== ナショナルジオグラフィック日本版より転載、イラスト構成は筆者 ==
== キングウイリアム島 ―地図のない世界― 後節==
しかし1846年にキングウイリアム島の北の海峡にやって来たフランクリン隊は、島を東に回る正解ルートを取らず、リスクの高い西の海に船を進ませた。 案の定、2隻の軍艦は氷に囲まれ、ついに1848年4月、船に乗っていた105人の隊員は――隊長のジョン・フランクリンも含めて、残りの24人はすでに死んでいた――船を放棄し、キングウイリアム島に上陸した。 そして重いソリを引いて南を目指す途中で、最後のひとりに至るまでバタバタと死んでいったのである。
彼らが島の東に船を進ませなかったのは、おそらくキングウイリアム島がブーシア半島と陸続きになっているという、J・C・ロス以来の誤った地理認識が頭にあったからだろう。 フランクリン隊の船には1200冊もの蔵書が収められた立派な図書室があり、過去の探検記はすべて進行ルートを決めるための材料となっていた。
だがジョン・ロスとJ・C・ロスの共著である『第2次北西航路探検記』にも、バックの『北極圏大陸遠征記』にも、シンプソンの『アメリカ大陸北岸発見記』にも、キングウイリアム島が島だとは書かれていなかった。 島の東がブーシア半島とつながっているのなら、船を進ませても陸地にぶつかってしまう。だから彼らには西に進む選択肢しか残されていなかった。
フランクリンの手元には信じるべき正しい地図がなかった。 その結果、彼らの二隻の巨大な軍艦は氷につかまり、男たちは悲劇的な最期を迎えた。
キングウイリアム島の平らな大地を歩きながら、私はフランクリン隊の生き残りが重いソリを引きながら南を目指した、その風景に思いをはせた。 私がこの島に上陸したのは2011年4月30日、フランクリン隊の105人が船を捨てて上陸したのは1847年4月25日。 164年の歳月を経て、私たちはフランクリン隊の男たちと同じ季節に同じ場所に立ち、同じように南を目指した。
長い歳月が経過してはいるものの、そこで見た景色は、フランクリン隊の男たちが見た景色と、ほとんど何も変わらなかったはずだ。 氷った海には乱氷が積みあがり、島は平らで、固い雪に覆われていた。 振り向くと後ろにはソリのランナーがつけたまっすぐな跡が地平線の彼方にまで続いていた。 風は強かったが、春になり、気温が上がってきたため、今までみたいに氷点下30度まで下がることはなくなっていた。 ジャコウウシが現れ、毛の白いオオカミが私のソリを引っ張って、もっていこうとした。
フランクリンの男たちも同じ白い大地を前に進み、同じような風の中を、同じ動物たちに囲まれながら歩いたのだろう。
重いソリを引きながら、私はそう思おうとした。だが、同じ景色の中にいるのに、私はどうしてもフランクリンの男たちが歩いた風景と自分とを同化させることができなかった。 自分と彼らの間に存在する、決して縮めることのできない隔たりから、目をそらすことができなかったのだ。
164年という歳月が意味するものは、私たちが雪と氷の世界に持ち込んでいた装備の中に、ひとまず現れていた。 ゴアテックスでできた快適な防水ジャケットや、石油化学の発達がもたらした軽くて頑丈なソリ、ブリザードに見舞われても気にならない三重構造のテント、衛星電話、GPS、肉や脂を固めて水分を抜き取ったおいしくてハイカロリーな食料。 そういった時代の経過と社会の進展がもたらした恩恵が極地探検の世界を変え、私たちの旅はフランクリンの時代のそれと比べて、いく分、安全で快適になった。
だが実際に旅をしてみると、この164年の間に旅の有り様を変えた、そのもっとも大きな原因を作ったのが、実はそうした便利で現代的な装備ではなく、たった一枚の地図であることに、現代の極地探検家は否が応でも気づかされる。
衛星携帯電話やGPSがどんなに便利だといっても、それは所詮、今、この瞬間に役に立つ道具にすぎない。 しかし地図は違う。この神保町の書店で購入したわずか2000円あまりにすぎない一枚の紙は、私たちを明日の世界へとつなげているのだ。
地図があることで私たちはこれからの行動を予想し、明日、自分たちがどこに向かうかを決定できる。 そして明日があることを、あと2週間耐えればスーパーマーケットでサラミやお菓子を買い込めることを、かなり正確に想像することができ、それにより安心を感じることができる。
地図には空間的な次元における情報だけでなく、時間線上に広がる価値もまた含まれている。確かな未来が、少なくてもそう想像できるものが、地図の中には存在しているのだ。
フランクリンの男たちが向かっていたキングウイリアム島は、正確な地図がない世界だった。 それはイコール明日が約束されていない場所だった。 彼らはどこに行けば生き残って故郷に戻ることができるのか、自分たちでもよく分からないまま、手さぐりで凍てつく荒野を前進した。 目の前には文字通り未知ゆえの暗黒の世界が広がっており、そこに足を踏み入れる行為は、言葉のもっとも正しい意味で勇敢だった。 もしその先で前進が不可能となった場合、旅は行き詰り、それは取りも直さず生命がかなり深刻な事態に陥ることを意味していた。
北西航路の時代の探検家が、私たちよりもはるかに素晴らしい旅、レベルの高い冒険をしていたと断言できるのは、彼らが地図のない、明日の分からない世界を旅していたからだ。 地図と明日のある現代の私たちは、それがどのような行為であったのか、想像することすらできなくなってしまった。
地図に代表されるサイエンスとテクノロジーの進歩がもたらした様々な結果は、旅をスマートなものにしたが、同時に人間の想像力と能力の範囲を縮小させ、全体的に旅を貧困なものに変えた。旅人は、冒険家は、そして人間は、この164年間でずいぶんとその可能性を小さくさせたのだ。
明日がわかっている人間の行為と明日がわかっていない人間の行為との間の断絶は、途方もなく深い。 だから私は彼らを尊敬する。そしていつか地図のない世界を旅するのが、私の夢でもある。
資料;北西航路の歴史の概要 -2-
※ 北欧のヴァイキングたちは西への航海の末にグリーンランドへ入植し、さらに北および西への航海を進めた結果、エルズミーア島・スクレリング島・ルイン島にまで到達した。彼らは「スクレリング」と呼ぶ先住民たち(イヌイットなど)との交易や海獣の狩猟を行う一方、スクレリングたちとしばしば対立したことが記録(サガ)に残っている。 しかし小氷期(14世紀-19世紀)の到来を一因としてバイキングはグリーンランドを放棄し、この先へのヨーロッパ人による航海は15世紀末まで途絶える。
※ ヴァイキングのサガが記録された時代からおよそ2世紀の間(1000年頃から1200年頃まで、ヴァイキングがより大型の船を使った時期も含むとさらに幅広い期間)は中世の温暖期と呼ばれ、14世紀以降の小氷期より確実に暖かく、北極の一部地域は20世紀前半よりも暖かかった可能性がある。 また中世の温暖期は現在と海水準が異なった。北極地域の氷床が薄くなったため、その下の陸地が、重みがとれた反動で20mは高くなったとみられる。
※ 記録に残っている中で、北西航路を発見しようという最初の試みはジョン・カボットによる1497年の航海である。イングランド王ヘンリー7世はカボットをオリエントへの直通航路を探すために派遣した。 1576年、イギリスが派遣したマーティン・フロビッシャーは北西航路を求めてアメリカ北部へ3回航海し、カナダ北極諸島に達したが先には進めなかった。 バフィン島南部のフロビッシャー湾は、この地に到達したフロビッシャーの名に由来する。北西航路の発見の可能性についての論文の著者でフロビッシャーの後援者でもあったハンフリー・ギルバートは1583年、北大西洋を横断してニューファンドランド島をイギリス領と宣言した。 1585年8月8日、イギリス人探検家のジョン・デービスはバフィン島の東部のカンバーランド湾に入り、バフィン島とグリーンランドの間のデービス海峡の通過に成功した。
※ 北アメリカ東海岸には大きな河口や湾が多く、これらが奥で北アメリカ大陸を横断する海峡につながっているのではないかという期待もあった。 ジャック・カルティエのセントローレンス川探検も、当初は大陸を横断する水路の発見を期待してのものだった。カルティエはセントローレンス川を北西航路だと信じようとし、モントリオール付近で急流に行く手を阻まれたときにはこれが中国への道を阻むものだと考えて「中国の急流」と名づけた。 これが現在のラピッド・ドゥ・ラシーヌ(Rapides de Lachine)と呼ばれる急流地帯である。
※ ヘンリー・ハドソンはイギリス東インド会社やオランダ東インド会社などに雇われ、北西航路や北東航路を求めて何度も北極海や北アメリカ沿岸の探検に挑んだ。 ハドソン川も1609年に東海岸探検の過程で発見されたが、これも太平洋に続く水路ではなかった。 1610年には再び北極海に挑み、「怒り狂う逆波」(Furious Overfall)と呼ばれた流れの激しいハドソン海峡を越えてついにハドソン湾に達したが、氷に阻まれこの先に進むことはできず、ハドソン自身は船員の反乱にあい船を降ろされ行方不明となった。
※ 北西航路を発見する試みの多くは、ヨーロッパや北米東海岸を起点として西へ進もうというものだったが、西側からの北西航路探検も進められた。 1539年、メキシコを征服したスペイン人探検家エルナン・コルテスはフランシスコ・デ・ウヨア(スペイン語版)(Francisco de Ulloa)を西海岸へ派遣し、北アメリカ沿岸の探検を命じた。ウヨアはアカプルコを出港して太平洋岸沿いに北上しカリフォルニア湾内を進んだが、湾の北端に達してしまいその先への出口を発見できず、バハ・カリフォルニア半島を回って帰ってきた。 湾の北端を発見したというウヨアの報告は、バハ・カリフォルニア半島が「カリフォルニア島」という島であるという通説を覆すには至らず、かえって「カリフォルニア島」を描いた地図作りに利用されたほか、カリフォルニア湾こそ北アメリカを貫き東海岸のセントローレンス湾へと続く想像上の海峡(中国とアメリカの間にある「アニアン海峡」)の南端部分だ、という通説を補強してしまった。 ウヨアは、以後数世紀続くアニアン海峡探索の先駆者となった。
※ アニアン海峡(Strait of Anián)という架空の海峡の名は、マルコ・ポーロの東方見聞録の1559年に出版された版に登場する中国の地名アニア(Ania)に由来すると見られる。 アニアン海峡はイタリアの地図製作者ジャコモ・ガスタルディ(Giacomo Gastaldi)が1562年頃発行した地図に初めて登場し、5年後のボロニーニ・ザルティエリ(Bolognini Zaltieri)の発行した地図にはアジアとアメリカの間に狭く曲がりくねったアニアン海峡が登場する。 ヨーロッパ人の想像の中でアニアン海峡は次第に大きくなり、キタイ(中国の北)の大ハーンの宮殿とヨーロッパを直結する航路となった。 アニアン海峡の南端は、緯度から見るとおおよそ現在のサンディエゴ付近に置かれていた。 先述のジャック・カルティエおよびハンフリー・ギルバートら北アメリカ北東部海岸を探検した航海者らもアニアン海峡を通じたアジア交易を求めてアメリカを探検したとされる。
※ フランシス・ドレークも1579年に北アメリカの太平洋岸を航海しアニアン海峡の西出口を探した。 1592年にはギリシャ人航海士ファン・デ・フカ(Juan de Fuca)がアニアン海峡の入口を見つけ、北の海へ往復して帰ってきたと主張した。また1640年にはスペイン人バーソロミュー・デ・フォンテ(Bartholomew de Fonte)もハドソン湾から太平洋へアニアン海峡を通って航海したと主張した。
※ 一方ロシアでは、1648年にセミョン・デジニョフが東シベリアのコリマ川河口から北極海を経てチュクチ半島東側へ向かう航海を行い、アラスカとユーラシアが海で隔てられている事を発見したが、この記録は19世紀後半まで忘れられたままになった。 1728年、ロシア帝国海軍の士官であったデンマーク人ヴィトゥス・ベーリングはデジニョフが使った海峡を発見してアラスカとユーラシアの間が陸続きでないことを再確認し、この海峡はベーリングの名を採ってベーリング海峡と呼ばれるようになった。 ベーリングは1741年にはアレクセイ・チリコフとともにカムチャツカ半島を発ちアラスカ探検に再び向かったが、ベーリングとチリコフの船は途中ではぐれてしまった。 チリコフは南方のアレキサンダー諸島にまで流され、アリューシャン列島のいくつかの島に到達した。 一方ベーリングはアラスカ本土からアリューシャン列島を測量したが途中で壊血病のため多くの死者を出し、西へ戻ろうとした探検隊はコマンドル諸島へ流されベーリングも死に、カムチャツカに戻った隊員はわずかであった。
===== 続く
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【 DEATH VALLEY DREAMLAPSE 2 】
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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