【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

シリーズ・登山家の横顔_001ー⑤

2013-10-11 16:23:29 | 冒険記譜・挑戦者達

=アナトリ・ブクレーエフ(ロシア)=

= Everest 1996年 = 

エベレスト山頂でのブリザード遭難事件の批判に対し、ブクレーエフは沈黙した。 ただ、ブクレーエフの擁護・支持者達は、高所キャンプのテントに彼が戻り着いたのはブリザードがおさまった深夜 の12 時前後であった。 また テントの中は 帰着したメンバーや翌日の頂上攻撃に待機するクライアント達があまりにも消耗し尽くしていた状況にあった。 ブクレーエフが救援活動の為に 上部に残る登山者救援に再び上部への登行、その場を離れか否かの選択など考えられない過酷な状況にあったと証言している。 

また、ブクレーエフの悪口を言い触らす者達が表現する「ブクレーエフはクライアントと共に安全圏内に留まり、クライアントと共に安全に下山することのみに全力を尽くす偽善者」に対し、ブクレーエフの全ての同行者・クライアント達は ブクレーエフが帰幕した時、「ピット/ Pittman、フォックス/ Fox、マドセン/ Madsenの三名は低酸素症で重体であった。彼等はブクレーエフ用酸素ボンベで回復し無事下山できた。ブクレーエフは彼等の様子を確認した後、自分のボンベの全てをクライアントに与えて無酸素にて上部の救援活動に単独で向かった」と言う。 

事実、“熱狂的山岳遠征隊”が入山中に遭難死したアメリカ人は登山ガイドのロブ・ホール/ Rob Hall がエスコートする登山者一名であり、下山中の事故であった。 無論、事故発生の時 ブクレーエフは上部で救援活動をしていたのです。

8000m近くの希薄な空気の中でのアナトリ・ブクレーエフの行動をシモーネモロ/Simone Moroは、1996年のエエレスト遭難事件に関して次のように述べている。 

"あなた方は、アナトリ/Anatoli がどんな人間なのか?本当に理解できないだろう。 彼等はアメリカ人、彼はロシア語だけを話すロシア人だった。 彼等は8000m峰を攻撃するには登山家とは言え新来者、彼はこのエベレスト・ノーマルルートレベルでは最高の引率者であらゆる面でこの時点での最高だった。 あなた方のような通常の登山家ではなく、彼は偉大なアソリートであり かつ、過酷な環境で生き抜く野生のアミマルなのだ。 

保障していい、彼は《満たされぬ空腹に喘ぐ者》と知られている。 しかし、思うのですが・・・・、医学書を読み漁った医者が世界で最も熟練した外科医の 一人の医者になり 危険極まりない困難な外科手術を執刀すれば、だれがその経緯・方法・人間性について議論できますか。 

1996 年のアナトリ/Anatoliの決断・行動、また その後の論争はこれと同じです。 ただ、彼の遠征のクライアントは一人たりとも死亡ない事実です。“ 

“熱狂的山岳遠征隊”がアメリカに戻る前に、ブクレーエフは8,516 m(27,940 ft.)ローツェに登った。 ローツェはエベレストへの近さにあり、彼はエベレスト登頂過程で単独での試登を目論んでいた。 エベレスト・ノーマルルートは彼の“満たされぬ冒険心”を揺さぶり続けていた。 彼は無酸素・単独で山頂を足下に収めた。 1996年5月17日 速攻時間をも樹立した。 

※;シモーネモロ、 1967年10月27日生まれたイタリアのアルピニスト。 2005年シャシャパンマ、2009年マカル、2011年ギャッシャブルムⅢ峰及びⅡ峰の初登 等の8000m巨峰登頂。 他・・・・・

1996 - Shisha Pangma、1997 – Lhotse、2002 - Cho Oyu、2003 - Broad Peak、2005 - Shisha Pangma, 【first winter ascent】、2009 - Makalu,【first winter ascent】、2000, 2002, 2006, 2010- Mount Everest、2011 - Gasherbrum II&Ⅲ,【first winter ascent】 

 = Death on Annapurna 1997 = 

1997年、ブクレーエフは【ダビドA ソゥレス記念賞】をアメリカ・アルペン・クラブから受賞した。 アメリカ山岳界の代表ジム・ウィックワイヤーが手渡し祝辞を述べている。 彼はK2アメリカ遠征隊の総隊長を務め登頂も果たした登山家である。 

無論、ブクレーエフが実践した1996年エベレスト災害での登山者を救った勇気に感謝するための表彰である。 この賞は、アメリカの高山クラブの最優秀賞彼の役割の認識 1996年エベレスト災害の登山者を救う勇気のため。  

しかし、同年の1997 年 冬のアンナプルナ(ネパール)に登頂中、雪崩に押し流され ブクレーエフは死亡する。 

※;ダビドA ソゥレス記念賞(The David A. Sowles Memorial Award)は 米国山岳会が推奨する名誉賞。“山岳活動で著名な且、個人的なリスクで遭難等の死の危険に遭遇する仲間・登山者の援助のつもりで、その主要な目的の犠牲で利他的な献身をする行為に対し” また “自己の死亡をも省みない勇気ある行為に対し”授与される。 それは 1963 年に欧州アルプスで死亡した登山家デビッド A. ソゥレス氏にちなんで米国山岳会が選考している。

=資料;エベレスト大量遭難 1996 Mount Everest disaster=1996年5月起きたエベレスト登山史上最悪の遭難事故で8名の登山家が死亡した。 

背景; エベレスト登山は、1893年ごろから計画が立てられるようになり、1953年には世界で始めて登頂が行われた。このころは一部の冒険家や国家的プロジェクトによる冒険であったが、バリエーションルートなどの困難な攻略が一巡すると経験を積んだ登山家の攻略対象ではなくなり商業化が進むことになった。 

特に1985年に富豪ディック・バスがガイドによる全面サポートを受けた登頂に成功し、その過程を記した「セブン・サミット」を出版すると富豪や高所得者による七大陸最高峰の人気が沸騰。1990年代半ばには公募隊による登山が主流となり、アマチュア登山家であっても必要なコストを負担すれば容易にエベレスト登山に参加できるようになった。 

あらかじめシェルパやガイドによるルート工作や荷揚げが行われるため、本来なら必要であった登攀技術や経験を持たないまま入山する登山者が現れるとともに、ルートが狭い場所においては登山家が渋滞し、長時間待つようなことも増えた。

 

遭難に至る経緯; 

1996年、ニュージーランドアドベンチャー・コンサルタンツ社は、1人65000ドルでエベレスト営業公募隊を募集した。探検家のロブ・ホールが引率して、世界中のアマチュア登山家と共に5月10日に登頂を果たすというツアーで、いわゆる商業登山隊(ガイド3名・顧客9名)であった。他にもスコット・フィッシャーが引率する公募隊も行動を共にすることになった。日本人実業家の難波康子も参加した。参加者の中には、本来登山には必要の無い大量の資材を持ち込んだり、不適切な性交渉を行う参加者がおり、ガイドやシェルパの負担は小さくなかった。

スコット・フィッシャーの隊には、サブガイドとしてロシア人のアナトリ・ブクレーエフが初参加した。ブクレーエフはガイドとして十分な仕事をせず、隊長のスコット・フィッシャー自ら体調不良者をベースキャンプに送り返す等の労働に従事することになり、登頂前に既にスコット・フィッシャーは疲労困憊となっていた。また、顧客の一人が数度にわたり無酸素登頂を要請したが、これを撥ねつけたため険悪な空気が醸成されていた。

 技術、体力共に稚拙なメンバーの牽引に人手を割かれたことで予定をしていた山頂までのルート工作が完成しておらず、山頂に向かった人間は予定外の待機や作業によって酸素、体力とも大幅に消耗していた。 また、渋滞を避ける為に登頂日を分ける事前の取り決めに非協力的な態度を取った隊や、一旦合意しておきながら翻意する隊もおり混乱が始まっていた。

難波の登山技術と英会話能力には幾分か問題があったようだが、5月10日に田部井淳子と同じサウス・コルルートからアタックし登頂に成功した。これによって難波は日本人女性で2人目のエベレスト登頂者、及び七大陸最高峰の登頂者となった。

しかし登頂を果たした時間は、引き返す約束の14時を1時間過ぎた15時であった(ロブ・ホールと共に16時30分に登頂したメンバーもいた)。頂上近くはルートが限られ、他の台湾の公募隊なども加わり、絶壁を越えるような難所では渋滞が発生し時間を浪費した。隊長のロブ・ホールは自己責任を強調し、14時というリミットには寛容であった。一方、スコット・フィッシャーは頂上が前に見えていても14時になったら引き返すように参加者に強く指導していた。 

 デスゾーンとは、人間が生存できないほど酸素濃度が低い高所の領域を指す登山用語。 標高が8,000mでは、空気中の酸素濃度は地上の約3分の1となる。 この領域をヒマラヤ山脈8000メートル峰に挑戦する登山家がデスゾーンと呼んでいる

デスゾーンでは人体は高所順応せず、酸素が補充されるよりも早く酸素の蓄えを消費する。 酸素ボンベなしでデスゾーンに長時間滞在すると身体機能の悪化や意識の低下が起こり、最終的には死に至る。 「デスゾーン」という言葉は、1952年にスイス人医師エドゥアール・ヴィース・デュナンによって、彼が書いた本の中で初めて用いられた

 《下線部のクリップにて追記説明》・・・・・続く・・・・・・

We are the WORLD

https://www.youtube.com/tv?vq=medium#/watch?v=OoDY8ce_3zk&mode=transport

【 Sting Eenglishman in New_ York 】

http://www.youtube.com/watch?v=d27gTrPPAyk

【 DEATH VALLEY DREAMLAPSE 2 】

http://vimeo.com/65008584

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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