で6名の米軍将校と会食をしている。
・占領軍上層部は中国の情報や日本人捕虜によって人体実験・細菌戦の情報の大まかな部分はつかんでいたが詳しい情報は得ていなかった。
・占領軍上層部は、天皇を利用した占領統治を優先するため、天皇の戦争責任が問われる問題は、東京裁判では取り上げなかった。
・731部隊の事は、細菌兵器開発に後れを取っていたアメリカが、極秘に調査団を送って調査させた。
・731を調べる調査団が来日したが、サンダース、トンプソンの時は、731部隊員は人体実験の事を極秘命令なので口を割らなかった。
・1947年1月、ソ連が柄沢の供述から、人体実験の情報を得たので、石井の訊問を要求した。アメリカは、事前に石井から人体実験の情報を聞き出し、ソ連には、アメリカと組み、うまく芝居を打って情報を与えなかった。
・1947年6月にアメリカは、731部隊の人体実験に関するフェルレポート、12月にヒルレポートを作成した。
・GHQ法務部のニール・スミスが、「捕虜に対する人体実験及び解剖」という明確な罪状によって、平房の石井部隊、新京の第100部隊や東京の陸軍軍医学校の医師や関係者などを根こそぎBC級戦犯として法廷に持ち込もうとしたが、参謀2部のウィロビーが法務部の調査を中止させた。
・1948年1月26日「帝銀事件」が起き、捜査が731部隊に及びそうになると、またもやGHQは731部隊の関係者の捜査を中止させた。
・占領時アメリカは、郵便や報道を厳しく検閲し、日本国内で原爆の事や731部隊の情報が出ると厳しく取り締まった。1950年代に入り「ハバロフスク裁判資料」が出たが、ソ連のシベリア抑留などの戦争犯罪を隠すものだとしてまともに取り上げなかった。
・戦後731部隊員がアメリカに渡り、A(炭疸菌感染)レポート、G(鼻疽菌感染)レポート、Q(ペスト菌感染)を書き上げ、アメリカの生物兵器開発に協力した。
・戦後、アメリカ政府・日本政府は731の情報【奉天の捕虜収容所の聞き取り文書やフェルレポートの各論、衛生学校記事(一部開示)、その他】を行方不明として隠して続けている!!
あの戦争が、侵略戦争であり、多くのアジアの人々の命を奪った事は、紛れもない事実であり、大変な犯罪行為であった。とりわけ、中国では、毒ガス戦・細菌戦を頻繁に行い、残忍な殺戮も多かった。
●日本医学会総会
日本で医学シンポジウムを開催、731部隊などの医学犯罪問題について討論する
日本医学会総会では、なぜ731部隊のことが話し合われないのですか?
まだ、戦中の思想から脱却できない?(密約の影響?上からの命令、731の事は口にするな!!)
科学動員・・・日本に近代科学が定着するのは明治期であるが、それは富国強兵策の一環としてであった。つまり科学・科学者ははじめから国家に奉仕する科学あるいは科学者であった。すなわち富国強兵のための手段の1つであったのだから。『消えた細菌戦部隊』常石敬一著より
ドイツ精神医学精神療法神経学会は戦時中の残虐行為について謝罪表明しているのに!!
戦争であれば、「お国のため」ということで残虐行為は許される?
天皇陛下が、慰霊の旅を続けられている。
天皇、皇后両陛下 70年前の戦跡残るパラオへ「慰霊の旅」
陛下は、731部隊跡地や南京には行かれないのですか?
ノーベル医学賞を受賞された山中教授や神の手を持つ天野教授などは、731をどの様に思っているのでしょうか?
安倍首相はなぜこういうパフォーマンスを故意にするのですか?
お祖父さんの岸信介は満洲に731部隊の施設が完成する頃にいましたが、岸は731についてよく知っていたのではないですか?
1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
(1937年12月)
当時、数百名の日本の記者やニュース映画のカメラマンが中国に従軍しており、それに比べると欧米からの報道関係者は少数だった。しかし、実際に起きていることを世界に報道したのは欧米の記者だけである。検閲下にある日本の報道は、日本を批判する海外の新聞記事の引用が禁止されており、虐殺、戦争犯罪、民間人に対するテロ、あるいは強姦を論ずることはなく、南京で大量の捕虜が捕まえられ、中国人の大量の死体が遺棄されていたと報道したに過ぎなかった。しかし、2人の日本陸軍少尉による中国兵の百人斬り(ぎり)競争は、南京占領に先立ち「東京日日新聞」に何度も掲載されており、中国戦線での残虐行為を知る手がかりは存在した。クリスチャンの学者矢内原忠雄(やないはらただお)のようにきわめて洞察力のある日本の読者や海外の新聞に接していた人だけが真相を知り、軍服を着た殺人者が日本の掲げた理想の自画像と相容れない犯罪を犯していることに気付いていた。P289~290
「天皇の陰謀」バーガミニ著より
大虐殺の開始
12月14日火曜日の到着の日の午後、サディスト中島は、隠れている中国兵向けに、「日本帝国陸軍の慈悲」を信じてあきらめるようにと訴えるビラをまいた。また、中島の部下の一人は、城内で脱ぎ捨てられた6千着の軍服が発見されたので、その情報を提供するようにと、安全地区委員会に問うた。そして、そうした軍服を着ていた兵がすみやかに出頭しない場合は、捕虜としての権利を失い、スパイとして死刑の対象とするとした。西洋人の委員は、この日本側の主張を同地区の全宿舎に言葉どおりに伝え、それは法的には正しいと中国人たちに助言した。翌日、数千人の中国兵や労務大隊に属していたクーリーがそれに応じた。二週間後、YMCAのフィッチは、「日本軍が彼らの命を助けると言うなんて、私は何と愚かだったか」(107)と書き残していた。
南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分
フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」
●天皇と731の関係は?
・天皇は生物兵器に関心があった。(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著(p229)
1925年9月赤坂御所に生物学研究所設置「昭和天皇」p61ハーバード・ピックス著(講談社)
1925年、ジュネーブ協定締結・・・毒ガスの禁止だけでなく、ポーランド代表の提案を入れ、細菌兵器の使用禁止もうたっている。・・日本とアメリカは批准しなかった。石井四郎、遠藤三郎に細菌戦の重要性を主張!!「医学者たちの組織犯罪」p60 常石敬一著より(朝日新聞社)
天皇の神格化1928(昭和3)年即位の礼(天皇:大元帥27歳)(約1年間かけて行われ、最後は大嘗祭)裕仁は現人神(あらひとがみ)になる。
27歳の若さで現人神?頭の中では大日本帝国の夢が膨らんでいたのであろうか?
昭和3年(1928年) 昭和天皇 即位の大礼
大日本国憲法では
第三條
天皇ハ聖ニシテ侵スヘカラス
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
となっている。天皇が神で神聖であり、元首であり、陸海軍に責任を持つことになっている。
ところが戦後補償裁判では「国家無答責」の法理によって、国・天皇の責任が一切追及されない。
何で、戦後も旧憲法が生きているのか?
(参考)国家無答責の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、国家無答責の原理ともいわれ、大日本帝国憲法のもとでは官吏は天皇に対してのみ責任を負い、公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする法理をいう。
1925年・・・治安維持法制定(国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。)
・1928(昭和3)年、昭和天皇の即位式・・・ほぼ1年かけて現人神・大元帥になった。(27歳)
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台もこの時期に築かれた。1928年、田中内閣は化学・生物兵器禁止国際議定書〔1925年調印の「窒素生ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」のこと。日本の批准は1970年〕の批准を見送った。翌年には枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎてとても実行できないと言う。・・「昭和天皇」p170ハーバード・ピックス著(講談社)
・1929(昭和4)年、昭和天皇、陸軍軍医学校視察、どのような目的があったのか?(軍医学校の中に1932年に防疫研究室が設置され、33年に規模を拡大。多くの京大や東大の教授達が嘱託として働き、731部隊などにいろいろな指令を出した。)「陸軍軍医学校50年史」より
軍刀には不思議な力がある?
・小泉元中将と助教授を結び付ける唯一の“接点”も細菌戦部隊だった。小泉は陸軍省医務局長時代、細菌戦準備を提唱した石井四郎元中将の最もよき理解者の1人であったし、後援者でもあった。小泉元中将の支援なくして日本の細菌戦部隊はありえなかったと言ってもよい。
その細菌戦部隊とかかわり、そこで人体実験を強いられたのが、自殺した助教授である。彼は医学者としては、手を染めてはならない人体実験を繰り返し、その良心の呵責から死を選んだのである。
小泉元中将を、日本の細菌戦を推進し、大きな流れを作った人物と位置づければ、助教授はその流れに巻き込まれ、のみ込まれた1人といえよう。・・・
(『細菌戦部隊と自決した2人の医学者』常石敬一・朝野富三著より)
小泉親彦・・・1932年(昭和7年)、近衛師団軍医部長に就任。1933年、陸軍軍医学校校長。1934年(昭和9年)、陸軍軍医総監(陸軍中将相当官)となり陸軍省医務局長に就任。1937年(昭和12年)、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。階級としては、軍医中将は軍医として最高位である。1940年(昭和15年)、勲一等旭日大綬章受章。1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任した。
1945年(昭和20年)、連合国軍の取り調べを拒否し、割腹自殺を遂げた。
軍医時代の小泉の大きな仕事
1、厚生省設置の推進 2、日本における毒ガス戦の基礎を築く 3、防疫研究室新設に協力し、この近衛師団軍医部長を兼務していた時、近衛師団の土地約5000坪の土地を「譲与」した。(1933年10月、新たな防疫研究室完成)
・厚生省とは国民の健康を増進するために作られたのではなく、強い兵隊を作るために作られたのか?
・毒ガスの人体実験は平房の731部隊の施設で516部隊と合同で行った。
・陸軍軍医学校と防疫研究室は、地下道でつながり、その地下道には、コンクリート製の水槽があって、ホルマリンの中に死体が、15、6体浮かんでいた。(『証言731石井部隊』郡司陽子著)(731部隊で、生体解剖したものを飛行機で研究室まで運んだのか?)
小泉親彦(こいずみちかひこ)
1933年防疫研究室完成(731部隊の司令塔)、1936年(陸軍軍医学校50周年)遂に防疫機関(731部隊)の新設をみるに至れり。
ここで、防疫研究室新設の理由として、欧米各国と比べ「我が国に之が対応施設なく」と述べられている。しかしすでに軍医学校にはこの研究室より規模も大きく、名称も似かよっている「防疫部」が設けられていたのである。対応施設云々こそ、細菌戦研究の研究室である事を、暗に認めたものであろう。この表現でも、一般に公開することを予定した文書においては、ぎりぎりの線であろう。・・・・・・
「同機関は内地防疫研究室と相呼応して皇軍防疫の中枢・・・・」の部分
満州の部隊は形式上関東軍に所属するが、東京の軍医学校と密接な連絡を取りながら、業務を行う、ということだろう。
(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著より)
『陸軍軍医学校50年史』P184
防疫研究室『陸軍軍医学校50年史』より
731部隊全景(『続・悪魔の飽食』森村誠一著)
・4宮殿下、陸軍軍医学校50周年式典にご臨席・・・731部隊(細菌戦)・毒ガス戦にかける思いも強かったのでは?
閑院宮(かんいんのみや)・・・1931年~40年陸軍参謀総長
梨本宮・・・元帥、敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、皇族としてただ1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。1937年6月、対中戦争への突入を東条と協議するため満州を訪れたのは、他ならぬ梨本であった。この意味では彼は全8年に及ぶ地獄のような戦争の開始者であった。(「天皇の陰謀」(上)p201)
朝香宮・・・1937年(昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加。南京大虐殺に関与。
東久邇宮(ひがしくにのみや)・・・太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将に就く
・4宮殿下陸軍軍医学校の50周年の式典に臨まれる。
久邇宮(香淳皇后の父親)・・・生物学戦争についての情報を提供し続けた?
・永田鉄山・・・石井の特に細菌戦研究についての主張は、陸軍省や参謀本部において次第に支持を集めて行った。彼の意見を支持した人間のうち最も有力な人物が、1931年当時陸軍省軍務局軍事課長(陸軍中佐)で、1934年には実質的に最も力を持っていた局長である軍務局長(陸軍少将)に就任する永田鉄山だった。ちなみに、後に石井部隊が創設されてから、部隊長の石井の部屋には永田鉄山の胸像が飾られていたという。国家総動員を唱えていた。(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著)
・1937年(昭和12年)・・国民精神総動員【第一次近衛内閣が1937年(昭和12年)年9月から行った政策・活動の一つで、「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進した」運動。】「国体の本義」(神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。)
・1938年(昭和13年)・・国家総動員法発令【総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。】
・1941年(昭和16年)・・「臣民の道」7月の第3次近衛内閣時に文部省教学局より刊行された著作である。欧米の個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いている。
戦陣訓発表 (生きて虜囚りょしゅうの辱はずかしめを受けず、死して罪禍ざいかの汚名おめいを残すこと勿なかれ。)
1940年(昭和15年)皇紀2600年?に東京オリンピックを開催する予定だった。
道徳の強化、「日の丸」・「君が代」の強制、秘密保護法で隠す動き、軍事力強化、集団的自衛権を行使可能にする流れは
何か昔の動きと似ていませんか?
オリンピックよりも、脱原発、福島・東日本の復興にお金をかけたらいかがですか!!
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
第一章
南京強奪
(その1)
1937年、揚々たる、かつ、野蛮な4ヶ月間の作戦の展開下にあった松井の軍団は、上海港から揚子江沿いに270キロを進撃して南京を攻落、この首都を、6週間にわたってその規模を増す、身の毛もよだつ恐怖へと落し入れた。10万から20万人の中国人が処刑され、少なくとも、5,000人の婦人、少女、子供が、殺される前に強姦された。南京の価値ある物品のことごとくが略奪され、町のすべての区域が組織的に焼き払われた。南京は、ワルシャワやブーヘンヴァルト〔元東ドイツにあった虐待暴行で有名なナチの強制収用所〕以前の、大量残虐行為の場となった。こうしてはじめて、反コミンテルン条約〔1936年ナチスドイツと日本が結んだ。翌年イタリアが参加〕でドイツの側にたつ政府が明らかに悪であることが、多くのアメリカ人に明白となった。
●731部隊展開催のお願い
●日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
・『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)
Ⅵ 米謀略資金とツツガ虫病人体実験
組織的に全国の精神病院で人体実験
私は、田宮猛雄らを中心に浅沼や北岡らが一体どの程度の規模で、どんな内容で、ツツガ虫研究を行なったのかを調査した。
幾つかのツツガ虫に関する調査はどんどんふくらんでいき、えぞ熱という風土病に関する膨大な研究班が東大伝研や北海道大学などを中心に組織され、川村明義らが「47歳の発熱療法を必要とする進行性マヒの患者に治療に付随した実験を行なった」ことなどを調べ、北海道まで飛んで、えぞ熱研究の実態を調査した。
やがて私は、米軍のツツガ虫研究への資金の問題と、新潟精神病院で行なわれたツツガ虫病原体の患者への接種事件(日弁連が取り上げた乳児人体実験と並ぶ人権侵害事件)が完全に結びつくものであるという証拠を発見した。
それはある国立大学医学部図書館で、米軍研究資金にかかわった人々の研究論文を調査してときであった。