【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

探検家群像=角幡唯介= 05

2014-12-29 13:45:18 | 冒険記譜・挑戦者達

== ナショナルジオグラフィック日本版より転載、イラスト構成は筆者 ==


== キングウイリアム島 ―地図のない世界―  前節 ==

 東からも西からも最も遠い、北西航路の一番奥にキングウイリアム島という島がある。 

 南北が約170キロ、東西が約150キロもある三角形の大きな島で、日本の紀伊半島と同じぐらいのスケールがある。 しかし島の大部分は不毛なツンドラと複雑なかたちをした湖や小川、クリーム色をしたもろい石灰岩などに覆われており、中央部のもっとも盛り上がった部分でも、その高さはわずか海抜140メートルほどにすぎない。 地形は全体的に恐ろしく平坦なため、まだ雪に覆われ、海に氷が張っている時期にこの島を遠くから眺めると、どこから先が島なのかよく分からない。 

 海岸から中央に向かって徐々にせり上がっていくが、その角度は極めて微妙で、かつ色調が一様に真っ白なため、目の前の傾斜は錯覚で、実は足元は平らなのではないかと勘違いすることもある。 霧が出て視界が悪ければ完全にお手上げで、自分が島にいるのか海にいるのか、それすら判然としない。 

 レゾリュートベイを出発してから46日目、私と北極冒険家の荻田泰永がまもなくこの島に到着することを知ったのは、幸運にも島の北端のフェリックス岬に立つ高さ10メートルほどの船舶表示塔に気がついたからだった。

 空は曇っていて視界が悪く、東から冷たい風が吹いていた。潮の影響で乗り上げた海氷が、島の海岸線に黒く影を作っている。その乱氷の向こうに、ピンクの細い棒のような人工物が立っていることに気がついた。先頭を歩いていた荻田は、それがフェリックス岬に立つ何かの目印だと確信したらしく、少なくてもまだ重さ40キロはある大きなソリを引いているにもかかわらず、大学ラグビー部員のような力強さで私を引き離しにかかった。  

 私には彼の気持ちがよく分かった。なにせレゾリュートベイを出発して最初の目的地であるジョアヘブンの村は、このどこまでも平らなキングウイリアム島の南にあるのだ。毎日5000キロカロリー以上の食事をとっていたにもかかわらず、過酷な運動と氷点下30度前後の低温環境下にすでに45日間ほど滞在していたため、私たちの体は衰弱し、やせ細り、夕食を食べ終わった瞬間に腹が減ったと叫ぶ始末であった。  

 キングウイリアム島に上陸するということは、私たちにとっては目的地に到着するというよりも、地元資本の大きなスーパーマーケットで買い物ができるということを意味していた。そこに行けば、サラミや甘いクッキーやパン、バターなどがふんだんに手に入り、長かった飢餓状態から脱出できるのである。フルーツやジャムまであるのだ。  

 そこに到着するまで、おそらくあと2週間ほどだろう。その期間を何とかしのげばいいことを、私たちは知っていた。  

 もちろん私たちには、アメリカの人工衛星をもとに作られた正確な地図と、ボタンを数回押したら地球上のどの座標軸にいるのかを数メートル以内の誤差で知らせてくれるGPSがあったので、自分たちの目の前の地平線に棚引き始めた黒い影が、キングウイリアム島であることは、船舶表示塔を見つける前から分かっていた。当たり前の話だが、出発前する前からキングウイリアム島がカナダのどこにあり、レゾリュートベイから何度の方向に向かって何キロ歩けば現れるか、ということも分かっていた。  

 だが、今から164年前にキングウイリアム島に上陸し、全員が死亡したジョン・フランクリンを隊長とする探検隊のメンバーにとって、それは当たり前のことではなかった。彼らは自分たちがたどり着いたこの平坦な島の地理について、詳しいことをほとんど何も知らなかった。キングウイリアム島が島であることすら知らなかったのだ。 

  イヌイットをのぞいて、キングウイリアム島に初めてやって来た人間として記録に残るのは、19世紀のヴィクトリア朝イギリスを代表する極地探検家ジェームズ・クラーク(J・C)・ロスだった。彼は1829年から1833年における北西航路探検で、命からがら生還して英雄となった、あのジョン・ロスの隊に参加していた。ジョン・ロスの甥である彼は、すでに何度も北極遠征の経験があり、この時点で隊長である叔父を極地探検の実績で上回っていた。そしてこの時も史上初めて北磁極を発見するなど目覚ましい活躍をし、キングウイリアム島にも到達したのだ。

 ジョン・ロスとJ・C・ロスの探検隊は、世界で初めて北極探検に実地投入された蒸気船ビクトリー号でブーシア半島の東側の海を南下した。半島の南東端の付け根まで南下し、そこの入り江をフェリックス湾と名付けて越冬を始めた。役に立たない蒸気エンジンをスクラップにした後、1830年5月にJ・C・ロスはアジアへとつながる北西航路を探すため、イヌイットをガイドとして連れ、ブーシア半島を西に向かって横断することにした。 

 船を離れた彼は、まず半島を横断した後、のちに自分の名前が付けられることになる海峡を渡り、キングウイリアム島に到達した。島の北端にある岬を、探検の後援者の名前をとってフェリックス岬と名付け、さらに南西に約30キロ進んだ最終到達地点を、自分たちの船からビクトリーポイントと命名した。 

 このソリ旅行によりJ・C・ロスは地図に描かれた世界の範囲をそれまでより300キロほど西に広げ、北極探検史の本に必ず紹介されることになる目覚ましい結果を残した。彼はこの探検で北西航路の謎――カナダ北部の多島海のどこかに、大西洋とアジアを結ぶ海路は存在するのだろうか――を解くことに成功したわけではなかったが、それでも解決に大きく寄与した。 

 だがこの探検で、J・C・ロスはたったひとつだけ、キングウイリアム島の全体像について大きな勘違いをしていた。彼は自分が初めて到達したこの島を、キングウイリアム島ではなく、キングウイリアムランドと呼んだのだ。つまり、キングウイリアム島を島ではなく、ブーシア半島から西に出っ張った、北米大陸の一部であると思い込んでいたのである。

 J・C・ロスの後にこの地域にやって来た探検家たちも、この誤りを正すことができなかった。1833年から35年に当時グレートフィッシュ川――現代のバック川――と呼ばれた川を下り、キングウイリアム島の南のチャントレー入江に出たジョージ・バックの探検隊も、37年から39年に北米大陸北岸を東に進み、ブーシア半島の西の付け根までやって来たトーマス・シンプソンとピーター・ディースの探検隊も、キングウイリアム島を島とは考えず、ブーシア半島と陸続きだと思っていた。 海と同じような平らな地形、白い雪に覆われた単調な景色、そして霧で視界が閉ざされる気象条件のせいで、J・C・ロスの誤認は訂正されずにそのまま生きのびた。 

 この地理的な事実誤認は、結果的にフランクリン隊の派手な遭難劇を引き起こし、129人全員が死亡する要因のひとつとなった可能性が高い。 

 1903年から06年に探検家ロアール・アムンセンが小型帆船ヨア号で成功させたように、北西航路をたどる正解ルートは、キングウイリアム島を東から回りこんで北米大陸北岸を西に航海するルートである。 島の西側を回ると、北極海から大量の氷が押し寄せるため、船を動かせなくなる可能性が高いからだ。

資料;北西航路の歴史の概要 -1-

※  15世紀終わりから20世紀にかけて、欧州列強諸国は航海者や探検家を各大洋に送り出し、東アジアに向かう海路を発見しようとした。 いわゆる大航海時代である。その中でアフリカ大陸南端の喜望峰からインド洋に出る航路、大西洋を横断しメキシコ東岸に到着、さらに西岸から太平洋の向こうのアジアに至る航路がスペインやポルトガルによって開発されていたが、それを決定づけたのが1494年、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介でスペインとポルトガルの間に結ばれたトルデシリャス条約である。 これによりヨーロッパ以外の新発見の土地の両国間での分割が取り決められフランス・オランダ・イギリスといった後発の諸国は、新領土の獲得競争からも既存のアフリカ回り・南アメリカ回りのアジア行き航路からも締め出された。

 事態を打開し、より短いアジアへの航路を発見すべく、イギリスはヨーロッパから北西に向かい北アメリカの北岸を回ってアジアに至る仮説上の航路を北西航路(Northwest Passage)、ヨーロッパから北東へ向かいシベリア沖を経てアジアに至る同じく仮説上の航路を北東航路(Northeast Passage)と呼び、とりわけ北西航路の発見を目指した。 すでに中南米を確保していたスペインも、イギリスやフランスより先に北西航路を発見しようとした。 こうして、アジアへの最短航路発見の夢が、ヨーロッパ人による北アメリカ大陸の東海岸と西海岸に対する探検活動の動機となる。 

※  当初、探検家たちは北アメリカ大陸中央部を横断する海峡や河川の発見を目指したが、そういうものがないことが分かると、北の方からアメリカ大陸を回る北西航路の探索に注目した。 今日では酷寒の地と分かっている北極圏において、根拠もなく安定した航路の存在が信じられていたわけではない。 例えば夏期においては白夜により夜間の気温低下が発生しないため、北極点周辺の海は結氷しないという推論や、18世紀半ばジェームズ・クックの報告により南極海の氷山が真水でできていることがわかり、海水は凍らないという仮説が存在した。 このような原因で北極海中央が海水面であるとすれば、流氷や氷結によって航行が阻害されるのは大陸周辺の一部海域のみということになり、航路の設定も可能なはずとされた。また海流や海路についての研究を成し遂げた19世紀半ばのアメリカ海洋学の父マシュー・フォンテーン・モーリーは、北大西洋で捕獲されたクジラから北太平洋の捕鯨船のモリが見つかったことから太平洋と大西洋が北極海でつながっていると推論し北西航路や北東航路の可能性を主張した。 同時にモーリーは、メキシコ湾流や黒潮など北方へ向かう暖流が北極海で海面に上昇すると考え、北極点付近には氷がなく航行可能な開水域が広がっていると推論した。 このように北西航路の存在は当時としては妥当とされた科学的考察に基づいたものだったのである。 

※  こうした説が広く信じられたことから、何世紀にも亘り北西航路を求めて極寒の海に探検隊が送り続けられることになる。 彼らの中には悲惨な失敗をたどったものも少なくない。特に有名な失敗は、1845年に出発したジョン・フランクリンによる北西航路探検隊の全滅である。 1906年になりようやく、ロアール・アムンセンがヨーア号(Gjøa)でグリーンランドからアラスカまで航海することに成功した。 これ以後、氷圧に耐えられる船による航海が何度も行われている。

 

===== 続く

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

We are the WORLD

https://www.youtube.com/tv?vq=medium#/watch?v=OoDY8ce_3zk&mode=transport

【 Sting Eenglishman in New_ York 】

http://www.youtube.com/watch?v=d27gTrPPAyk

【 DEATH VALLEY DREAMLAPSE 2 】

http://vimeo.com/65008584

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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