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●731部隊
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展
秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!
“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”
●日本の立場
日本政府が、昭和天皇の戦争責任を回避するために、731部隊の資料を隠蔽し、南京虐殺についても謝罪しない立場をとり続け、アメリカの核の傘のもと、アメリカの軍事同盟強化の方向に走っているが、これでは世界に向かって「核兵器廃絶」を訴える説得力は弱い!!
いつまでも、日本はアメリカに隷属することになるだろう。ポツダム宣言に於ける日本の立場(“shall be subject to”)と同じように!!
<日中関係>9割近くが相手国への印象「悪い」、日本と言えば「南京大虐殺」―13億人のアンケート
731部隊はソ連人93人に人体実験していた、中国の専門家が考証―中国メディア
<ボイス>中国指導者が広島・長崎に行く可能性?「では、日本の指導者はいつ南京大虐殺記念館に来る?」―中国外交部を韓国も支持
日本政府が各国首脳を「被爆地」に招待したい理由 中国ネット民がコメント・・・「被害者ヅラしたいから」、「オバマが行けば十分」=中国版ツイッター
日本が各国指導者に広島、長崎訪問を呼び掛け、中国が反問「いつ南京大虐殺記念館を参観するのか」―中国メディア
日本の遺棄化学兵器は関係地域の中国国民の生命と財産および生態環境の安全に深刻な脅威と危害を与えている。
外交部、日本側は遺棄化学兵器の廃棄を一層加速するべき
(戦争責任者の)天皇が同一人物として残り、現人神から変わっただけであった。
日本は旧満州など他人の土地に踏み込み侵略したのでドイツより悪質=天皇の戦争責任、あいまい処理も尾を引く―拓殖大教授が「日独戦後処理」比較
●731部隊について、多くの書物・証言・映像などがあり、また、「731部隊展」や1980年代~2000年代の初めまで、裁判もあり、国民の多くはその様子を注視し、事実である事を知っている。
中国では、いろいろな史料が公開され、731部隊の建物も復元されるつつある。密約があったとしても、この事実は隠せない。
ところが、政治というものは、本当にこわい。敗戦後米国に全ての731部隊の研究資料を渡すことを条件に、米国は昭和天皇と731部隊等の細菌戦の部隊員の戦争責任を問わないという裏取引をし、日本・米国にとって都合の悪い事実を隠蔽し続けている。
今回の安倍の訪米を見ていて、つくづくそう思う。政権を再び奪取すると、すぐに秘密保護法を作り、731の史料を確実に隠せるようにする。訪米前の日本医学会総会では、731の事は公然の秘密として、今までと同様に絶対に取り上げさせなかった。そして、訪米し、天皇制護持と731の密約、同盟の強化を再確認すると、あの戦争に一番深く関係した裕仁(ヒロヒト)の誕生日に、日本の総理大臣として初めてアメリカ議会上下両院の合同会議で行った演説を行った。(いくらロビー活動にお金をばら撒いたのか知らないが、もしかしてオスプレイ17機購入や横田への配備は演説した事への見返りか?借金は膨らむばかり)その演説の中身では、米国従属と取れる安全保障関連法案を今夏までに成立させると明言してしまった。それは、日本の国会で全く審議もしていない法案であり、成立を約束するなど国会無視の言語道断の暴挙だった。これからはますます密約は守られ、天皇制は安泰で、情報開示は難しくなり、日米軍事同盟は強固となり、原発再稼動でリニア開通、東京オリンピックと進むとなると、沖縄をはじめ環境破壊がますます深刻となり、放射能・戦争の危険性も高まる。
731部隊等に関し、日本の医学者(ノーベル賞受賞者、東大、京大の先生等々)からの謝罪、反省はもちろんなし。お国の為に、医学の発展の為にやった?
●ニュース
<日本研究者>さらに賛同者、457人に 安倍政権への声明
世界最強軍隊番付、トップ3は米露中=日韓の順位は?―米誌
「日本の凶器」を米誌が列記・・・「いずも」護衛艦、「そうりゅう型」潜水艦、「あたご型」護衛艦、「V-22(オスプレイ)」、「F-35」戦闘機=中国メディア
どうして731部隊や南京大虐殺についての歴史教科書の記述が薄いのですか?日本が反省していない証拠ですか?
そうです!!
●あの戦争を起こした裕仁の誕生日が「昭和の日」として休日にされるのには抵抗がある。
裕仁の戦争責任を感じる者にとって、なんともやりきれない!!
「裕仁」は、戦争を起こした人だからヨーロッパでは有名だろう!!
安倍は侵略戦争の反省をしないからアジアで有名?
欧米は昭和天皇、アジアは安倍首相=「知っている日本人」1位―新聞通信調査会
やはり、安倍と天皇家はつながっていた!!
天皇と親戚の安倍晋三首相
横田に米軍要員400人=政府、地元自治体に説明―オスプレイ配備
●ご案内(転載)
●731部隊の情報を出してください!!情報公開裁判
「衛生学校記事」の全面開示を要求(今までの流れ)
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
(1937年12月)南京大虐殺
中国でも、アメリカでも大虐殺とパネー号事件は、忘れられる事もなく、許される事もなかった。南京での「蛮行」のニュースは広く知れ渡り、多くの中国人にとって象徴的な事件となった。その後長期にわたり、この事件のプリズムを通じて中国人は日本との全面戦争を思い浮かべるようになった。不景気に苦しむアメリカで、大虐殺とパネー号沈没の報道記事は珍しく一面で伝えられ、人々の注意を引いた。アジアのニュースは瞬く間に国際緊張を高め、決して静まる事のない反日と親中国の感情を刺激した。19世紀末以降、アメリカ人は中国を開発すべき市場としてばかりでなく、彼等の理想を映し出すにふさわしい場所として、本質的に良好な対外関係を持つべきものと見なす傾向にあった。ルーズベルト大統領は脆弱な日本経済に制裁を課す事を拒否したため、日本製品の輸入販売をボイコットしようとする新たな運動から批判を受けていた。海軍の拡大を主張する声も段々大きくなっていた。当時、ルーズベルトは2期目だったが、まだ、外交政策を取り仕切る事はできなかった。ルーズベルトは、海軍作戦局長ロイヤル・E・インガーソルをロンドンに送り、日本のアジア・太平洋に対する侵攻にイギリスと共同して対抗する道を探るべく英国海軍と協議させた。p293~p294
「天皇の陰謀」バーガミニ著より
パナイ号事件
乗組員がこの一瞬の破壊から立ち直る間もなく、六機の単発戦闘機が南方より迫ってきて、小型の対人爆弾を投下した。命令を発しようとしていた副艦長も、榴散弾片をのどに受けてしゃべれなくなった。彼は、紙に走り書きで、命令を発した。一機の速度の遅い複翼戦闘機が、二度も、三度も爆弾投下を繰り返した。乗組員が後甲板の30口径の機関銃を組み立て、応戦を始めた。二機の戦闘機もそれに応えた。20分間の爆撃と機銃掃射の後、パナイは右舷側に傾き、沈み始め、攻撃機は、三隻のタンカーにその焦点を移した。
パナイのどの現場指揮官も、乗組員のほとんど全員とともに傷を負った。午後2時、口のきけなくなった副艦長は艦の放棄をなぐり書きで命令した。負傷者がボートで陸地に運ばれている時、攻撃機が引き返してきて、一時、覆いのない救命ボートに機銃掃射をあびせた。3時までに、パナイの甲板は無人となり、巨大な腐敗処理装置たるその川の黄色い水に洗われ始めた。パナイはすぐには沈まなかったので、二人の乗組員が食料や医療品をとりにボートを漕いでもどった。一隻の日本軍ランチがパナイに接近し、甲板へ機関銃発砲を加え、捜索のために乗組員を乗り移らせた。ひと時して、日本の水兵は自分たちのボートに飛び移って戻り、急いで立ち去った。その5分後の3時54分、パナイは右に回転するように沈んでいった。二隻のタンカーは炎上中で、三番目のタンカーは、泥の土手に座礁していた。パナイの乗組員とともに、乗客や船員は、川岸のイグサの中で三日間、隠れていた。彼らはだが、米国の小型砲艦オアフによって助け出された。その間、二人のアメリカ人が死に、一人が瀕死の状態にあり、他の14人は担架で運ばれる状態だった。タンカーの相当の数の中国人船員も、死亡するか負傷したが、多くの生存者が奥地へと逃げ去っていたので、正確には数えられなかった。
Norman Alley's Bombing of USS Panay Special Issue 1937 Newsreel(パネー号撃沈)
南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分
フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
第一章
南京強奪(その1) 日本と中国
裕仁は、自分が中国に何らかの憎しみを抱いているからではなく、祖父および曽祖父から引き継いだ国家的計画(3)による必要において、中国と戦うのであると主張していた。1853年、米国のペリー提督が大砲を突きつけ、西洋諸国との通商と決済を行うため港を開くよう強いて以来、裕仁の曽祖父は、その家臣たちと、ひとつの誓いを立てていた。すなわち、「紅毛の野蛮人」は日本の聖なる国土から追放されなければならず、日本は、さらなる冒涜を防ぐために、緩衝地帯を形成するべく「海外進出」しなければならない、というものであった。
・・・・
旧日本軍は明治時代から中国侵略を考えていた?
潜入盗測
松井の指揮
南京強奪の不気味な作戦は、1937年8月15日に開始されるべく、すでに着手されていた。その日、松井岩根大将――戦犯を祀る熱海の神社の女神官と親族であり、「南京の虐殺者」と歴史上に名を残すこととなる男――は、天皇裕仁に召喚され、宮中へと向かっていた(6)。松井の公用車は、皇居南西のお堀付近を進んでいた。お堀越しに、16世紀に建造された、高さ15メートル、セメントを用いない、灰色の花崗岩の石垣がそびえていた。その頂上部の胸壁を松並木がおおっていた。石垣の各角には、見張りのために、白壁、瓦葺の楼閣が設けられており、そのそりあがった屋根は翼のようで、今にも舞い上がらんばかりであった。その背後に見えるものは、天皇の私的庭園、吹上げ御苑の広葉樹のこずえが見えるのみであった。樹木と庭石と池のもたらす庭園――恐らく、世界でもっとも丹念に手が入れられている――に囲まれて、天皇裕仁が住む、無塗装で風雨に褪せた平屋の建物があった。松井大将は、それまで天皇に直接会ったことはなかった。彼は、白い玉石をしきつめた中庭と、天皇が祖先を礼拝する厳かな白木の社殿――聖なる鏡を祀っている――より先の内宮に立ち入ったことはなかった。侍従や皇室家族以外には、その先には立ち入れなかった。
まやかし裁判
君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
●日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
・『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)
Ⅶ 自衛隊隊員の人体実験
キセナラミン人体実験議事録の怪
サンデー毎日に大渡順二氏は「国民性が愚かですよ。新薬について無批判に信じすぎていますよ」と言い、「薬好きの愚かな国民性が意識的に利用されて、例えばアメリカでできない新薬の実験が、日本の大衆相手に行われている」、「会社という主従関係で意識の自由の無い段階でやったのだからだまし討ちだ」と手厳しいコメントを寄せている。
社員の中でも苦しくてたまらず服薬を中止するものが出始めた。17人(名古屋4人、東京13人)が入院するという状態になり、長野出身の24歳の未婚の女性が「骨硬化症、ガンの骨髄転移」で死亡した。婦人は生理が異常となり、なかには排卵がないという状態になった女性もいる。
●安倍首相は、「731・裕仁の犠牲者に対して責任を負う」と言うべきだ!!
独首相「皆 ナチスの犠牲者に対し責任負う」
●某週刊誌が“「あの戦争」を読む”という記事で著名な歴史家HとSの対談を載せている。
・S氏が『細菌兵器ノ・・・・』を推薦したことは、評価したい。日本は、人体実験をやり、細菌兵器を開発し、実戦に使った。
・「ハバロフスク公判書類」『細菌兵器ノ・・・・』がソ連のプロバガンダとH氏、S氏が共に言っている。
この本は、アメリカが731のデータを全て独占し、その代わりに731部隊員を全員戦犯免責にしたことから、ソ連が独自にハバロススクで日本の細菌戦の裁判を1949年12月にやり、それに基づいて書かれた本だ。
・プロバガンダではなく、ソ連が日本が犯した細菌戦の非人道的な行為を世界に訴え、東京裁判では訴えられなかった天皇裕仁を再び裁判にかけようとしたものだ。
アメリカはこれを、ソ連のシベリア抑留した捕虜の強制労働を隠蔽するためにしたものだとして、でっち上げだとして無視した。
・もう1つH氏は「日本人に見せるためにだけにこの本を造ったのがすごい」と言っているがこれはロシア語を含めて7ヶ国語に翻訳され、世界に公開されている。
ハバロフスク裁判
ハバロフスク裁判
こうやって、日本やアメリカは731の人体実験・細菌戦の事実の隠蔽に必死だ!!
(参考)細菌戦資料発掘の旅(6)-ロシア編(近藤昭二)より
旧KGBの資料室に残されている吉房虎雄の個人ファイルNo.24238より
・1949年のハバロススク裁判開廷に向けての吉房虎雄のソ連の調書
吉房虎雄・・・1941年9月~42年3月関東軍憲兵隊司令部諜報責任者(第3課長)
1949年10月29日 ハバロフスク市 尋問開始 17時15分
・・・・
飛行機の飛行を見学した後、私たちは飛行場に立ち入らなかったので、石井部隊がどのような構造の飛行機を保有していたのかは分かりません。飛行場を後にした私たちは、部隊の中心となる建物に向かい、1階の廊下に入りました。そこで石井中将はある1つの薄暗い部屋に入り、私たちに30cm×50cmくらいの大きさの木箱を見せ、蓋を開けました。私は箱の中に大量のノミがいるのを見ました。石井中将は私たちに、これは最強の細菌剤増殖体である、なぜなら細菌に感染したノミは殺傷能力があるからだ、と説明しました。廊下を歩いていると、床に座っている3人の中国人がいて、彼らは先が壊疽した両腕を前に突き出していました。石井中将は私たちに、この中国人らには、人工的に腕を凍傷させる実験と、その治療を行った、と説明しました。もう少し進むと、石井中将は私たちにある1つの部屋を示しました。その部屋には12~14人の人がいましたが、私はどこの国籍かは気に留めませんでした。石井中将は私たちに、これは憲兵隊によって送致された原材料で、細菌実験に使うと説明しました。廊下をさらにもう少し進んで左へ曲がると、私たちはある部屋に出ました。その部屋はすべての壁が、ペスト、チフス、コレラやその他様々な細菌が拡大して描かれた絵と、細菌感染した人間の体の様々な部位が描かれた絵で埋め尽くされていました。その絵が並ぶ様には仰天しました。石井中将は私たちに、これは部隊内の研究室で培養されている細菌と、それが人体に及ぼす影響を描いたもので、その人体実験も部隊の中で行っている、と説明しました。私たちの石井部隊の建物内部の見学はここで終わりました。建物から出るとき、石井中将は原少将に、部隊の細菌の在庫を製造する生産性は、多くの点で憲兵隊の運営と部隊に提供される人間の数にかかっている、その人間達は、彼の言葉によれば、来たるべき対ソ連細菌戦争にとても必要である、とはっきりと伝えていました。・・・・・
これか?
荒原城堡731第3集壁にペスト
・1956年の瀋陽特別軍事法廷の吉房虎雄の供述調書より
抗日愛国者多数を細菌戦の試験材料として虐殺す。
私は1941年9月より1942年3月の間に各憲兵隊長より申請してきた抗日愛国者約90人(1942年1年間145名の実例より推定す)を石井部隊731部隊に送致し同部隊をして細菌戦試験材料として極めて残虐なる堵殺を行わしめました。又同隊が菌培養のために使用するネズミ採取に対してハルピン憲兵隊をして協力せしめました。・・・
●細菌戦
●国策と犠牲
●特別取材:日米は731部隊の細菌戦の罪を密かに覆い隠している―日本人学者、近藤昭二氏を取材【新華社東京4月27日】日本のNPO法人「731部隊・細菌戦資料センター」の共同代表、近藤昭二氏が近ごろ新華社記者の取材に応じた際、日本は戦後米国に全ての731部隊の研究資料を渡すことを条件に、米国は昭和天皇と細菌戦の責任者の戦争責任を問わないという裏取引を行っており、今日まで日本と米国はまだ関連史料を公開していないと語った。
近藤氏は次のように語った。日本への戦後統治を順調に実現させるため、米国は日本の天皇制を維持させる必要があった。天皇の戦争責任を問わないという点で、日米は利益において合意に達していた。同時に、ソビエト連邦に対抗する必要により、米国は731部隊の研究資料がソビエト連邦の手に渡るのを見たくない。石井四郎(731部隊の創始者)はこの機に乗じて米国に交渉を持ちかけ、この裏取引が最終的に成立させた。日本は全ての731部隊のデータ資料を米国に渡し、また米国は昭和天皇と石井らの責任を問うことはなかった。
「私はかつて極東国際軍事裁判の審判に参与した米国人検察官と自ら話をしたことがあります。その検察官の話によると、東京に到着する前に、彼の上司であるキーナム(音訳)氏が天皇の戦争責任は問えないと伝えていたと言っていました。米国は最初から天皇制の維持を決めていたんです」と近藤氏は語った。
近藤氏は、細菌や毒ガスなどの生物・化学兵器は経済的且つ実利的で、銃砲と比べ殺傷能力や致死率が高く、自然資源の乏しい日本にとってはたいへん魅力があった。当時、国際社会では細菌兵器や毒ガスの使用禁止が取り決められていたが、日本は厳守しなかったと指摘している。
近藤氏は「生物・化学兵器の研究は非常に危険で、その濫用を阻止できるのはつまり倫理です。倫理の厳格な制限がない場合、戦時に731部隊が行った細菌戦が繰り返されないとはとても保証しかねます」、「私たちは必ず厳格な審査機関を設立することで関連の研究が生命理論に合っているかを監督しなければなりません。そして過去の歴史に対して厳格な検証を行うことが、ちょうど倫理体制を構築させる重要な材料となるのです。」と語っている。
731部隊めぐる日本と米国の密約、ジャーナリストの近藤昭二氏語る
・・・・また、「当時、中国の東北地域に設置された捕虜收容所には、米国人捕虜もおり、731部隊軍医の実験対象になった。それにより死亡した米国人も、後遺症が残った米国人もいる。戦後、それら米国人兵士は経験したことを、米国政府に訴えたが、米国は日本との密約があったため、それらを覆い隠した」という。
近藤氏は、「米国が、自国の兵士も731部隊の迫害を受けたことを知っていたにもかかわらず、それを覆い隠し、密約を交わしたことを、世界に知られたとすれば、結果は大きく変わっていた。米国政府にとって不利になる。現時点では推測にすぎないが、日本にとっても、米国にとっても、731部隊の事は秘密にしておきたい問題。今でも密約は密約で、両国ともに関連の資料を公開することは今後もないだろう」との見方を示している。
日本で医学シンポジウムを開催、731部隊などの医学犯罪問題について討論す
日本の「医の倫理」-過去・現在・未来-企画実行委員会は12日、京都で医学シンポジウムを開催し、日本の医学界が現在、中国侵略旧日本軍第731部隊の悪行を含む医学犯罪を消極的に隠蔽する姿勢に疑問を投げかけ、学界が戦時中の医学犯罪を検証し、歴史の事実を直視することで、医学界の医学倫理に欠ける現状を是正するように呼びかけた。
・731部隊の罪を暴き続ける、ペスト被害の生存者たち
●731部隊めぐる日本と米国の密約、ジャーナリストの近藤昭二氏語る
「731部隊はどこまで明らかになったか、この部分はまだ謎」
4月26日近藤昭二講演 001
4月26日近藤昭二講演 002
4月26日近藤昭二講演 003
4月26日近藤昭二講演 004
4月26日近藤昭二講演 005
●映像でみる731部隊とは
(参考)黒い太陽731
終戦50年特別企画
731部隊(アメリカとの取引き・戦犯免責の経緯、部隊員の証言等)
知ってるつもり「731部隊と医学者たち」
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
●731に関係する簡単な映像作品を作ってみませんか?
●敗戦前から敗戦後の流れを想像してみると?
・東京大空襲のみならず、地方の各都市も空爆にあう。また最悪の地上戦沖縄。そして、原爆だ。どうしてご聖断?(敗戦)が遅れたのか?その答えは、国体護持(天皇制存続)のためだ。このために多くの人たちが犠牲になった。731では施設の破壊と同時にマルタと呼ばれる人たちを全て殺して、隊員はいち早く日本へ引き揚げた。(国体を護持するための証拠湮滅)
・アメリカは、戦争中から日本人が天皇を神とあがめている事を知っていた。それを利用して占領統治円滑に進めようとした。日本とアメリカは敗戦前から、交渉を極秘にしていて、日本政府も空襲の事、原爆投下の情報をあらかじめ入手していた。そして広島に原爆が投下されるときに、畑俊六(当時第2総軍司令官)に第2総軍を広島に集めさせ、敗戦後に日本で天皇制打倒の反乱が起きないように壊滅させた。
・広島に原爆が投下されると、アメリカに心象をよくしようと日本医学者(石川太刀雄丸等、731からも参加)が現地に入り、原爆の被害状況(核兵器の破壊力・人体に対する影響)を調べて181冊の報告書を作成し英文にしてアメリカに敗戦後渡した。(治療はほとんどしない、731の免責をねらう)
アメリカは、原爆の被害の実態の公表などの報道を全て統制し、隠し続けた。治療は行わずABCCを発足させて、731関係者なども参加させて、人体に対する放射能の影響を極秘に調べた。「日本は核兵器の非人道的な訴えを国際社会に向かって発言しない」ということも731の免責をする条件の中に入っていたのでは?
平和とは人間の生命を 尊ぶことです。
(参考)「日本のいちばん醜い日」p524~525
次に藤田尚徳の「侍従長の回想」を引用する。蓮沼侍従武官長の奏上を聞く場面である。
陛下には蓮沼侍従武官長から奏上したが、〔略〕新型爆弾については、特別なおたずねはなかった様子だったが、広島市全域の報に、陛下は深い憂慮の色を浮かべておられた。〔略〕8日朝、東郷外相が決意の色を浮かべて参内してきた。そして御文庫地下壕の御座所に進んだ外相は、原子爆弾に関する米英の放送を詳細に言上すると、陛下は原子爆弾の惨害をよく知っておられ、次のように、一刻も速やかに和平を実現する事が先決問題である点をお示しになった。
天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ヨハンセン(吉田反戦グループの略)・グループはスティムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、その都度天皇に報告していたからである。
では、どうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理を付けられる見通しがたったからである。
東郷茂徳も天皇から“急げ”と告げられ、赤十字との交渉を急いだ。グルーはヨハンセン経由で天皇に8月6日の原爆投下の予定を告げていた。東郷茂徳は8日、天皇に会い、最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資産は凍結されますが、遅くとも3~5年後には凍結を解除してくれるとスティムソンが申しております・・・」と言ったはずである。それから天皇と原爆を“天佑”として終戦工作に入るべく相談したに違いない。(以上、引用)
8月14日から15日には宮城で某宮様が中心となって偽装クーデターを起こさせ、近衛師団長を惨殺し、偽命令を出したが第1総軍がおさえた。そして阿南(あなみ)陸相を自決させ、降伏の段取りをした。(天皇の敗戦の段取り?)
マッカーサーの主張などによりアメリカは、秘かに天皇制護持を容認し、日本の占領政策を円滑にいくようにして、731などの戦争犯罪で天皇に戦争責任が及ばないようにした。天皇とマッカーサーの極秘の会談は11回に及んだ。決して公開されることはない密約が多数存在するのでは?
アメリカも日本に配慮し、マッカーサーの日本上陸を余裕を持たせた。それまでに日本政府は、天皇の戦争責任に関わる極秘文書を焼却した。
・1945年8月30日にマッカーサーが厚木飛行場に降り立った時、「ジェネラル石井はどこにいるか?」と言って、部下にその行方を探させた。
・アメリカ占領軍の上層部は、石井四郎を早くから探し出し懇意にしていた。1945年11月20日行方不明のはずの石井四郎と若松町の石井の家で6名の米軍将校と会食をしている。
・占領軍上層部は中国の情報や日本人捕虜によって人体実験・細菌戦の情報の大まかな部分はつかんでいたが詳しい情報は得ていなかった。
・占領軍上層部は、天皇を利用した占領統治を優先するため、天皇の戦争責任が問われる問題は、東京裁判では取り上げなかった。
・731部隊の事は、細菌兵器開発に後れを取っていたアメリカが、極秘に調査団を送って調査させた。
・731を調べる調査団が来日したが、サンダース、トンプソンの時は、731部隊員は人体実験の事を極秘命令なので口を割らなかった。
・1947年1月、ソ連が柄沢の供述から、人体実験の情報を得たので、石井の訊問を要求した。アメリカは、事前に石井から人体実験の情報を聞き出し、ソ連には、アメリカと組み、うまく芝居を打って情報を与えなかった。
・1947年6月にアメリカは、731部隊の人体実験に関するフェルレポート、12月にヒルレポートを作成した。
・GHQ法務部のニール・スミスが、「捕虜に対する人体実験及び解剖」という明確な罪状によって、平房の石井部隊、新京の第100部隊や東京の陸軍軍医学校の医師や関係者などを根こそぎBC級戦犯として法廷に持ち込もうとしたが、参謀2部のウィロビーが法務部の調査を中止させた。
・1948年1月26日「帝銀事件」が起き、捜査が731部隊に及びそうになると、またもやGHQは731部隊の関係者の捜査を中止させた。
・占領時アメリカは、郵便や報道を厳しく検閲し、日本国内で原爆の事や731部隊の情報が出ると厳しく取り締まった。1950年代に入り「ハバロフスク裁判資料」が出たが、ソ連のシベリア抑留などの戦争犯罪を隠すものだとしてまともに取り上げなかった。
・戦後731部隊員がアメリカに渡り、A(炭疸菌感染)レポート、G(鼻疽菌感染)レポート、Q(ペスト菌感染)を書き上げ、アメリカの生物兵器開発に協力した。
・戦後、アメリカ政府・日本政府は731の情報【奉天の捕虜収容所の聞き取り文書やフェルレポートの各論、衛生学校記事(一部開示)、その他】を行方不明として隠して続けている!!
●天皇と731の関係は?
・天皇は生物兵器に関心があった。(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著(p229)
1925年9月赤坂御所に生物学研究所設置「昭和天皇」p61ハーバード・ピックス著(講談社)
1925年、ジュネーブ協定締結・・・毒ガスの禁止だけでなく、ポーランド代表の提案を入れ、細菌兵器の使用禁止もうたっている。・・日本とアメリカは批准しなかった。石井四郎、遠藤三郎に細菌戦の重要性を主張!!「医学者たちの組織犯罪」p60 常石敬一著より(朝日新聞社)
天皇の神格化1928(昭和3)年即位の礼(天皇:大元帥27歳)(約1年間かけて行われ、最後は大嘗祭)裕仁は現人神(あらひとがみ)になる。
27歳の若さで現人神?頭の中では大日本帝国の夢が膨らんでいたのであろうか?
昭和3年(1928年) 昭和天皇 即位の大礼
大日本国憲法では
第三條
天皇ハ聖ニシテ侵スヘカラス
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
となっている。天皇が神で神聖であり、元首であり、陸海軍に責任を持つことになっている。
ところが戦後補償裁判では「国家無答責」の法理によって、国・天皇の責任が一切追及されない。
何で、戦後も旧憲法が生きているのか?
(参考)国家無答責の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、国家無答責の原理ともいわれ、大日本帝国憲法のもとでは官吏は天皇に対してのみ責任を負い、公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする法理をいう。
1925年・・・治安維持法制定(国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。)
・1928(昭和3)年、昭和天皇の即位式・・・ほぼ1年かけて現人神・大元帥になった。(27歳)
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台もこの時期に築かれた。1928年、田中内閣は化学・生物兵器禁止国際議定書〔1925年調印の「窒素生ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」のこと。日本の批准は1970年〕の批准を見送った。翌年には枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎてとても実行できないと言う。・・「昭和天皇」p170ハーバード・ピックス著(講談社)
・1929(昭和4)年、昭和天皇、陸軍軍医学校視察、どのような目的があったのか?(軍医学校の中に1932年に防疫研究室が設置され、33年に規模を拡大。多くの京大や東大の教授達が嘱託として働き、731部隊などにいろいろな指令を出した。)「陸軍軍医学校50年史」より
軍刀には不思議な力がある?
・小泉元中将と助教授を結び付ける唯一の“接点”も細菌戦部隊だった。小泉は陸軍省医務局長時代、細菌戦準備を提唱した石井四郎元中将の最もよき理解者の1人であったし、後援者でもあった。小泉元中将の支援なくして日本の細菌戦部隊はありえなかったと言ってもよい。
その細菌戦部隊とかかわり、そこで人体実験を強いられたのが、自殺した助教授である。彼は医学者としては、手を染めてはならない人体実験を繰り返し、その良心の呵責から死を選んだのである。
小泉元中将を、日本の細菌戦を推進し、大きな流れを作った人物と位置づければ、助教授はその流れに巻き込まれ、のみ込まれた1人といえよう。・・・
(『細菌戦部隊と自決した2人の医学者』常石敬一・朝野富三著より)
小泉親彦・・・1932年(昭和7年)、近衛師団軍医部長に就任。1933年、陸軍軍医学校校長。1934年(昭和9年)、陸軍軍医総監(陸軍中将相当官)となり陸軍省医務局長に就任。1937年(昭和12年)、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。階級としては、軍医中将は軍医として最高位である。1940年(昭和15年)、勲一等旭日大綬章受章。1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任した。
1945年(昭和20年)、連合国軍の取り調べを拒否し、割腹自殺を遂げた。
軍医時代の小泉の大きな仕事
1、厚生省設置の推進 2、日本における毒ガス戦の基礎を築く 3、防疫研究室新設に協力し、この近衛師団軍医部長を兼務していた時、近衛師団の土地約5000坪の土地を「譲与」した。(1933年10月、新たな防疫研究室完成)
・厚生省とは国民の健康を増進するために作られたのではなく、強い兵隊を作るために作られたのか?
・毒ガスの人体実験は平房の731部隊の施設で516部隊と合同で行った。
・陸軍軍医学校と防疫研究室は、地下道でつながり、その地下道には、コンクリート製の水槽があって、ホルマリンの中に死体が、15、6体浮かんでいた。(『証言731石井部隊』郡司陽子著)(731部隊で、生体解剖したものを飛行機で研究室まで運んだのか?)
小泉親彦(こいずみちかひこ)
1928年~30年 石井ヨーロッパ視察、1933年背陰河(はいいんが)に秘密裏に東郷部隊設置
1933年防疫研究室完成(731部隊の司令塔)、1936年(陸軍軍医学校50周年)遂に防疫機関(731部隊)の新設をみるに至れり。(天皇の軍令に基く)
ここで、防疫研究室新設の理由として、欧米各国と比べ「我が国に之が対応施設なく」と述べられている。しかしすでに軍医学校にはこの研究室より規模も大きく、名称も似かよっている「防疫部」が設けられていたのである。対応施設云々こそ、細菌戦研究の研究室である事を、暗に認めたものであろう。この表現でも、一般に公開することを予定した文書においては、ぎりぎりの線であろう。・・・・・・
「同機関は内地防疫研究室と相呼応して皇軍防疫の中枢・・・・」の部分
満州の部隊は形式上関東軍に所属するが、東京の軍医学校と密接な連絡を取りながら、業務を行う、ということだろう。
(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著より)
『陸軍軍医学校50年史』P184
防疫研究室『陸軍軍医学校50年史』より
731部隊全景(『続・悪魔の飽食』森村誠一著)
・4宮殿下、陸軍軍医学校50周年式典にご臨席・・・731部隊(細菌戦)・毒ガス戦にかける思いも強かったのでは?
閑院宮(かんいんのみや)・・・1931年~40年陸軍参謀総長
梨本宮・・・元帥、敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、皇族としてただ1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。1937年6月、対中戦争への突入を東条と協議するため満州を訪れたのは、他ならぬ梨本であった。この意味では彼は全8年に及ぶ地獄のような戦争の開始者であった。(「天皇の陰謀」(上)p201)
朝香宮・・・1937年(昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加。南京大虐殺に関与。
東久邇宮(ひがしくにのみや)・・・太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将に就く
・4宮殿下陸軍軍医学校の50周年の式典に臨まれる。
陸軍軍医学校50周年記念行事について
細菌戦の予行演習?(夜の宴会:「よし、細菌戦で行こう!乾杯!」?
久邇宮(香淳皇后の父親)・・・生物学戦争についての情報を提供し続けた?
・永田鉄山・・・石井の特に細菌戦研究についての主張は、陸軍省や参謀本部において次第に支持を集めて行った。彼の意見を支持した人間のうち最も有力な人物が、1931年当時陸軍省軍務局軍事課長(陸軍中佐)で、1934年には実質的に最も力を持っていた局長である軍務局長(陸軍少将)に就任する永田鉄山だった。ちなみに、後に石井部隊が創設されてから、部隊長の石井の部屋には永田鉄山の胸像が飾られていたという。国家総動員を唱えていた。(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著)
・1937年(昭和12年)・・国民精神総動員【第一次近衛内閣が1937年(昭和12年)年9月から行った政策・活動の一つで、「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進した」運動。】「国体の本義」(神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。)
・1938年(昭和13年)・・国家総動員法発令【総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。】
・1941年(昭和16年)・・「臣民の道」7月の第3次近衛内閣時に文部省教学局より刊行された著作である。欧米の個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いている。
戦陣訓発表 (生きて虜囚りょしゅうの辱はずかしめを受けず、死して罪禍ざいかの汚名おめいを残すこと勿なかれ。)
1940年(昭和15年)皇紀2600年?に東京オリンピックを開催する予定だった。
道徳の強化、「日の丸」・「君が代」の強制、秘密保護法で隠す動き、軍事力強化、集団的自衛権を行使可能にする流れは
何か昔の動きと似ていませんか?
オリンピックよりも、脱原発、福島・東日本の復興にお金をかけたらいかがですか!!
全文は「ノブのノート」で!!