鋼の砕片が飛び散り、こめかみをかすめて小さな痛みが走る――飛散した破片が眼に入らずに済んだのは僥倖だった。
上体をのけぞらせていたために、大戦斧の斬撃を受けずにはすんだ――が、その点に関しては果たして僥倖だったのか否か疑問をいだかざるを得ない。
この一年半の間ともに戦場を駆けてきた牝馬の体が、ぐらりと傾いだ――馬の首から上が無くなり、折れた枝の様な荒い切断面から大量の血があふれ出している。
途端に屍と化した馬ががくりと膝――馬の場合でも膝というのかどうかは知らないが――を折り、地を駆ける勢いのまま体勢を崩して地面に崩れ落ちる。
その背中から投げ出されて、ヴィルトールはごろごろと地面を転がった――今でも保持している剣で体を傷つけない様に、右腕を頭上に伸ばしながら。
回転の勢いを利用してそのまま立ち上がり、ヴィルトールは状況を把握するために周囲に視線を走らせた。巨漢の騎兵は突進の勢いのまま駆け抜けたために距離が離れ、ほかの騎兵は周囲にいない。代わりに歩兵が数人、こちらに向かって走ってきている。
地面は比較的柔らかく、軽装だったこともあってたいした怪我にはならなさそうだった――まあ打ち身で痣くらいは残るだろうが、それは別にかまわない。骨折して戦闘が継続出来なくなったり、失明や首の骨が折れて即死することになるのに比べれば幾分かましだ。
「殺 れ!」 声をあげて、数人のイェニチェリが襲いかかってきた――訓練は行き届いているらしく、動きが軽快だ。
ヴィルトールがすぐに立ち上がったからだろう、イェニチェリの兵たちは一気に襲いかからずにヴィルトールを取り囲んだ。
「隊長!」 叫んだのは、彼の率いる残存部隊の誰かなのだろう。
「いい――来るな!」 どこから聞こえたのかもわからない声にそう叫び返して、ヴィルトールは折れた長剣を逆手に握り直し、両腕の下腕を交叉させる様にして身構えた。
「どうした、とどめを刺さんか!」 巨漢の騎兵が声をあげる――もう勝ったつもりか? 救い難い愚か者が。
胸中でだけつぶやいたとき、視界の端で敵兵が動いた――すでに勝利を確信しているのか、次の一撃でとどめを呉れるつもりらしい。ヴィルトールは振り返り様に左腕を振り回し、敵兵の繰り出してきた一撃を手元を払いのける様にして軌道を変えた。同時にそのときのステップと上体のひねりを利用して、右手で保持した長剣を握ったままの右拳を歩兵の頬に叩き込む。
「がっ――」 短い悲鳴とともに体勢を崩した歩兵の肩を左手で掴み、ヴィルトールはそのまま敵兵の体を引き摺り回す様にして地面に投げ棄てた――ついで別の敵兵が、こちらは真正面から襲いかかってくる。
ヴィルトールは地面に倒れた敵兵にはさしあたってそれ以上かまわずに、新たな敵に対して体を横に向けた。
いちいち構え直す必要など無い。相手に体を横に向けていれば――踏み込むことさえ出来れば、攻撃は繰り出せる。
先ほどの兵士よりもこちらを警戒しているからだろう、振りの小さな一撃を繰り出してくる――先ほどの敵兵に比べてもなかなか速い。
だが――ヴィルトールは体を半身に開いたまま、繰り出された一撃を左手で押しのける様にして軌道を変えながら踏み込んだ。そのまま動きを止めずに脇をすり抜け、ついでに右手で保持した剣の折れた尖端を背中側から左腰に突き立てる。
腎臓のあたりを貫かれて、悲鳴もあげられないままイェニチェリがその場に崩れ落ちた。
「けぇっ……!」
声をあげて、敵兵が背後から襲いかかってくる――そちらに向き直るために転身しかけたとき、右手首を掴まれ足を刈られて、ヴィルトールはそのまま地面に押し倒された。大ぶりの武器では捉えられないと判断したのだろう、こちらの体に馬乗りになって武器を保持した右手首を抑え込み、懐剣を抜き放って刺殺するつもりらしい。
そうだ――敵が武器を持っていれば、武器を警戒する。
縺れ合う様にして地面に倒れ込み、体をねじって上体を仰向けにしながら、ヴィルトールはゆっくりと嗤った。
武器を持っているから武器 しか見ない――だからおまえは避けられない!
敵兵が右手を腰元の短剣に伸ばすよりも早く左手を伸ばし、敵兵の胸元を掴んで強く引きつけながら、同時に腹筋に渾身の力を込めて上体を起こして――ヴィルトールは敵兵の顔面を、自分の額で叩き潰した。
「ぎゃぁぁっ――」 感触からすると、おそらく鼻が潰れるかなにかしたのだろう。苦悶の声をあげて体をのけぞらせた敵兵の拘束から解放された右手を振るって、ヴィルトールは短くなった剣の尖端で敵兵の喉笛をかすめる様にして引き裂いた。
水平に引き裂かれた喉笛から噴き出したまだら色の血を浴びながら、その体を横に押しのける様にして振りほどく。そのときには、最初に殴り倒した敵兵が立ち上がり、体勢を立て直している。
醜く腫れた顔を怒りに歪ませ、その敵兵が地面を蹴った――凶悪な形相を浮かべて怒声をあげ、剣を右脇に隠す様にして駆けてくる。
だが――
敵兵が繰り出した刺突が、むなしく虚空を貫く――顔は見えなかったが、動揺の気配が伝わってきた。
刺突を掻い潜る様に体勢を沈めて踏み込みながら、左手で頭上にある剣を握った手首を捕る――同時に敵の鳩尾に肘を埋め込み、ヴィルトールは続く一動作で敵兵の足を刈り払った。
体をくの字に折った敵兵の頭に上体ごと振り回す様にして横殴りに右肘を撃ち込み、ヴィルトールは倒れ込んだ敵兵の頭部を踵で踏み砕いた。
「悪いな――」 聞く者のいない言葉を口にしながら適当にひらひらと手を振って、ヴィルトールは唇をゆがめて笑った。
「得物が折れようが無くなろうが、俺はたいして困らねえんだ」
そう告げたとき――巨漢の騎兵が喊声をあげながら突っ込んできた。こちらが落馬した時点であとは歩兵に任せてもいいと判断したのだろうが、三人の歩兵が全員斃されたことで考えを変えたらしい。
全速力で突っ込んでくる巨漢の騎兵に向き直り、ヴィルトールは甲冑の装甲の隙間から投擲用の短剣を右手で引き抜いた――左手でもそれなりの精度はあるが、右手のほうが確実だ。
巨漢の騎兵がこちらに到達するよりも早く、ヴィルトールは手にした短剣を投げ放った――これが正面を向きながら斜めに走れる様な器用な生き物だったならともかく、普通の馬にはそんな器用な真似は無理だ。
悲鳴をあげながら、巨漢の騎兵の騎馬が体勢を崩す――右目に突き刺さった短剣の鋒が、そのまま脳まで達したのだ。
転倒した騎馬の鞍上から投げ出され、巨漢の騎兵が地面に転がり落ちる。
突起物だらけの仰々しい甲冑は、転がって受け身を取るのには向いていない。突起が地面に引っ掛かったために転がって受け身を取ることも出来ないまま、巨漢の騎兵は地面に投げ出された。
憤激に顔をゆがめながら、重装甲冑を身に纏った騎兵はその場で立ち上がり、ずれた冑を脱いで足元に投げ棄てた。案外頑丈なことに、骨折の類は無いらしい。
「貴様、よくも私の馬を」
「あーそうだな、ごめんねえ。うちの馬にもあとで謝っとけよ」 巨漢の騎兵の怒声を鼻で笑い、ヴィルトールは適当に手招きしてみせた。
巨漢の騎兵が手にした大戦斧の柄を握り直して、燃え盛る炎の様な苛烈な眼差しでこちらを睨みつけてくる。
それを無視して、ヴィルトールは再び身構えた。
「嘗められたものだな、小僧――そんな短くなった得物で私と斬り合って勝てるつもりか」
「さあな、勝てるかどうかは知らねぇよ――勝つつもりではいるがね」
「ふむ」 巨漢の騎兵はその返答にわずかながら感心した様に眉を上げ、こちらの左腰に吊ったもうひと振りの長剣に視線を投げた。馬上戦用ではなく地上戦用の、腕の長さほどの歩兵用の長剣だ。
「本気で勝つつもりなら、それを使うことを勧めるが」
「ご忠告どうも――だが必要無い」 そう答えてから、ヴィルトールは唇をゆがめて笑った。
「さて、ついでだ。これから一騎討ちをやろうって相手だ――名前くらいは聞いとこうか」
「バイェーズィート」 巨漢の騎兵が短く答えてくる。
バイェーズィート――言いにくいその名前を胸中で反芻してから、ヴィルトールは唇をゆがめて笑った。
「無駄話は終わりだ、さっさと始めようぜ」
「よかろう。その潔さは称賛するが――若造の雑言は聞くに堪えん」
「同感だ――実力の伴わないおっさんの世迷言はもう聞き飽きたよ」 ヴィルトールはそう答えて、一瞬だけ目を細めた。
†
「無駄話は終わりだ、さっさと始めようぜ」
「よかろう。その潔さは称賛するが――若造の雑言は聞くに堪えん」
「同感だ――実力の伴わないおっさんの世迷言はもう聞き飽きたよ」
バイェーズィートの言葉にそう答えて、ワラキア人の若者――ヴィルトールと名乗っていたか――がすっと目を細める。
嘗められたものだ――胸中でつぶやいて一歩踏み出したとき、ヴィルトールが一瞬だけこちらから視線をそらした。
ほんの一瞬こちらから視線をはずして背後に視線を投げ――そしてそれにこちらの注意がそれた瞬間、ヴィルトールはすでにこちらの間合いを侵略していた。
――な!?
こちらの動揺をよそに、ヴィルトールが逆手に握った剣を振るった。
慌てて上体をそらし、一撃を躱す――折れた剣の尖った先端が首元を浅くかすめ、皮膚が避けて血がにじむのがわかる。
同時に片手で保持した巨大な戦斧の柄を握り直し、バイェーズィートは大戦斧を右から左に横薙ぎに振り抜いた。
だが手応えは無い――手応えは無い。
躱された!?
身の丈ほどの間合いのある大戦斧の鋒から逃れて、ヴィルトールがゆっくりと嗤う――そして彼は、再び地面を蹴った。
まるで獲物を狙い定めた獣の様な俊敏な動きでこちらの間合いを侵略し、右手で保持した剣で斬撃を繰り出す。
防御のために翳した大戦斧とヴィルトールの剣の刃が衝突し、立て続けに金属音が響き渡った――いったん間合いを離すために、左足で足払いを繰り出す。
だが足払いの結果は、それを躱すどころか思いきり蹴り抜かれただけだった――こちらの蹴り足をいったん後退して躱し、その蹴り足を加速する様にして踵側から蹴飛ばされたのだ。
蹴り足を止めて踏鞴を踏んだときには、すでにヴィルトールはそこにはいない――蹴り足を迎え撃つどころか蹴り飛ばされたために足の位置が大きく変わり、結果として体の向きも変わっている。
おそらくこちらの足払いを躱し様にふくらはぎか踝びあたりに蹴りを呉れて体勢を崩したあと、そのままこちらの左側に廻り込んだのだろう――彼の体が右回りに廻ったし、武器は右手に持っている。左側に廻り込むにはごく小さな距離の移動で済むし、攻撃も繰り出しにくい。
大戦斧を左手に持ち替えて左側を薙ぎ払う様に攻撃を繰り出そうとしたとき、膝の裏側に蹴りを入れられて、バイェーズィートはたまらず膝を折った――振り返ったときには、ちょうどその顔めがけてまっすぐに爪先が飛んできている。
大戦斧を左手に持ち替えていなければ、左手で受け止めることも出来たのだろうが、そうもいかなかった。重い大戦斧を保持した左手は、到底この攻撃に対応出来ない。
体を横に投げ出す様にして攻撃を躱し、何度か踏鞴を踏んでから体勢を立て直す。
こいつ――!
仰いだ顔が笑っている――嗤っている。
ヴィルトールは嗤ったまま、離れた間合いを詰め直すためだろう、再び地面を蹴った。
小さく舌打ちして、手にした大戦斧を放り棄てる――大ぶりの得物を振り回しては、この男を捉えるのは到底不可能だ。
それを目にして、ヴィルトールが笑う――彼が一瞬口元をすぼめる様な動作を見せた次の瞬間右目の視界がいきなり潰れ、バイェーズィートは小さくうめいた。
なっ……!?
含み針――鉛玉か? 口の中に含んでいたなにかを、こちらの顔に向けて吹きつけてきたのだ。
痛みもなにも感じられなかったし、右目の視界が無くなったわけでもない――まるで目に雨滴が直接入り込んだかの様に、視界が歪んでいる。
液体――唾か!
後退しながら剣の柄に手を伸ばし、バイェーズィートは小さく毒づいた。
おそらくこちらの反撃の挙動を遅らせるために、唾液かなにかを吹きかけてきたのだろう――眼に入ることを期待していたのかどうかまでは知らないが。
「Aaaaaaaaaa――lalalalalalalalalalalie !」 声をあげて――殺到してきたヴィルトールが、左拳を固めてまっすぐに突き出してきた。
やや狙いの甘いその一撃を上体を傾けて躱しながら、胴を狙って抜きつけを繰り出す――そのときには、ヴィルトールは拳を撃ち抜く勢いのまま右回りに転身している。
――右側にっ……!
視界の端に残った獅子の尾を思わせる金色の髪が、ふわりと舞ってまたふわりと落ちる――次の瞬間、ごつ、という鈍い音とともにこめかみになにかが衝突し、視界に火花が散った。
おそらく転身した動作のまま、剣の柄頭をこめかみに叩きつけてきたのだ――衝撃で視界が揺れたが、バイェーズィートはかまわずに剣を振り抜いた。
が、次の瞬間にはその一撃は手元を押さえて止められている――剣を手放した右手で、こちらの手元を押さえにきたらしい。投げ棄てられた剣が地面から顔を出した岩に衝突して、ぎゃりんという音とともに火花を散らす。
おそらく転身動作から直接攻撃動作につなげてきたのだろう――柄頭で殴りつけられたこめかみに、再び衝撃が走る。
なにをされたのかはわからない――おそらく左手での攻撃なのだろうが、右目が唾液が入り込んだままのせいでろくに視界が利かないこともあり、視界外からの攻撃なので見えなかった。
続いて、今度はこちらの手元を押さえて斬撃を止めていた右手が跳ねた――繰り出されてきた拳がこめかみをかすめ、皮膚が浅く裂けて血が噴き出す。
なんという男だ――自分の読みがなお甘かったことを痛感しつつ、バイェーズィートは小さくうめいた。
この若者は剣術に秀でた戦士だと思っていたが、どうやらそうではないらしい――彼の得手は本来、剣術ですらないのだ。本来彼が得手とする戦闘技術は、素手での格闘、あるいは剣術との複合なのだろう。
合戦は馬上戦が主体だったために、本来の技量を用いる機会はろくに無かったというだけの話で――剣が短くなっても、地上戦に持ち込めば彼にとってはさして不都合など無いのだ。
冑を脱いだのは失敗だった――冑をかぶったままでいれば、ヴィルトールも戦い方を変えざるを得なかったし、こうまで一方的にやられることも無かったはずだ。
脳震盪を起こしかけているのか、視界がぐらぐらと揺れている――ほかに狙うところが無いからだろうが、ヴィルトールの攻撃を頭部に集中して受けたせいだ。
堪らず膝を突いたとき、かたわらのヴィルトールの左足が跳ねた――それがわかったのは動きが見えたのではなく、影のおかげだったが。
下がった頭に横殴りの蹴りを叩き込むつもりなのだろう――上体を沈めてその蹴りを躱しながら、バイェーズィートは地面のすぐ上を滑らせる様な軌道で手にした長剣を振り抜いた。
蹴りの軸足を刈るつもりの一撃だったが――手応えが無い。
蹴りを躱された時点で、こちらの攻撃を読んでいたのだろう。刃を跨ぎ越える様にして攻撃を躱し、ヴィルトールがこちらの正面で体勢を立て直す。
ヴィルトールの左足が跳ね、引き戻しかけていた右手に保持していた長剣を爪先が弾き飛ばした――弾き飛ばされた長剣がくるくると回転しながら宙を舞い、少し離れた地面に突き刺さる。
蹴り足を引き戻し――ヴィルトールがこちらを見下ろして、ゆっくりと嗤った。
上体をのけぞらせていたために、大戦斧の斬撃を受けずにはすんだ――が、その点に関しては果たして僥倖だったのか否か疑問をいだかざるを得ない。
この一年半の間ともに戦場を駆けてきた牝馬の体が、ぐらりと傾いだ――馬の首から上が無くなり、折れた枝の様な荒い切断面から大量の血があふれ出している。
途端に屍と化した馬ががくりと膝――馬の場合でも膝というのかどうかは知らないが――を折り、地を駆ける勢いのまま体勢を崩して地面に崩れ落ちる。
その背中から投げ出されて、ヴィルトールはごろごろと地面を転がった――今でも保持している剣で体を傷つけない様に、右腕を頭上に伸ばしながら。
回転の勢いを利用してそのまま立ち上がり、ヴィルトールは状況を把握するために周囲に視線を走らせた。巨漢の騎兵は突進の勢いのまま駆け抜けたために距離が離れ、ほかの騎兵は周囲にいない。代わりに歩兵が数人、こちらに向かって走ってきている。
地面は比較的柔らかく、軽装だったこともあってたいした怪我にはならなさそうだった――まあ打ち身で痣くらいは残るだろうが、それは別にかまわない。骨折して戦闘が継続出来なくなったり、失明や首の骨が折れて即死することになるのに比べれば幾分かましだ。
「
ヴィルトールがすぐに立ち上がったからだろう、イェニチェリの兵たちは一気に襲いかからずにヴィルトールを取り囲んだ。
「隊長!」 叫んだのは、彼の率いる残存部隊の誰かなのだろう。
「いい――来るな!」 どこから聞こえたのかもわからない声にそう叫び返して、ヴィルトールは折れた長剣を逆手に握り直し、両腕の下腕を交叉させる様にして身構えた。
「どうした、とどめを刺さんか!」 巨漢の騎兵が声をあげる――もう勝ったつもりか? 救い難い愚か者が。
胸中でだけつぶやいたとき、視界の端で敵兵が動いた――すでに勝利を確信しているのか、次の一撃でとどめを呉れるつもりらしい。ヴィルトールは振り返り様に左腕を振り回し、敵兵の繰り出してきた一撃を手元を払いのける様にして軌道を変えた。同時にそのときのステップと上体のひねりを利用して、右手で保持した長剣を握ったままの右拳を歩兵の頬に叩き込む。
「がっ――」 短い悲鳴とともに体勢を崩した歩兵の肩を左手で掴み、ヴィルトールはそのまま敵兵の体を引き摺り回す様にして地面に投げ棄てた――ついで別の敵兵が、こちらは真正面から襲いかかってくる。
ヴィルトールは地面に倒れた敵兵にはさしあたってそれ以上かまわずに、新たな敵に対して体を横に向けた。
いちいち構え直す必要など無い。相手に体を横に向けていれば――踏み込むことさえ出来れば、攻撃は繰り出せる。
先ほどの兵士よりもこちらを警戒しているからだろう、振りの小さな一撃を繰り出してくる――先ほどの敵兵に比べてもなかなか速い。
だが――ヴィルトールは体を半身に開いたまま、繰り出された一撃を左手で押しのける様にして軌道を変えながら踏み込んだ。そのまま動きを止めずに脇をすり抜け、ついでに右手で保持した剣の折れた尖端を背中側から左腰に突き立てる。
腎臓のあたりを貫かれて、悲鳴もあげられないままイェニチェリがその場に崩れ落ちた。
「けぇっ……!」
声をあげて、敵兵が背後から襲いかかってくる――そちらに向き直るために転身しかけたとき、右手首を掴まれ足を刈られて、ヴィルトールはそのまま地面に押し倒された。大ぶりの武器では捉えられないと判断したのだろう、こちらの体に馬乗りになって武器を保持した右手首を抑え込み、懐剣を抜き放って刺殺するつもりらしい。
そうだ――敵が武器を持っていれば、武器を警戒する。
縺れ合う様にして地面に倒れ込み、体をねじって上体を仰向けにしながら、ヴィルトールはゆっくりと嗤った。
武器を持っているから
敵兵が右手を腰元の短剣に伸ばすよりも早く左手を伸ばし、敵兵の胸元を掴んで強く引きつけながら、同時に腹筋に渾身の力を込めて上体を起こして――ヴィルトールは敵兵の顔面を、自分の額で叩き潰した。
「ぎゃぁぁっ――」 感触からすると、おそらく鼻が潰れるかなにかしたのだろう。苦悶の声をあげて体をのけぞらせた敵兵の拘束から解放された右手を振るって、ヴィルトールは短くなった剣の尖端で敵兵の喉笛をかすめる様にして引き裂いた。
水平に引き裂かれた喉笛から噴き出したまだら色の血を浴びながら、その体を横に押しのける様にして振りほどく。そのときには、最初に殴り倒した敵兵が立ち上がり、体勢を立て直している。
醜く腫れた顔を怒りに歪ませ、その敵兵が地面を蹴った――凶悪な形相を浮かべて怒声をあげ、剣を右脇に隠す様にして駆けてくる。
だが――
敵兵が繰り出した刺突が、むなしく虚空を貫く――顔は見えなかったが、動揺の気配が伝わってきた。
刺突を掻い潜る様に体勢を沈めて踏み込みながら、左手で頭上にある剣を握った手首を捕る――同時に敵の鳩尾に肘を埋め込み、ヴィルトールは続く一動作で敵兵の足を刈り払った。
体をくの字に折った敵兵の頭に上体ごと振り回す様にして横殴りに右肘を撃ち込み、ヴィルトールは倒れ込んだ敵兵の頭部を踵で踏み砕いた。
「悪いな――」 聞く者のいない言葉を口にしながら適当にひらひらと手を振って、ヴィルトールは唇をゆがめて笑った。
「得物が折れようが無くなろうが、俺はたいして困らねえんだ」
そう告げたとき――巨漢の騎兵が喊声をあげながら突っ込んできた。こちらが落馬した時点であとは歩兵に任せてもいいと判断したのだろうが、三人の歩兵が全員斃されたことで考えを変えたらしい。
全速力で突っ込んでくる巨漢の騎兵に向き直り、ヴィルトールは甲冑の装甲の隙間から投擲用の短剣を右手で引き抜いた――左手でもそれなりの精度はあるが、右手のほうが確実だ。
巨漢の騎兵がこちらに到達するよりも早く、ヴィルトールは手にした短剣を投げ放った――これが正面を向きながら斜めに走れる様な器用な生き物だったならともかく、普通の馬にはそんな器用な真似は無理だ。
悲鳴をあげながら、巨漢の騎兵の騎馬が体勢を崩す――右目に突き刺さった短剣の鋒が、そのまま脳まで達したのだ。
転倒した騎馬の鞍上から投げ出され、巨漢の騎兵が地面に転がり落ちる。
突起物だらけの仰々しい甲冑は、転がって受け身を取るのには向いていない。突起が地面に引っ掛かったために転がって受け身を取ることも出来ないまま、巨漢の騎兵は地面に投げ出された。
憤激に顔をゆがめながら、重装甲冑を身に纏った騎兵はその場で立ち上がり、ずれた冑を脱いで足元に投げ棄てた。案外頑丈なことに、骨折の類は無いらしい。
「貴様、よくも私の馬を」
「あーそうだな、ごめんねえ。うちの馬にもあとで謝っとけよ」 巨漢の騎兵の怒声を鼻で笑い、ヴィルトールは適当に手招きしてみせた。
巨漢の騎兵が手にした大戦斧の柄を握り直して、燃え盛る炎の様な苛烈な眼差しでこちらを睨みつけてくる。
それを無視して、ヴィルトールは再び身構えた。
「嘗められたものだな、小僧――そんな短くなった得物で私と斬り合って勝てるつもりか」
「さあな、勝てるかどうかは知らねぇよ――勝つつもりではいるがね」
「ふむ」 巨漢の騎兵はその返答にわずかながら感心した様に眉を上げ、こちらの左腰に吊ったもうひと振りの長剣に視線を投げた。馬上戦用ではなく地上戦用の、腕の長さほどの歩兵用の長剣だ。
「本気で勝つつもりなら、それを使うことを勧めるが」
「ご忠告どうも――だが必要無い」 そう答えてから、ヴィルトールは唇をゆがめて笑った。
「さて、ついでだ。これから一騎討ちをやろうって相手だ――名前くらいは聞いとこうか」
「バイェーズィート」 巨漢の騎兵が短く答えてくる。
バイェーズィート――言いにくいその名前を胸中で反芻してから、ヴィルトールは唇をゆがめて笑った。
「無駄話は終わりだ、さっさと始めようぜ」
「よかろう。その潔さは称賛するが――若造の雑言は聞くに堪えん」
「同感だ――実力の伴わないおっさんの世迷言はもう聞き飽きたよ」 ヴィルトールはそう答えて、一瞬だけ目を細めた。
†
「無駄話は終わりだ、さっさと始めようぜ」
「よかろう。その潔さは称賛するが――若造の雑言は聞くに堪えん」
「同感だ――実力の伴わないおっさんの世迷言はもう聞き飽きたよ」
バイェーズィートの言葉にそう答えて、ワラキア人の若者――ヴィルトールと名乗っていたか――がすっと目を細める。
嘗められたものだ――胸中でつぶやいて一歩踏み出したとき、ヴィルトールが一瞬だけこちらから視線をそらした。
ほんの一瞬こちらから視線をはずして背後に視線を投げ――そしてそれにこちらの注意がそれた瞬間、ヴィルトールはすでにこちらの間合いを侵略していた。
――な!?
こちらの動揺をよそに、ヴィルトールが逆手に握った剣を振るった。
慌てて上体をそらし、一撃を躱す――折れた剣の尖った先端が首元を浅くかすめ、皮膚が避けて血がにじむのがわかる。
同時に片手で保持した巨大な戦斧の柄を握り直し、バイェーズィートは大戦斧を右から左に横薙ぎに振り抜いた。
だが手応えは無い――手応えは無い。
躱された!?
身の丈ほどの間合いのある大戦斧の鋒から逃れて、ヴィルトールがゆっくりと嗤う――そして彼は、再び地面を蹴った。
まるで獲物を狙い定めた獣の様な俊敏な動きでこちらの間合いを侵略し、右手で保持した剣で斬撃を繰り出す。
防御のために翳した大戦斧とヴィルトールの剣の刃が衝突し、立て続けに金属音が響き渡った――いったん間合いを離すために、左足で足払いを繰り出す。
だが足払いの結果は、それを躱すどころか思いきり蹴り抜かれただけだった――こちらの蹴り足をいったん後退して躱し、その蹴り足を加速する様にして踵側から蹴飛ばされたのだ。
蹴り足を止めて踏鞴を踏んだときには、すでにヴィルトールはそこにはいない――蹴り足を迎え撃つどころか蹴り飛ばされたために足の位置が大きく変わり、結果として体の向きも変わっている。
おそらくこちらの足払いを躱し様にふくらはぎか踝びあたりに蹴りを呉れて体勢を崩したあと、そのままこちらの左側に廻り込んだのだろう――彼の体が右回りに廻ったし、武器は右手に持っている。左側に廻り込むにはごく小さな距離の移動で済むし、攻撃も繰り出しにくい。
大戦斧を左手に持ち替えて左側を薙ぎ払う様に攻撃を繰り出そうとしたとき、膝の裏側に蹴りを入れられて、バイェーズィートはたまらず膝を折った――振り返ったときには、ちょうどその顔めがけてまっすぐに爪先が飛んできている。
大戦斧を左手に持ち替えていなければ、左手で受け止めることも出来たのだろうが、そうもいかなかった。重い大戦斧を保持した左手は、到底この攻撃に対応出来ない。
体を横に投げ出す様にして攻撃を躱し、何度か踏鞴を踏んでから体勢を立て直す。
こいつ――!
仰いだ顔が笑っている――嗤っている。
ヴィルトールは嗤ったまま、離れた間合いを詰め直すためだろう、再び地面を蹴った。
小さく舌打ちして、手にした大戦斧を放り棄てる――大ぶりの得物を振り回しては、この男を捉えるのは到底不可能だ。
それを目にして、ヴィルトールが笑う――彼が一瞬口元をすぼめる様な動作を見せた次の瞬間右目の視界がいきなり潰れ、バイェーズィートは小さくうめいた。
なっ……!?
含み針――鉛玉か? 口の中に含んでいたなにかを、こちらの顔に向けて吹きつけてきたのだ。
痛みもなにも感じられなかったし、右目の視界が無くなったわけでもない――まるで目に雨滴が直接入り込んだかの様に、視界が歪んでいる。
液体――唾か!
後退しながら剣の柄に手を伸ばし、バイェーズィートは小さく毒づいた。
おそらくこちらの反撃の挙動を遅らせるために、唾液かなにかを吹きかけてきたのだろう――眼に入ることを期待していたのかどうかまでは知らないが。
「
やや狙いの甘いその一撃を上体を傾けて躱しながら、胴を狙って抜きつけを繰り出す――そのときには、ヴィルトールは拳を撃ち抜く勢いのまま右回りに転身している。
――右側にっ……!
視界の端に残った獅子の尾を思わせる金色の髪が、ふわりと舞ってまたふわりと落ちる――次の瞬間、ごつ、という鈍い音とともにこめかみになにかが衝突し、視界に火花が散った。
おそらく転身した動作のまま、剣の柄頭をこめかみに叩きつけてきたのだ――衝撃で視界が揺れたが、バイェーズィートはかまわずに剣を振り抜いた。
が、次の瞬間にはその一撃は手元を押さえて止められている――剣を手放した右手で、こちらの手元を押さえにきたらしい。投げ棄てられた剣が地面から顔を出した岩に衝突して、ぎゃりんという音とともに火花を散らす。
おそらく転身動作から直接攻撃動作につなげてきたのだろう――柄頭で殴りつけられたこめかみに、再び衝撃が走る。
なにをされたのかはわからない――おそらく左手での攻撃なのだろうが、右目が唾液が入り込んだままのせいでろくに視界が利かないこともあり、視界外からの攻撃なので見えなかった。
続いて、今度はこちらの手元を押さえて斬撃を止めていた右手が跳ねた――繰り出されてきた拳がこめかみをかすめ、皮膚が浅く裂けて血が噴き出す。
なんという男だ――自分の読みがなお甘かったことを痛感しつつ、バイェーズィートは小さくうめいた。
この若者は剣術に秀でた戦士だと思っていたが、どうやらそうではないらしい――彼の得手は本来、剣術ですらないのだ。本来彼が得手とする戦闘技術は、素手での格闘、あるいは剣術との複合なのだろう。
合戦は馬上戦が主体だったために、本来の技量を用いる機会はろくに無かったというだけの話で――剣が短くなっても、地上戦に持ち込めば彼にとってはさして不都合など無いのだ。
冑を脱いだのは失敗だった――冑をかぶったままでいれば、ヴィルトールも戦い方を変えざるを得なかったし、こうまで一方的にやられることも無かったはずだ。
脳震盪を起こしかけているのか、視界がぐらぐらと揺れている――ほかに狙うところが無いからだろうが、ヴィルトールの攻撃を頭部に集中して受けたせいだ。
堪らず膝を突いたとき、かたわらのヴィルトールの左足が跳ねた――それがわかったのは動きが見えたのではなく、影のおかげだったが。
下がった頭に横殴りの蹴りを叩き込むつもりなのだろう――上体を沈めてその蹴りを躱しながら、バイェーズィートは地面のすぐ上を滑らせる様な軌道で手にした長剣を振り抜いた。
蹴りの軸足を刈るつもりの一撃だったが――手応えが無い。
蹴りを躱された時点で、こちらの攻撃を読んでいたのだろう。刃を跨ぎ越える様にして攻撃を躱し、ヴィルトールがこちらの正面で体勢を立て直す。
ヴィルトールの左足が跳ね、引き戻しかけていた右手に保持していた長剣を爪先が弾き飛ばした――弾き飛ばされた長剣がくるくると回転しながら宙を舞い、少し離れた地面に突き刺さる。
蹴り足を引き戻し――ヴィルトールがこちらを見下ろして、ゆっくりと嗤った。
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