【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

ツタンカーメン・系図の真実 追考-④

2013-05-01 16:21:03 | 冒険記譜・挑戦者達

Tutankhamen ・King_TUT / Amazement_Genealogy

~ ツタンカーメン! その父親と母親は誰なのか? 驚愕の真実とは ~

若くして死ぬ運命にあった

 解析結果をまとめた論文は『米国医師会雑誌』の2010年2月号で発表された。

 CTを使った調査と考古学的な記録に基づいた知見と併せて活用すれば、DNA鑑定は古代エジプトの歴史を読み解く強力な手段になる。 今回の成果を見て、私はそう確信した。

 何よりも、こうした研究が威力を発揮したのは、ツタンカーメンの死因を探る調査だ。

 アシュラフ・セリムらはツタンカーメンのミイラのCT画像を再度解析し、それまで見過ごされていた事実に気づいた。 若き王の左足は生まれつき足が内側に曲がっている「内反足」で、1本の指は骨が欠け、足の骨の一部は壊死していた。

 ツタンカーメンの墓からは130本もの歩行用の杖(つえ)やその一部が発見されている。  なかには、使った跡がはっきり残ったものもある。

 杖が権力の象徴として使われることはよくあるため、足の損傷はミイラ化の過程でできたとの主張もあった。

 しかし、私たちの分析で、壊死したあとに新しい骨が形成されかけていた跡が見つかり、足の損傷は生前からあったものだとわかった。  さらに、ファラオのなかでツタンカーメンだけが座ったまま矢を射たり、狩りに使う棒を投げる姿がレリーフなどに描かれている。  杖は、若きファラオが歩くために必要としていたものだったのだ。

 骨の病気は歩行を不自由にしたが、生命に影響を及ぼすものではなかった。

 死因を特定するため、ミイラに感染症の跡が残っていないか調べることにした。 その結果、マラリア原虫の一種(学名Plasmodium falciparum)のDNA断片が見つかり、ツタンカーメンが重度のマラリアに何度もかかっていたことがわかった。

 では、死因はマラリアなのか。

 マラリアは悪化すると死に至ることもある重い病気だから、死因となった可能性もある。  だが、他の研究者が指摘しているように、当時のエジプトではマラリアが広く蔓延(まんえん)していた。

 ツタンカーメンも、ある程度は免疫をもっていたはずだ。

  

  私の考えでは、ツタンカーメンは母親が彼を身ごもったときから、病弱になる運命だったのだろう。 

 父と母は実のきょうだいだ。 身内同士の結婚には政治的な利点があり、王族の間で近親婚の慣行があったのは古代エジプトだけではない。

 だが、この慣行はときとして危険な代償を伴う。

 きょうだい間での結婚では、父母双方から病気や障害の原因遺伝子が受け継がれる確率が高く、子供は遺伝性疾患を患う大きなリスクを負うことになる。

 ツタンカーメンの内反足も遺伝性のものだったかもしれない。 さまざまな病気や障害を抱えて体が衰弱していたところに、重いマラリアの発作か、脚の骨折が加わり、一気に衰弱が進んで死に至ったのかもしれない。

 他にも、近親婚の伝統を裏づける痛ましい証拠とおぼしき遺体が、ツタンカーメンの墓に納められていた。 まだデータは出そろっていないが、これまでの調査から、ミイラ化した2体の胎児のうち、1体はツタンカーメンの娘で、おそらくもう1体も彼の子供だと思われる。

 KV21号墓で見つかった2体の女性ミイラについては、まだ部分的なデータしかないが、1体(KV21A)は2体の胎児の母親、つまりツタンカーメンの妃、アンケセナーメンと考えられる。

 彼女はアクエンアテンとネフェルトイティの娘だったことがわかっているから、ツタンカーメンの異母きょうだいだったことになる。 近親婚が繰り返され、胎児に遺伝的な欠陥があったために、流産という結果を招いたのではないか。

 

=資料・アイ(ケペルケペルウラー)

アイ (ファラオ、Aya);古代エジプト第18王朝のファラオ

統治期間 紀元前1323年–1319年(もしくは紀元前1327年–1323年),第18王朝【前王・ ツタンカーメン、 次王・ホルエムヘブ】

没年;  紀元前1319(もしくは紀元前1323) 埋葬地・KV23(テーベ) ≪【配偶者 ティイ2世、アンケセンアメン  子女 ネフェルティティ≫

アイは、古代エジプト第18王朝のファラオ(王)。 アメンホテプ3世の正妃ティイ(Tiy)は妹で、兄妹ともにミタンニにルーツを持つ父イウヤの子である。 アフミーム(Akhmim)の出身とされている。

第18王朝の王族の一人であり、アメンホテプ3(三代前のフェラオ)の時代から王家に仕えてきた古参の臣。 両親であるイウヤとチュウヤはともに神官であり、自身も神官として経歴を積み、ツタンカーメンの治世にあってはアメン大神官の地位にあった。

ツタンカーメンの死後紀元前1327年頃(または紀元前1324年頃)、アンケセナーメンと結婚し王位を継ぐ。

妻としてはこの以前にテイ(Tey)がいたが、即位時にはすでに死別している。 なお、ネフェルティティをテイとの間の娘とする説もあります。

※;アンケセナーメン(Ankhesenamen,紀元前1344年頃-不明)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオ・アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女であり、ファラオ・ツタンカーメンの妻であった(前節・資料参照)。

ファラオとしての即位名はケペルケペルウラー(Kheperkheperure、『神はラーの徴なり』)であるが、治世が短かったため、またツタンカーメンを暗殺したとの後世の悪評のためか即位以前のアイの名で呼ばれることが多い。

ツタンカーメン時代にアメン信仰を復活させたのは彼の功績であるとされるが、即位時すでに高齢であり、治世が短かったため、これといった治績はない。

紀元前1323年頃(または紀元前1320年頃)没した。

子はなかったため、彼は同郷の貴族で軍司令官のナクトミン(Nakhtmin)を後継者に指名していたが、王女ムトノメジットと結婚していた将軍ホルエムヘブがナクトミンを打倒して王位を継承した。

その後、ホルエムヘブアクエンアテン以降四代の王の存在を抹殺したため、アイの名も抹消されることとなった。

これは、アイによりホルエムヘブが一時失脚したことへの報復のためと考えられる。  

ツタンカーメンの墓の壁画には、彼がツタンカーメンに「開口の儀式」を行う場面が登場することから、ツタンカーメンの葬儀の時にはすでにファラオとなっていたと考えられており、壁画に自身を描かせたのは王位継承の正当性を主張するためだったと思われるのですが・・・・・。 

 

 

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