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「――ここです」 ハザードランプを出して年代物のライトバンを道端に停車させ、黄がそう言ってくる――サスペンションの寿命が終わっているのか乗り心地の酷く悪いライトバンの後部座席で、いい加減振動のせいでお尻の痛くなり始めていた美玲は安堵の息をついた。
アルカードが止まった車のドアを開けて歩道に出ていく。車に乗ったまま襲われることを脅威だと見做しているのか、アルカードの動きは迅速そのものだった。
瑪嘉烈醫院近く――くだんの国際コンテナターミナルから六百メートルも離れていない場所に車を止めているのだが、幹線道路のために横をびゅんびゅん車が走り抜けていって、怖くて仕方無い。美玲は右側のドアから出るのをあきらめて、アルカードに続いて路肩側のドアから歩道に降りた。
吸血鬼は車から若干距離をとり、油断無く周囲に視線を走らせている。だがそれを不思議に思ったのは美玲だけらしく、助手席の司祭は5さして気にした様子も見せていなかった。
黄はというといつでも銃を抜ける様に懐に右手を入れたまま、油断の感じられない視線で周囲を見回している――アルカードが安全であることを示す様に片手を挙げると、黄はそれで漸く警戒を解いた。
彼は左手でグレーのスーツのポケットをまさぐりながら、
「最後の定時連絡があったのが十時半――それ以降連絡が途絶えています。その捜査員たちからの最後の連絡は、標的に似た女性を発見したので追跡するというものでした」
周囲を警戒する様に見回していたアルカードがその言葉に小さくうなずいてみせる――アルカードの表情は精悍に引き締まっていて、子犬の相手をしたり猫に餌をやったりしていたときの穏やかな面影は微塵も無い。
右足の太腿にショットガンを固定している彼を見ながら、歩道を自転車で走ってきた女子高生ふたりがなにやら会話している。「映画の撮影かな」「でもカメラ無いよ」「あの鎧着た人とか、神父さんとかカッコイイよね」――、少女たちが通過するのを遣り過ごして、吸血鬼は視線をめぐらせ、そしてある方向を見据えて視線を固定した。
「アルカードさん?」
美玲の呼び掛けには答えない――吸血鬼の表情がゆっくりと崩れていく。やがてアルカードの口の端が吊り上がり、見る者の背筋を凍りつかせる様な獰猛な笑みがその面を彩った。
「見つけた……」
「……え?」
それまでに見たことも無い凶暴な笑みを浮かべている吸血鬼に、美玲は思わず間の抜けた声をあげた。だがそれにはかまわずに、吸血鬼がゆっくりと振り返る。アルカードは真昼の太陽のもとでレーザー光線の様に真紅の光跡を曳く視線を斗龍に据え――おのずから輝く真紅の瞳で彼の視線を絡め取った。
「斗龍――黄警部と美玲と一緒にここで待ってろ。日陰に入らなければ、吸血鬼は襲ってこられない。車に乗り込むのはかまわんが、そこらの建物の日陰には入るな」
そう言ってから、吸血鬼は今度は黄に視線を向けた。
「吸血鬼どもは俺が潰します。警部はここでお待ちください――ここなら安全です。日光に邪魔されて、吸血鬼は貴方たちに直接接近出来ない――今見つけた連中の位置から考えて、ここに物を投擲することも出来ない。ここから動かずに――車内で暖を取るのは結構。しかし建物の陰には近づかないでください。完全に全身が隠れるほどの日陰の中なら、噛まれ者どもは日中でも行動出来る」
その言葉を残して踵を返した吸血鬼に、黄が声をかける。
「吸血鬼殿。これを」
足を止めたアルカードが肩越しに振り返ると、黄はなにか煙草の箱くらいの大きさの物体を差し出した。
「無線機ですか」 黄が差し出した物体を手にして、吸血鬼はゆっくりと笑った。
「ええ、フェイフートァイの装備品です。役に立つかと思って借り出してきました」
黄が耳慣れない単語を口にする――それはなんですか、というのも空気が読めていない気がしたので、美玲は黙っていた。
「素晴らしい」
フェイフートァイ?
知らない単語だ――出来れば斗龍になんなのか聞いてほしかったのだが、彼はすでに知っているのか黙っていたので、仕方無く口を開く。
「フェイフートァイってなんですか?」
「飛虎隊――香港警察機動隊部隊の擁する、人質救出作戦に従事する特殊作戦部隊だ。手強い奴らさ――映画の『新警察故事』を観たことは?(※)」
本体から伸びたコードの先のイヤホンを耳に引っ掛ける様にして装着しながら、アルカードがそんなことを言ってくる――斗龍は特に気にした様子も無く、その様子を見守っていた。彼がなにも尋ねなかったのは、飛虎隊がどんなものかすでに知っていたかららしい。
それ以上なにも言わずに首元にマジック・テープでベルト状のマイクを留めている吸血鬼を見遣って、蚊帳の外の美玲は不満を表に出して唇を尖らせた。
それに気づいて、吸血鬼が笑う。彼は黄に視線を戻し、
「キー・ガンは?」
「すでに調整済みです」
吸血鬼の言葉に、黄がそう答える――アルカードはうなずいて、コートの襟元に止めたスイッチらしき物体に指先で触れ、抑えた声を発した。
「どうですか?」
「良好です」 黄がうなずいてそう答える――結果に満足したのか、アルカードはでは、と言葉を残して踵を返した。
†
「吸血鬼殿。これを」 歩き出しかけたアルカードの背中に、黄が声をかけてくる――彼が差し出してきた煙草の箱くらいの大きさの物体を目にして、アルカードはゆっくりと笑った。
「無線機ですか」
「ええ、飛虎隊の装備品です。役に立つかと思って借り出してきました」
「素晴らしい」 うなずいて、アルカードは差し出された超小型無線機を受け取った――美玲がなにやら物問いたげな表情で男性三人を見比べているのが視界の端に入ってきたが、とりあえずは頓着しない。
無線機本体をコートの内ポケットに納め、コードを取り回して、フックつきのイヤホンを耳に引っ掛ける様にして装着する――結局疑問を抑えきれなかったのか、美玲が口を開いた。
「フェイフートァイってなんですか?」
「飛虎隊――香港警察機動隊部隊の擁する、人質救出作戦に従事する特殊作戦部隊だ。手強い奴らさ――映画の『新警察故事』を観たことは?」
その言葉に、美玲が目を白黒させている――それを見遣って、吸血鬼はかすかに笑った。
飛虎隊はアメリカの特殊火器戦術部隊や日本の特殊強襲部隊に相当する、香港警察の機動部隊が擁する特殊作戦部隊だ。
編成は一九七〇年代に遡り、当時観光と貿易を基幹産業として発展しつつあった香港がテロ攻撃の標的になりやすかったために(実際に一九七一年にフィリピン航空の旅客機がハイジャックされ、啓徳空港に着陸している)、一九七四年に正式に発足したのがSDU――特殊任務連、俗に言う飛虎隊である。
その主な任務は対テロの他に密入国・貿易の取締り、麻薬摘発、人質救出、銃器を用いた犯罪の鎮圧と幅広い。警察組織の一部ではあるものの、香港政府には独自の軍事組織が無いために軍事クラスの任務もこなすことがある。
選抜方法や訓練内容はイギリス陸軍から選抜された特殊空挺連隊を基本にしており、アジアの警察部隊ではトップクラスの能力を誇るとされている――装備もそれなりに充実していると言えるだろう、この超小型無線機もなかなかいいものだ。
自分だけが脇に追い遣られているのが気に入らないのか、美玲がわずかに唇を尖らせるのが見えた――それには頓着せずに、アルカードはベルト状のマイクをマジック・テープで首に巻きつけた。
スロート・マイクと呼ばれる、声帯の振動を直接拾うタイプのマイクだ――通常のヘッドセットと違って声量を抑えた囁き声でも確実に拾うことが出来、周囲の雑音を気にする必要も無い。パソコン用のマイクとしては微妙なところだが。
「キー・ガンは?」
「すでに調整済みです」
吸血鬼の言葉に黄がそう答える――アルカードはうなずいた。キー・ガンは任意の暗号解読コードを無線機に入力する道具で、ふたつ以上の無線機で共通の暗号解読コードを選択することで秘話通信が可能になる――どこかの素人無線マニアがなにかの間違いで通信内容を傍受したところで、雑音にしか聞こえないのだ。
アルカードはコートの襟元に止めた感圧式のリモート・スイッチに指先で触れ、抑えた声を発した。
「どうですか?」
「良好です」 黄がうなずいて、同じく聞き取りにくい囁き声でそう返事をしてくる――スロート・マイクはその音声をきっちり拾って、イヤホンを介してアルカードの耳に伝えてきた。若干音が大きすぎる――音量が大きいのではなく、人間の数十倍もの聴力を持つ吸血鬼であるアルカードの聴覚が優れ過ぎているのだ。
音量をもう少し抑えたところで結果に満足して、アルカードはでは、と言葉を残して踵を返した。
歩くたびに甲冑の装甲板がこすれあって、耳障りな音を立てる――二、三分ほど歩き続けるうちに葵涌病院の建物が瑪嘉烈醫院の建物の向こうに隠れて見えなくなった。
瑪嘉烈醫院の建物を横目に見ながら、アルカードは道なりに歩道をてくてくと歩いていった――来る途中の幹線道路が大型トラックばかりだったのは、コンテナターミナルに近いからだろう。
振り返ると視界を横断する高速道路の向こう側に、赤い耐錆塗装が施された鉄骨組みのクレーンが海岸沿いに列をなしているのが見えた。
葵青貨櫃碼頭だ。
世界最大とまではいかないが、世界有数の貨物取り扱い施設のひとつだ。コンクリートで護岸処置された上に海に面して鎮座したいくつもの赤いクレーンの背後に、色とりどりの無数のコンテナが置かれている。その数は優に数百を超える――ことによっては千にも容易く手が届こう。
やがていくつも並んだ集合住宅が視界に入ってきて、彼はいったん足を止めた。
清麗苑――合計七棟が存在する、各棟それぞれ十四階建ての集合住宅だ。各階六戸の部屋がずれ込んでつながっている構造になっていて、上空から見るとなんとなくテーブル・タイプのインベーダーゲームのドット絵を連想させる。
窓は真北もしくは真南に面しているため、どちらに入居するかによって日当たりはまるで違ってくる。窓からハンガーで吊り下げられた洗濯物が強風にはためいているのが見えた――こうして見る限り、ベランダがあってその両脇に窓がひとつずつある。
その横の小さな窓は、おそらく風呂かトイレだろう――上のほうの階にある部屋のいくつかは、窓を開け放っている様だった。
トイレだとしたら臭いを追い出すために、風呂だったら湿気を逃がすために開け放っているのだろう――さすがにリビングの窓をこの季節に開け放っているところは無い様だった。
不用心だと言ってしまえばそれまでだが、この近辺はお世辞にも平均所得が高いとは言えないので、盗みに入っても金目のものが無いのだろう――ただ単に住人がいるだけかもしれないが。
いずれにせよ――清麗苑を通り過ぎれば、目的の場所は近い。
※……
原題は『新警察故事』、邦題は『香港国際警察/NEW POLICE STORY』。
ジャッキー・チェン主演のアクション映画。 日本では東宝東和系で二〇〇五年三月五日に公開されました。
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