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瑪嘉烈醫院の病院の名称の英訳はPrincess Margaret Hospital、マーガレット姫記念病院を意味し、PMHと略されることもある。
イギリスによる香港統治下の一九七五年に設立され、名前の由来はエリザベス二世の姉妹であるマーガレット王女にちなんだものだ。比較的安くて、香港の病院の中では設備も整っているほうだと言える――父が言うには、斗龍が生まれたのもここらしい。
亡くなった母親のことを幼いころの彼に話して聞かせているときの父親の表情をなんとなしに思い出しながら――斗龍は歩道を歩いていくアルカードの背中を視線で追った。
アルカードは道路を挟んで右手に見えている清麗苑と、瑪嘉烈醫院の間を通り過ぎたところだ。
黄の部下たちが消息を絶った場所は、アルカードが車を止める様指示した場所からかなり離れていた――おそらく非戦闘員である斗龍や、特に美玲を現場に近づけることを嫌ったのだろう。
アルカードはひとりなら、どんな場所からでも生還出来る――上位吸血鬼の桁はずれの運動能力と知覚能力と反射能力、五百四十年を超える長い生の間に培われた経験と技量、圧倒的な魔力容量、そして心臓や脳を破壊されても死ぬことの無い不死身の肉体。
だが、彼らはそうではない――斗龍は父親からある程度の訓練は受けているが、それはアルカードをして一人前と見做して貰えるレベルには程遠い。
美玲は本来聖堂騎士団には一切関わらせないというのが剛懿の方針で、実際彼女が泣き喚いて嫌がらなければ美玲はもっと普通の、まともな教会に送られて保護されることになっていただろう。
当然彼女は一切訓練は受けていない――それを抜きにしても、アルカードは非戦闘員を戦闘区域に近づけることを嫌うだろうが。
黄は前任者に紹介された内容を信じるなら、以前は飛虎隊に所属していた凄腕の戦闘員だ――実際、彼の挙動には仕掛けられる隙が見出せない。だが吸血鬼化によって常人の数倍、適性によっては十数倍もの身体能力を手に入れた吸血鬼の群れには、まったくの無力だと言える――アルカードに至っては、黄が『殺された』と認識する前に首を刎ね飛ばせるだろうが。
要するに吸血鬼というのは、生身の人間では張り合えない相手なのだ――高位の吸血鬼、特に『剣』の中には生前の数十倍近い凄まじい身体能力を獲得した者さえいるという。
アルカードに至ってはよほど高い適性を持っていたのか、その運動能力は並みの『剣』を軽く上回るものらしい――斗龍が直接目にしたわけではないが、剛懿の話によると、彼がまだアルカードの教室の生徒だった十代のころ、アルカードは襲撃してきた吸血鬼十六体を一瞬でミンチにしてみせたという。
つまるところ、足手纏いがいないほうが気楽に戦えるということなのだろう――かばう必要のある相手がいなければ、いったんその場から撤退して体勢を立て直したり、誘い出して罠に嵌めるという戦術もとれる。
剛懿は斗龍に自分の師匠――つまりアルカードの受け売りだと前置きして、敵と戦うときはその場で勝つことにこだわるな、なにを守る必要も無いなら最終的に勝ちさえすればいい、いったんその場から逃げ出して体勢を立て直すのも、逃げるふりをして敵を誘い込んで相手の連携を崩したり、敵を分散させて各個撃破したり罠に嵌めるのも立派な戦術だと言い聞かせてきたものだ。
そんなことを思い出しながら――斗龍は自分の周囲を見回して、およそ吸血鬼に対する備えとしては十分なものだと判断した。
完全な日なたになっている幹線道路の路肩に車を駐車し、その周囲にいる。
並みの噛まれ者は直射日光に曝されれば、数秒以内に消滅する。聖堂騎士団の座学を信じるならば、噛まれ者は日中でも日蔭であれば行動は可能なはずだ。したがって、こちらが日蔭にいるのなら接近は可能だ――が、周囲には日光を遮蔽するものがなにも無い。
無論車の影は日蔭だが、それが建物の影とつながっていないなら問題無い――日蔭を伝って接近するには、体が完全に隠れる範囲が完全に日光から遮蔽されていなければならない。
体の一部でも直射日光に当たればその時点でその部分が消滅し、激痛に苛まれることになる――消滅箇所によっては体勢を崩し、さらに広い範囲を直射日光に曝すことになる。
日光を浴びて塵になった箇所は二度と再生せず、さらに四六時中激痛を味わうのだと、以前剛懿が話していたことがある。狂犬病に罹患した犬や人間が、本能的に水を恐れる様なものだ――本能的にそれがわかっているからだろう、噛まれ者は決して日中に日光を浴びそうな場所に近づこうとしない。
どこかの建物に潜んで、こちらに向かって物を投擲したり飛び道具を使って狙ってくる可能性も否定は出来ないが――雲ひとつ無い青天の日に、窓に近づく様な真似はしないだろう。
『クトゥルク』がこの数時間で何人の吸血鬼を増やしているのかはわからないし、今のところ黄配下の香港警察の警察官二名の失踪の原因が吸血鬼だと特定出来たわけでもない。
仮に吸血鬼の仕業であっても、それが『クトゥルク』配下の吸血鬼の仕業であるとする確証も無い。
だが――
『クトゥルク』は直接の下位個体、下僕を最低でも一体は用意しているだろうというのがアルカードの見立てだった。
『クトゥルク』は、直接吸血を行わない――下僕とその下位個体が吸血鬼と同様の振る舞いをするためにその上位個体である『クトゥルク』も吸血鬼であると看做されているが、『クトゥルク』自体は吸血能力はあるものの吸血を行わない。通常の吸血鬼と違って吸血を行っても自己強化出来ないことと、普通の吸血鬼の様に吸血を行わなくても死ぬことが無いというのがその理由で、だったらそんなことに油を売っている間に逃げる算段をすべきだというのがアルカードの考えだった。
ただし――
薄笑いとともにアルカードが口にした言葉を思い出して――斗龍は美玲と黄に車に乗る様に手で促した。
俺が奴なら、こっちの注意を引きつけておくために囮を用意するだろうな――だから最低限一体は、噛まれ者を増やすために繁殖能力を持った下僕が必要になる。
無論本当に『クトゥルク』が下僕を作ったかどうかはわからないし、その下僕が彼の見立て通りに噛まれ者を増やしていると考える根拠も無い。
だが、吸血鬼を狩り出して殺すことにかけてはアルカードの右に出る者はいない――彼がそう言うのならばそうなのだろう。
そしておそらく、『クトゥルク』はすでにその現場にはいない。
これも囮同様に、アルカードの見立てだった――『クトゥルク』本人が力を取り戻していないこの状況で、下僕や噛まれ者と一緒に固まっている意味は無い。
下僕の吸血によって作られた噛まれ者は、それほど力が強くない――そういった出自を持つ噛まれ者が十分な力を得るには、それなりに時間が必要だ。どう頑張ったところで、その場でアルカードと決着をつけるための戦力にはならない。
昨夜だけで数十年生きた下僕三体と多数の寄せ肉ゴーレム、噛まれ者がアルカードに撃破されているのだ。つまり一晩で用意出来る程度の数では、足止めにすらならないということだ――個体個体の能力の不足も著しく、数をそろえる時間も無い。したがって囮がせいぜいだ。
だがそれがわかっていても、彼は必ず囮に引っ掛かる――おそらく『クトゥルク』はそう判断したのだろう。
実際、アルカードはわざとその囮として作られたであろう下僕の撃滅を優先している。
理由はふたつ――ひとつは下僕の手にかかった吸血被害者が噛まれ者もしくは喰屍鬼としての適性を持っていた場合、普通の吸血鬼の吸血被害者に比べて復活までの時間がかなり短いこと。
これは下僕本人が直接吸血した被害者に限ってのことだが――下僕本人が吸血を行えば、かなり短時間で噛まれ者の集団を作り出せるのだ。
ふたつめはそれを野放しにすれば、ものの数日で香港が丸ごと壊滅状態に追い込まれかねないこと。アルカードが『クトゥルク』を取り逃がしたのは昨晩深夜の話だが、アルカードの予想が正しければ、下僕が増やした噛まれ者がすでに複数蘇生している可能性が高い。
下僕、噛まれ者ともに日光に対する耐性は無いので、日が出ている間は塒から出歩くことは無いだろう。
だがいったん日が暮れてしまえば――下僕がいるぶん、下位個体の個体数が増えるペースは吸血鬼のみがいる場合よりも早くなる。
そしてアルカードにとっては塵芥同然の存在でも――生身の人間にとっては十分な脅威になる。だからこそ、アルカードはすでに存在の可能性が高い下僕を中心とした群れの撃滅の優先を選択したのだ。
本当に『クトゥルク』が下僕を作ったのかは技量不足の斗龍にはわからない――し、アルカードがそう言っているだけで、噛まれ者が現実にいるかどうかも確認出来てはいない。いないのだが――
だがたとえ変わりかけだろうと、アルカードは香港程度の狭い範囲なら一体たりとも見逃すまい――すなわち黄の部下たちの失踪の原因になっているかどうかは別として、また『クトゥルク』と直接関係あるかどうかもこの際置いておいて、今香港には人々の脅威になりうる吸血鬼がいるのだ。
それに加えて、黄の部下たちが吸血鬼の脅威に晒されている可能性があるという理由もあるだろう――アルカードは自分の協力者をないがしろにはしない。相手の支援をただ受けるだけでなく、それらは相手の国家や国民の安全確保にも資しており、また要請に応じて手を貸すこともある。だから聖堂騎士団、それに聖堂騎士団が仲介する人間たちとの協力関係が成り立っているのだ。
その立場からはアルカードが香港市民の安全確保と被害抑制を第一に考えるのは当然のことで、囮だとわかっていても撃破に向かうのも当然の行動だと言える。
それに、まあ――彼らは日光に耐性を持たない、つまりどこかの建物の中で日差しを避けている。今の状況では行動に制限のある、日中に殲滅するのが一番確実だ。
黄の部下たちがどこで被害に遭ったにせよ、噛まれ者たちは今いる建物から移動してはいないだろう――日中に屋外を出歩くのは、硫酸のプールに飛び込むも同然だ。日光に身を晒したが最後、数秒とたたずにその生命は終わりを迎える。
アルカードがここに駐車して待機する様指示したのは、噛まれ者がどうやっても直接攻撃出来ない位置だからだ――敵は逃げられないのだから、あとはいかに捕らえられているであろう警察官二名の安全を確保しつつ接近し強襲するかが問題だ。アルカードが移動中に車内で用意していた閃光音響手榴弾のことを思い出しながら、斗龍は小さく息を吐いた。
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