【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_09_

2015-08-26 17:03:47 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

キプチャク・ハン国/バトゥの出現、その一

 1224年の頃、父・ジュチの死により バトウがジュチ家の当主となった。17歳の若き君主。ジョチが父に先立って死去した後、次男のバトゥがジョチ家の家長となり、ジョチがチンギスに命じられていた、南シベリアから黒海北岸に至る諸地方の征服の任を受け継いだ。 異母兄オルダは病弱がちだったため、次男で母の家柄もよかったバトゥが祖父の大カーンが望むキプチャックの大草原を制圧するモンゴル帝国の西端部を任されたのである。 

 オルダの母もバトゥの母も同じコンギラト部族の出自であったが、バトゥの家督継承には彼の母オキ・フジンがコンギラト部族の宗主アルチ・ノヤンの娘であったことも大きく関係していた。チンギス・ハーンの正妃筆頭ボルテ(ジュチの母)はアルチ・ノヤンの妹であるため、ジュチにとって従姉妹にあたる。

 ジュチの息子たちは総勢40人以上いたと言われています。 記載の系図を参照すれば 14世紀初頭までに子孫を残した有力な嗣子たちは、バトゥの他に長子で異母兄のオルダ バトゥの死後にジュチ家の家督を継いだ3男・ベルケ シャイバーニー・ハーン家などの遠祖となった5男シバン、アストラハン・ハン国とウルグ・ムハンマヅ・ハーンのカザフ・ハン国、クリミヤのハージー・ギレイ家などの祖となった13男トカ・テルム など14人が知られている。 従って、現代の中央アジアの諸国は チンギス・ハーンの末裔がモザイク模様で形成していると言える。 13男トカ・テルム家は18世紀末のロシア革命まで続き、現代においても 皇族・貴族として その権勢は衰えていないと言う。 

 さて、バトゥは長子ジュチの後継者とされていたため、祖父チンギス・ハーンの命によって 孫の世代を総覧する任を言い渡されていた。 大ハーンがジュチに示した愛情と信任の証であろう。 古来より、モンゴル族は末子が父の財産(実母以外の婦人をも含め)を継承する習慣が存続している風土である。 長男・次男は父の支援を受けて、新天地を自ら開拓し、統治していかねばならぬ宿命を背負う。 家督を継いだバトゥか、託くされたキプチャック草原におのが領土を築き上げ、更に 西方へ拡張してゆくべきチンギス・ハーンの命が、バトゥをヨーロッパ遠征軍の総指揮官として 大西洋の岸まで蒙古軍団を率いて行くリーダーシップを発揮させる。 大祖父の期待、若くして病に倒れた父がやろうとした壮大な夢を・・・・・・・。

ジュチの事業と挫折

 上記のように、ジョチはチンギス・カンの第一夫人ボルテを母とする嫡出の長男で、同母弟にチャガタイオゴデイトルイの3人がいる。ただし、当時のモンゴルには、近隣国のように嫡長子を後継者とする制度は存在しなかったので、ジョチは長男であることによって他の兄弟と比べて特に優遇されていたりはしない。ただし、末弟で最有力後継者候補であったトルイとともにケレイト部の王オン・カンの姪でジャア・ガンボの娘ベクトゥトミシュ・フジンを娶り、これは実現しなかったが、オン・カンの娘チャウル・ベキを娶る予定があったことなど、長男として有力な立場にあった可能性は指摘できる。

 若い頃から父に従ってモンゴル高原の統一に至る戦いに参加し、特に西方の強国ナイマンとの戦いで活躍した。1206年にチンギス・カンが高原を統一すると、高原の西に位置するアルタイ山脈の北部からイルティシュ川の上流域に4個の千人隊を所領(ウルス)として与えられ、帝国の最も北西に位置することからオイラトキルギスなど高原北西の森林地帯に住む諸部族の平定を任せられた。オイラトが帰順した際には、その一首長に娘を娶わせている。

 1211年より、チンギスが“金”への遠征を開始したときは、同じく帝国の西部にウルスを持つ二人の弟チャガタイオゴデイとともに、全体の右翼軍(西部軍)を率いる将領として参加、山西地方の席捲して諸城を陥落させる武功をたて、1219年から始まるチンギス・カンの西方遠征でも右翼の指揮官として中央アジア北部を進み、戦役の発端となった町オトラルを攻略した後、スィル川沿いに下ってスィグナク、ジャンド、ヤンギカントを征服した。 スィグナクでは、ジョチが攻撃に先立って降伏を要求するために送った使者を住民が惨殺したため、モンゴル軍は攻略後に町を徹底的に破壊、住民を皆殺しにしたという。

 その後、中央アジアの中枢マー・ワラー・アンナフルからアム川沿いに下ってホラズム・シャー朝の本拠地ホラズムの主邑ウルゲンチを攻撃したが、彼はともに攻撃を担当したすぐ下の弟チャガタイと不和だったために攻略に手間取ることがあった。このため兄弟は父チンギスの不興を買ったが、二人の兄いずれとも仲の良い弟のオゴデイが兄の間にたって指揮をとり、事なきを得る事件を起こしている。

 チンギス・カンはこの頃、4人の嫡子のうちから後継者を選んでいる。 末子のトルイはチンギス発楊の故地一帯を継承するであろうが、拡大した蒙古帝国の継承者は別の問題である。 温和な3男のオゴデイが帝国の後継者に相応しいと考えるも、 このとき、チンギス・カンは実際に諸子を集めて自分の後継者に誰がふさわしいか意見させたが、その場でジョチとチャガタイが口論になり、二人がお互いをカンにふさわしくないと言い合ったので、次の弟で人望のあるオゴデイが立てられたという。

 ジュチには新しい地平を切り開く戦略が豊であった。 ジョチの攻城は、従来のモンゴルが一般に行っていた城内乱入に次ぐ略奪と破壊を嫌ったためか、相手が降伏するのを待つという戦法を取ることが多く、進軍速度を緩めてしまったという評価が強いが切り開いた領土を統治していく計略を常に持っていた。 そのため、従来どおりの戦法を取るチャガタイとは、もともとの不和とあいまって、ウルゲンチのような事態を引き起こしたと見られるのだが、実際にウルゲンチにおいても彼は、降伏交渉を行っている。

 中央アジア遠征の後、ジョチは西方に広がったモンゴル帝国領のうち、北部の良質な草原を遊牧地として与えられ、ジョチのウルスは本領のイルティシュ川上流域からバルハシ湖の北からアラル海の方面に至る草原地帯(カザフ草原、現在のカザフスタン)に広がった。 さらに、ジョチはチンギス・カンによってアラル海の北からカスピ海の北に広がる草原地帯(キプチャック草原)の諸族の征服を委ねられ、チンギスがモンゴル高原に帰還した後もカザフ草原に残って北西方への拡大を担当することになった。

 この間にジョチは病を発し、軍を進めることができなくなった。しかし、この間の事情がモンゴル高原にはジョチが狩猟に興じて軍事をおろそかにしているとの噂になって伝わった。 激怒したチンギスはジョチに対して召還命令を下したが、ジョチは病のために帰還することができず、1225年頃に父に先立って病没してしまった。 一方、チンギスはジョチが召還の命令に従わないのでいよいよ討伐の軍を送ろうとまでしていたが、そこに病没の報が伝わり、大いに悲しみ落胆したと伝えられている。

 =尚、ジュチ出生の秘話は、前節を参照ください=

 

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森のなかえ

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