【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =015=

2017-09-02 06:07:09 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ 冒険家の食欲 =2/6= ◇◆

 生で食べるのは卵と、胃袋のなかに入っていた半分溶けかかった何かの稚魚。 ひらきの干物をつくる作業中に、口に入れ、なかなかうまかったと語っている。

 もう一つの食べ方。 サケのシーズンも終わりに近い8月下旬、夏のあいだは1日中空にあった太陽が沈むようになり、夜になると気温が下がる。その時期、獲ったサケをそのまま海岸に置いておく。 日中は直射日光を当て、夜は少し凍らせる。 その間、サケをひっくり返して、両面に日光が当たるようにする。 何日かたつと、匂いが出てくる。 内臓が腐りかかって、匂いが身のほうに移ってくると食べごろだ。 内臓は捨てて輪切りにして食べる。

 さらにもう一つ、少し変わった食べ方。 ひらきをつくって干すとき、残った頭、骨、内臓はそのまま一緒に積みあげておく。 夏だからハエが来て、頭などにいっぱい卵を産みつける。 2日ぐらいすると、卵がかえってウジになる。 頭にウジがキラキラ光って動く。 そうなると、いくぶん腐ったような匂いが出てくるが、それが食べごろ。 ウジをこそげ落として、頭の軟骨とか頬を食べる。 肉はもうドロドロになっているが、しゃぶる。 腐りかけだからピリピリと舌を刺すけれど、なれてくるとこれがうまい。 ふつうの身のところは、2日もつづくと飽きちゃいますから、というのが植村の感想だ。

 植村はこの越夏で、エスキモー流のサケの食べ方を覚えた。 それで、「日本へ帰っても、サケはやっぱり頭がいちばんうまいように思って、自分で買ってきて、焼いて食べたりしているんです。」

 このサケと北極イワナの話でわかるのは、極地での食べ物については、植村は徹底してエスキモーに学び、それを自分のものにしていったことだ。 サケは、日本人にとってもなじみ深い魚であるが、焼いて食べる日本式ではなく、あくまでもエスキモー流の食べ方を身につけた。 植村にとって、エスキモーと同じ食べ物を同じ食べ方で摂取することは、サバイバル技術の基本であった。 これが植村の食べ物に対する基本姿勢である。

 北極圏に生きるエスキモーに、生き方の技術を習う。食べ物は、直接生命を維持するわけだから、その最も大切な一点である。 いわれてみればその通りだが、じつは世界の極地探検家のなかにあって、これは例外的なケースである。 有名な探険家たちは、多かれ少なかれ「自国風」に固執した。 植村直己ただひとりが、全面的にエスキモーと同じであろうとした。 植村のきわだったところである。

『北極圏一万二千キロ』(文春文庫)の、2月14日の記述にこんな部分がある。 植村は、まだグリーンランドの西海岸部に橇を走らせている。

《石油コンロの火を強くし、お湯をわかす。 フィン氏のくれたクジラの凍肉をかじり、コーヒーを飲んで朝食は終り。 皮手袋の上に毛糸の手袋をつける。 犬の毛皮の内靴を外靴に入れ、その上から白熊のズボンをはき、ヤッケと帽子をつける。目が覚めてからテントを出るまで一時間。》

 この朝はコーヒーを飲んでいるが、植村の行動中の飲み物は、紅茶が多い。 そこに溶けないほど多くの砂糖を入れて飲む。 ただし、朝だけはコーヒーがある限りはコーヒーを飲んだようだ。 また、この日は朝食に、カルサンヌでもらったクジラの生肉を食べている。 この生肉も、クジラというのは特別で、ふつうはアザラシの凍肉であることが多い。

 4月29日、植村の犬橇は、カナダ北部の海岸帯を走っている。 橇をとめたところで、カリブー(トナカイ)の小さな群れを発見。50メートルまで接近してライフルを撃つ。 さんざん苦労して、ようやく1頭を獲った。 カリブー1頭を獲るのに20発の弾を使った自分の下手さかげんに舌打ちしながら、それでもうれしさはひととおりではない。

《今日の行動をうちきり、テントを張ってカリブーを解体し、肉を犬に与えた。 私も湯気の上がる新鮮な肝臓をナイフで切って食べ、ついで煮て食べた。犬と私が満腹しても、カリブーはまだ半分残っている。 食糧に不安を感じだしていた矢先だったが、これでもう白熊に襲われるか、海水に落ちこみでもせぬ限り、死ぬことはないだろう。》

=補講・資料=

冒険家ラインホルト・メスナー(中節)

数々の輝かしい登山と冒険

この悲劇的なナンガ・パルバット登頂以降、17年の歳月をかけて1986年には人類史上初となる8000メートル峰全14座完全登頂に成功した。 その間に1975年に、ガッシャーブルムI峰でハーベラーとのコンビで世界で初めて8000メートル峰をアルパインスタイルで登頂。 1978年、ナンガ・パルバットで世界で初めて8000メートル峰をベースキャンプから単独・アルパインスタイルで登頂。

さらに同年、ハーベラーとのコンビで人類初のエベレスト無酸素登頂に成功。 2年後の1980年には途中、一度クレバスに転落する事故を乗り越えてエベレスト無酸素単独登頂の偉業を成し遂げた。 1982年にはカンチェンジュンガガッシャーブルムII峰ブロード・ピークという8000メートル峰を1年の間に次々と登頂。 チョ・オユーにおける同年の厳冬期登頂には失敗したものの、翌年春に再挑戦し頂上に到達している。 1984年には世界初のガッシャーブルムI&II峰縦走に成功した。

また、登山以外でも、グリーランド、南極大陸(1990年に92日間をかけ走破)、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠の横断を成し遂げている。

2001年には、永年の登山への貢献により、イギリス王立地理学会の金メダル(パトロンズ・メダル)を受賞した。

弟ギュンターの遺体の発見

2009年9月、1970年のナンガ・パルバット登攀の際に遭難した実弟のギュンター・メスナーの遺体が発見された。ラインホルトはギュンターと共にこの登山に臨んでおり、一部では弟の遭難死の原因を作ったのではないかと非難されていた。これに対しラインホルトは弟の遺品が自分の仮説通りの地点で発見されたことで、その疑いは晴れたと訴えた。弟の遺体は家族の立会いの下、地元の村で火葬された。

現在はトレンティーノ=アルト・アディジェ州の名誉市民となり、自身が所有する13世紀頃に建築された城で生活している。  

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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