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●731部隊 ●南京大虐殺 ●昭和天皇 ●教科書問題 ●陸軍登戸研究所 ●日航123便の怪 ●日本とドイツの違い ●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!! ●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか? ●731部隊展 秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!! “過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる” 日常/ #3ドキュメント2013.12.6 ●あの戦争を起こした昭和天皇の誕生日が「昭和の日」として休日にされるのには抵抗がある。 昭和天皇の戦争責任を感じる者にとって、なんともいたたまれない!! 天皇「裕仁」は、戦争を起こした人だからヨーロッパでは有名だろう!! 安倍は侵略戦争の反省をしないからアジアで有名? 欧米は昭和天皇、アジアは安倍首相=「知っている日本人」1位―新聞通信調査会[時事] やはり、安倍首相と天皇家はつながっていた!! 天皇と親戚の安倍晋三首相 ●「君が代」は歌えない!! 『君が代は歌うべきだと思いますか?』 田原総一朗 上記のビデオで新しい国歌制定の動きがなかったのか、なぜ盛り上がらなかったのか?ということが疑問として投げかけられている? ・国歌制定の動き 1、1951年1月、「君が代」にかわる「国民主権」に基づく新しい国歌を作るという目的の為に、日教組の中央委員会で提案され、公募された。その結果「緑の山河」に決定し、日教組の教研集会や一部の小学校の運動会などで使われた。ところが教育委員会の圧力がかかり、衰えて行った? 「日教組が組織を挙げて公募して、広めてきた「新国歌制定運動」に対して、何等総括もなく、いつの間にか歌わなくなりましたじゃすまないよ、ということです。」(「日の丸・君が代」が人を殺す!北村小夜・天野恵一著、社会評論社)より要約 ※今現在の取り組みについては分かりません。 2、敗戦後の1953年、壽屋(サントリーの前身)の社長:佐治敬三が中心となって、新国家、新憲法にふさわしい新しい国民歌(国歌)を作ろうという呼びかけが行われた。その呼び掛けに応じて、全国からよせられた5万点を超す応募の中から選ばれたのが「われら愛す」である。 NHKなどの洗脳放送が功を奏しているのか、主権在民にそぐわない「君が代」が当たり前のように演奏され続け、そして強制される現在、長く地下水脈のように歌われてきたこの歌は、再び新たな国民歌(国歌)の第一候補として、注目をあび、歌われようとしている。 この歌が、現在の閉塞状況からの脱却を願う多くの市民の口から、大きな声で歌われ、再び新国歌制定の大運動になったとき、「アラブの春」「アメリカの99%」の人々の運動に続く、「日本の春」は現実のものとなるだろう。 (曲は{われら愛す}→検索) 作詞=芳賀秀次郎 作曲=西崎嘉太郎 編曲=高浪 晋一 一、われら愛す 胸せまる あつきおもいに この国を われら愛す しらぬ火 筑紫のうみべ みすずかる 信濃のやまべ われら愛す 涙あふれて この国の 空の青さよ この国の 水の青さよ・・・・・ ・天皇制をアメリカが認めた責任は大きい。 731のデータと引き換えに、天皇の戦争責任を問わない事と731部隊の免責をアメリカがしたことに、そもそも問題の根幹がある。 戦後、天皇制が残ったため、戦争の反省が十分為されなかった。昭和天皇が戦争を主導し、負けになると証拠を、焼却してしまった。 アメリカは天皇といろいろな取引をした。(全て極秘) 皇族方も多くが戦争に中心的な役割を担って参加していた。 ここが、戦後、裁判で裁かれる事なく、残ったために、財界・経済界とのつながりは戦前と変わらず、裁かれなかった日本軍幹部もそのまま残り、あの戦争のことを隠し、自衛隊などで活躍し、靖国に参拝し公然とあの戦争は「自存自衛のための戦争」と言ってはばからなかった。ここが大きな問題になるところだと思う。 天皇制の国家がそのまま存続したものだから、また「君が代」が復活し、人々を苦しめている。 ・上記のビデオで竹田恒泰という元皇族の子孫の方がしゃべっているが、この人の祖父は、竹田恒徳ではないか。 君主国家だから「君が代」を歌うのは当たり前だというような発言をしているが、祖父が戦中どんな事をやっていたかを「君が代」を語る前に調べて、国民に公表してもらいたい。 『死の工場』(隠された731部隊)シェルダン・H・ハリス著 p227~228にはこう書いてある。 1964年4月、『ジャパン・タイムズ』は、裕仁のいとこである元皇族の竹田宮恒徳を、日本の「スポーツ好きなプリンス」として人物紹介した。・・・しかしこの記事は竹田宮の経験のうち重要な部分をカバーしなかった。竹田宮は20数年前、日本占領下の満洲で任務に従事した。そこで彼は、首席主計官として、関東軍において戦時に設置された重要なポジションについた。そういう地位の人間として、彼は満洲におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。彼は平房を頻繁に訪れたが、その際、宮田武中佐と名乗っている。おそらく竹田宮・宮田中佐は、自らの任務を果たすために、満洲にある他の死の工場も視察したはずである。 竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は、関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の施設支部を訪問する許可を与えるかどうかを決定する事であった。・・・・ ●戦犯で処刑された東条英機は、天皇の「忠臣」ではなかったか? ・内閣特別顧問である退役した満州の戦略家石原莞爾は、町から町へ敗戦を説明するための特殊任務に任ぜられた。・・・彼の演説の主調低音は単純なものだったー前総理大臣東条が戦争を引き起こした、他の誰も責任はない。石原と東条は1930年代に天皇の寵を争うきびしい好敵手として活動した。東条が勝った。・・・(「天皇の陰謀」(上)p153) ・(東京裁判で) 東条「私の知る限り、そういう事例はありません。のみならず、日本国の臣民が天皇の御意志に反して行動する事などあり得ず、まして日本政府や、日本国の高官においては尚更ありえないことです。」(「天皇の陰謀」(上)p229) ・学徒出陣の式典で東条は「天皇陛下万歳!!」を三唱しているではないか?「ハイル、東条」ではなく、「ハイル、天皇陛下」と。 学徒出陣 1943年昭和18年10月27日【日本ニュース】 ●今週の某週刊誌が“「あの戦争」を読む”という記事で著名な歴史家HとSの対談を載せている。 そこには細菌戦のことも書かれていて、「ハバロフスク公判書類」『細菌兵器ノ・・・・』がソ連のプロバガンダとH氏、S氏が共に言っている。 この本は、アメリカが731のデータを全て独占し、その代わりに731部隊員を全員戦犯免責にしたことから、ソ連が独自にハバロススクで日本の細菌戦の裁判を1949年12月にやり、それに基づいて書かれた本だ。 ・プロバガンダではなく、ソ連が日本が犯した細菌戦の非人道的な行為を世界に訴え、東京裁判では訴えられなかった天皇裕仁を再び裁判にかけようとしたものだ。 アメリカはこれを、ソ連のシベリア抑留した捕虜の強制労働を隠蔽するためにしたものだとして、でっち上げだとして無視した。 ・もう1つH氏は「日本人に見せるためにだけにこの本を造ったのがすごい」と言っているがこれはロシア語を含めて7ヶ国語に翻訳され、世界に公開されている。 ハバロフスク裁判 こうやって、日本やアメリカは731の人体実験・細菌戦の事実の隠蔽に必死だ!! ●特別取材:日米は731部隊の細菌戦の罪を密かに覆い隠している―日本人学者、近藤昭二氏を取材 【新華社東京4月27日】日本のNPO法人「731部隊・細菌戦資料センター」の共同代表、近藤昭二氏が近ごろ新華社記者の取材に応じた際、日本は戦後米国に全ての731部隊の研究資料を渡すことを条件に、米国は昭和天皇と細菌戦の責任者の戦争責任を問わないという裏取引を行っており、今日まで日本と米国はまだ関連史料を公開していないと語った。 近藤氏は次のように語った。日本への戦後統治を順調に実現させるため、米国は日本の天皇制を維持させる必要があった。天皇の戦争責任を問わないという点で、日米は利益において合意に達していた。同時に、ソビエト連邦に対抗する必要により、米国は731部隊の研究資料がソビエト連邦の手に渡るのを見たくない。石井四郎(731部隊の創始者)はこの機に乗じて米国に交渉を持ちかけ、この裏取引が最終的に成立させた。日本は全ての731部隊のデータ資料を米国に渡し、また米国は昭和天皇と石井らの責任を問うことはなかった。 「私はかつて極東国際軍事裁判の審判に参与した米国人検察官と自ら話をしたことがあります。その検察官の話によると、東京に到着する前に、彼の上司であるキーナム(音訳)氏が天皇の戦争責任は問えないと伝えていたと言っていました。米国は最初から天皇制の維持を決めていたんです」と近藤氏は語った。 近藤氏は、細菌や毒ガスなどの生物・化学兵器は経済的且つ実利的で、銃砲と比べ殺傷能力や致死率が高く、自然資源の乏しい日本にとってはたいへん魅力があった。当時、国際社会では細菌兵器や毒ガスの使用禁止が取り決められていたが、日本は厳守しなかったと指摘している。 近藤氏は「生物・化学兵器の研究は非常に危険で、その濫用を阻止できるのはつまり倫理です。倫理の厳格な制限がない場合、戦時に731部隊が行った細菌戦が繰り返されないとはとても保証しかねます」、「私たちは必ず厳格な審査機関を設立することで関連の研究が生命理論に合っているかを監督しなければなりません。そして過去の歴史に対して厳格な検証を行うことが、ちょうど倫理体制を構築させる重要な材料となるのです。」と語っている。 ・731部隊の罪を暴き続ける、ペスト被害の生存者たち ●731部隊めぐる日本と米国の密約、ジャーナリストの近藤昭二氏語る 「731部隊はどこまで明らかになったか、この部分はまだ謎」 4月26日近藤昭二講演 001 4月26日近藤昭二講演 002 4月26日近藤昭二講演 003 4月26日近藤昭二講演 004 4月26日近藤昭二講演 005 ●映像でみる731部隊とは (参考)黒い太陽731 終戦50年特別企画 731部隊(アメリカとの取引き・戦犯免責の経緯、部隊員の証言等) 知ってるつもり「731部隊と医学者たち」 731細菌部隊と帝銀事件との真相1 ●731に関係する簡単な映像作品を作ってみませんか? ・戦争を主導した大元帥、昭和天皇を始め、陸軍参謀総長、閑院宮、海軍軍令部総長、伏見宮、南京大虐殺に関わった上海派遣軍司令官、朝霞宮、影で動いた三笠宮、731部隊と関係のあった竹田宮等々、天皇、皇族は誰一人東京裁判で裁かれなかった!! 金と地位がそうさせたのか? 裕仁の朝廷は1940年10月、戦争が敗北に終った場合に天皇制を守ることを目的とした後方計画を開始した。 第1段階は皇族を責任ある地位から退ける事であった。 第2段階は彼らが戦争準備の過程で何の役割も演じなかったかのように見せかける表向きの筋書きをつくることであった。 菊の垂幕の背後への引退は、10月3日に・・・・75歳の閑院宮が、陸軍参謀総長の職を辞した時に始まった。・・・(『天皇の陰謀』下 バーガミニ著P134 より) ・アジアで多くの人々が虐殺されたのに、天皇はじめ皇族方は誰も処刑されなかった? ・731部隊での人体実験と細菌戦の最高責任者は誰だ? ・沖縄戦で多くの日本人が犠牲になった。その沖縄をアメリカに渡したのは誰だ? ・恐怖政治により、思想犯は拷問にかけられ、投獄され、死んだ者も多かった。 ・1945年5月25日の東京の空襲では皇居の一部が燃えた。火事を防げなかった消防士は後に射殺体となって発見された!! ・(1942年)3月10日、マッカーサーがコレヒドールから脱出の大逃避行に出発する数時間前、英国外相イーデン卿は下院での演説において、全世界に向かい、日本が香港において忌まわしい残虐行為を広範に行ったことを明らかにした。・・・・3月13日に木戸内大臣は裕仁にイーデンの香港事件暴露の演説のことを報告した。裕仁はこのようなことの再発を防ぐ方策は何もとらなかった。裕仁の叔父達や軍関係の助言者達の立場は日本軍は残虐行為を犯すことによって自己の任務を一層忠実に遂行するようになるし、また敵に降伏してはならない、もし降伏すれば彼らが敵に対してした事を自分達に対してされるのだ、ということを彼らに信じさせるためにも必要であるというものであった。(『天皇の陰謀』下、バーガミニ著P335) 日本軍より虐殺と強姦も多発していた ●真相40号 真相第40号【1950年(昭和25年)】4月1日、日本の政治思潮が右に揺れた時期さえ、諷刺雑誌はスポットライトのもとで脱帽する天皇を人骨の上に立たせた。アメリカの政策が、極東軍事裁判で天皇を戦犯として起訴することは防いだものの、少数とはいえ無視できない数の日本人は戦争中の重大な誤りを知っていて、決して許そうとはしなかった。(三一書房「真相 復刻版」より) ※GHQと関係があった二木秀雄の「政界ジープ」は、731の事を書いても、お咎めなし。それに対して「真相」が731の事を書くと、編集者はCIC(対敵情報局)に拘束され、「2度とこのようなことは書くな」と脅された。この違いは何か? 写真は「真相40号」よく見ると「生きている細菌部隊」というタイトルがある。 ※下記のビデオでは、28分45秒あたりから真相の解説があります。 4月26日近藤昭二講演 001 ●敗戦前から敗戦後の流れを想像してみると? アメリカは、戦争中から日本人が天皇を神とあがめている事を知っていた。それを利用して占領統治円滑に進めようとした。日本とアメリカは敗戦前から、交渉を極秘にしていて、日本政府も空襲の事、原爆投下の情報をあらかじめ入手していた。そして広島に原爆が投下されるときに、畑俊六(当時第2総軍司令官)に第2総軍を広島に集めさせ、敗戦後に日本で天皇制打倒の反乱が起きないように壊滅させた。 ・広島に原爆が投下されると、アメリカに心象をよくしようと日本医学者が現地に入り、原爆の被害状況を調べて181冊の報告書を作成し英文にしてアメリカに敗戦後渡した。(治療はほとんどしない) 8月14日から15日には宮城で某宮様が中心となって偽装クーデターを起こさせ、天皇の力を見せ付ける場面を作り第1総軍もおさえた。そして阿南(あなみ)陸相を自決させ、降伏の段取りをした。 マッカーサーの主張などによりアメリカは、秘かに天皇制護持を容認していた。 アメリカも日本に配慮し、マッカーサーの日本上陸を余裕を持たせた。それまでに日本政府は、天皇の戦争責任に関わる極秘文書を焼却した。 ・1945年8月30日にマッカーサーが厚木飛行場に降り立った時、「ジェネラル石井はどこにいるか?」と言って、部下にその行方を探させた。 ・アメリカ占領軍の上層部は、石井四郎を早くから探し出し懇意にしていた。1945年11月20日行方不明のはずの石井四郎と若松町の石井の家で6名の米軍将校と会食をしている。 ・占領軍上層部は中国の情報や日本人捕虜によって人体実験・細菌戦の情報の大まかな部分はつかんでいたが詳しい情報は得ていなかった。 ・占領軍上層部は、天皇を利用した占領統治を優先するため、天皇の戦争責任が問われる問題は、東京裁判では取り上げなかった。 ・731部隊の事は、細菌兵器開発に後れを取っていたアメリカが、極秘に調査団を送って調査させた。 ・731を調べる調査団が来日したが、サンダース、トンプソンの時は、731部隊員は人体実験の事を極秘命令なので口を割らなかった。 ・1947年1月、ソ連が柄沢の供述から、人体実験の情報を得たので、石井の訊問を要求した。アメリカは、事前に石井から人体実験の情報を聞き出し、ソ連には、アメリカと組み、うまく芝居を打って情報を与えなかった。 ・1947年6月にアメリカは、731部隊の人体実験に関するフェルレポート、12月にヒルレポートを作成した。 ・GHQ法務部のニール・スミスが、「捕虜に対する人体実験及び解剖」という明確な罪状によって、平房の石井部隊、新京の第100部隊や東京の陸軍軍医学校の医師や関係者などを根こそぎBC級戦犯として法廷に持ち込もうとしたが、参謀2部のウィロビーが法務部の調査を中止させた。 ・1948年1月26日「帝銀事件」が起き、捜査が731部隊に及びそうになると、またもやGHQは731部隊の関係者の捜査を中止させた。 ・占領時アメリカは、郵便や報道を厳しく検閲し、日本国内で原爆の事や731部隊の情報が出ると厳しく取り締まった。1950年代に入り「ハバロフスク裁判資料」が出たが、ソ連のシベリア抑留などの戦争犯罪を隠すものだとしてまともに取り上げなかった。 ・戦後731部隊員がアメリカに渡り、A(炭疸菌感染)レポート、G(鼻疽菌感染)レポート、Q(ペスト菌感染)を書き上げ、アメリカの生物兵器開発に協力した。 ・戦後、アメリカ政府・日本政府は731の情報【奉天の捕虜収容所の聞き取り文書やフェルレポートの各論、衛生学校記事(一部開示)、その他】を行方不明として隠している!! あの戦争が、侵略戦争であり、多くのアジアの人々の命を奪った事は、紛れもない事実であり、大変な犯罪行為であった。とりわけ、中国では、毒ガス戦・細菌戦を頻繁に行い、残忍な殺戮も多かった。 ●国策と犠牲 特別講演 「医師の歴史的・社会的責任ー731部隊ーABCC・RFEF・予研(感染研)・IAEA・UNSCEAR・日本財団ー重松逸造ー山下俊一・長瀧重信という人脈を解くー」 松井英介 4月7日NPO731細菌センター総会 005 長崎新聞3月9日 ●日本医学会総会 日本で医学シンポジウムを開催、731部隊などの医学犯罪問題について討論する 日本医学会総会では、なぜ731部隊のことが話し合われないのですか? まだ、戦中の思想から脱却できない?(密約の影響?上からの命令、731の事は口にするな!!) 科学動員・・・日本に近代科学が定着するのは明治期であるが、それは富国強兵策の一環としてであった。つまり科学・科学者ははじめから国家に奉仕する科学あるいは科学者であった。すなわち富国強兵のための手段の1つであったのだから。『消えた細菌戦部隊』常石敬一著より |