【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

ツタンカーメン・系図の真実 追考-⑤

2013-05-02 15:38:38 | 冒険記譜・挑戦者達

Tutankhamen King_TUT  /  Amazement_Genealogy

~ ツタンカーメン! その父親と母親は誰なのか? 驚愕の真実とは ~

 

消されたファラオに光を

 さて、ひとまずは、ここでドラマの幕が下りたと考えてよさそうだ。 若き王と王妃は跡継ぎをもうけようとしたが、望みはかなわなかった。

 ツタンカーメンの墓にあった小さな箱には、杖に寄りかかった王に、王妃が花束を差し出す図柄が刻まれている。こうした仲むつまじい二人の姿は、他のレリーフにも描かれている。

  ツタンカーメンの死後、あるエジプトの王妃(おそらくアンケセナーメン)が、エジプトの最大の敵であるヒッタイトの王に、「私に息子を残さずに、夫は死んでしまいました」と伝え、王子の一人を自分の夫としてエジプトに遣わすよう頼んでいる。

 ヒッタイトの王は息子の一人を派遣したが、この王子はエジプトに向かう途中で死亡した。 おそらくツタンカーメンの軍隊の司令官ホルエムヘブに暗殺されたのだろう。

 結局は、ホルエムヘブが王位に就いたが、彼も子に恵まれることなくこの世を去り、その同僚の軍司令官が王位を継ぐことになった。

  この新しいファラオがラメセス1世である。エジプトは第19王朝の時代に入り、孫のラメセス2の統治下で、強大な帝国として再び栄華の極みに達することとなった。

  そして誰あろう、このラメセス2世こそが、ツタンカーメンをはじめアマルナ時代の「異端者」たちの痕跡をエジプトの歴史から消し去ろうと執念を燃やした人物だ。

 私たちは調査を通じて、消されたファラオたちの名誉を回復し、彼らの事跡を後世に伝えたいと考えている。

 文=ザヒ・ハワス 写真=ケネス・ギャレット

  

新王国時代(第18王朝)のファラオ歴代=資料=

イアフメス1世(別称;アハメス、アハモシス)

在位年代;前1550-1525年 誕生名;イアフメス(生まれ出る月) 即位名;ネブペフティラー(力の主、太陽神ラー) 治世;25年(+4ヶ月) 王朝の首都;テーベ  埋葬地;不明(テーベ周辺?) 出身地;テーベ  家族;父/セケエンラー・タア2世  母/アアヘテプ 兄/カーメス 妻/イアフメス・ネフェルトイリ

略歴;エジプト再統一。ヒクソス王朝を倒し、政権を取り戻す。シリア方面、および南はヌビアとの国境を固め、内政を安定させ、かつての秩序を取り戻した。 墓の内蔵品と王のミイラが見つかっているのに、墓の位置は不明。どうやら、盗掘を恐れた後世の神官が墓を移したために、本来の墓の位置が分からなくなってしまったらしい…。

背景; まだ戦争中。イアフメスの父と兄は、ヒクソスとの戦いで死んだようで、今ようやく、かつての秩序を再建しようとしていた…と、いうところ。 エジプトの母系社会が、さらに、くっきりと信仰にその形式を移したのが、この時代。 テーベの守護神であるアメンに仕える巫女、「アメンの神妻」という地位が作られたのは新王国時代だが、イアフメスの王妃、イアフメス・ネフェルトイリがその初代だっただろうと言われている。 テーベの王が全土の権利を握ったことにより、この時代もやはり、アメン神が最高位。(ラーではない)

アメンヘテプ1世 (別綴り;アメノフィス1世)

在位年代;前1525-1504年 誕生名;アメンヘテプ(アメン神に愛されしもの) 別綴り;アメノフィス1世  即位名;ジェセルカラー(聖なるラーの魂) 治世;21年  王朝の首都;テーベ  埋葬地;王家の谷KV39?  出身地;テーベ  家族構成;父/イアフメス1世  母/イアフメス・ネフェルトイリ

略歴;先代、イアフメス1世が無くなったとき、この王はまだ幼かったため、母イアフメス・ネフェルトイリが一時的に摂政の座についていた。この王妃は優秀な執政官で、人々の信頼を勝ち得ていたようだ。その証拠に、彼女は、死後、息子アメンヘテプ1世とともに神格化されている。 この時代の出来事が、王朝での「女神(神の妻たち)の地位の向上」に繋がった、という考え方も出来る。

アメンヘテプ1世は、カルナック大神殿の造営を指揮したことでも有名。 カルナック大神殿は、ルクソール神殿とともに、テーベの町の中心を形作る重要な建造物だ。コレが無いとテーベらしくない! と、いうくらい有名な(観光名所でもある)建物で、日本で言うと京都の金閣寺、奈良の五重塔みたいなシンボルと思いねぇ。もちろん、アメン神のための神殿である。

この時代特有の、墓と神殿を切り離す形式を最初に考案したのは、この王だったとされている。(ただし、墓の場所については諸説あり) 前神殿・前庭・奥に墓、前庭なし・前神殿と墓、など、まるで日本の寺社仏閣の様式のように細かく名前がついている。 背景;前王の時代に引き続き、北方シリア、南方ヌビアへの遠征。この時代は、父王の時代と同じく、内政を諸侯に任せて分業する形式がとられていた。内政にとらわれず、落ち着いて遠征することが出来たと考えられる。(外に行ってる間に内乱が起きたら終わりだが、この王朝は民の信頼が篤かったようだ。)

トトメス1世(別綴り;トトモシェ)

在位年代;前1504-1492年 誕生名;トトメス(ギリシア語、「トト神に生み出されしもの」) 古代エジプト語;ジェフティメス 即位名;アアケペルカラー(偉大なるラーの魂) 治世;12年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷KV20とKV38 出身地;テーベ  家族構成;妻/イアフメス(王女) 息子/ウアジュメス、アメンメス、トトメス2世

略歴;王の息子ではなく、軍人出身。古代エジプトは母系社会のため、基本的に王女が王権を相続する。その王女と結婚することによって、この人は王位をつぐことが出来たらしい。しかし、この人が王位についたということは、他に適当な王位継承者がいなかった、ということか…。  南方、北方両方に海外遠征を行い、はじめて戦争の記念碑を立てた王が、この人。軍人出身だけあって、在位が短かったわりに多くの戦争を行っている。

背景;国土の再統一がなされたとはいえ、まだ完全に安定したとは言いがたい時代。王権交代のすきをついての反乱もあったようだ。 先王の時代に造営が開始されたカルナック大神殿が、さらに増築され、大きくなっていく。それにつれて、カルナックのアメン神官団の権力も増大。 また、この時代あたりから、よく知られている「アムドゥアトの書」が墓の内部に見られるようになる。かつての太陽神ラーが、アメン神の一部として引き続き崇拝されていたことがうかがえる。

トトメス2世

在位年代;前1492-1479年 誕生名;トトメス(トト神が生み出せしもの) 即位名;アアケペルエンラー(偉大なるはラーの形) 治世;13年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷、KV42? 出身地;テーベ  家族構成;父/トトメス1世 母/ムトネフェルト 妻/ハトシェプスト(異母姉) 息子/トトメス3世(側室イシスの子) 娘/ネフェルウラー(ハトシェプストの子)

略歴;下位の王妃から生まれたトトメス2世は、王位継承の正当性を高めるため、第一王妃の子だった異母姉、ハトシェプストと結婚。その野望と野心を見抜きながらも、息子が幼いうちに命尽きてしまった。 こうして、エジプト史に残る女王の時代は、始まる。それは気丈な女王と、気弱な王との婚姻が生み出した、歴史の偶然だったのか。

背景;統治が短かった為、ほとんど記録はなく、シャスウ(ベドウィンの国とされる。アジア方面)への遠征がイアフメスの碑文で知られるのみ。

 トトメス3世(別綴り;トゥトモシェ、トゥトメシス)

在位年代;前1479-1425年 誕生名;トトメス(ギリシア語)/ジェフティメス トト神が生み出せしもの  即位名;メンケペルラー(ラーの顕現は永続する) 治世;54年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;テーベにある王家の谷(KV34) 出身地;テーベ   家族構成;父/トトメス2世 母/イシス 妻たち/ネフェルウラー(ハトシェプスト女王の娘)、ハトシェプスト・メリエトラー(再婚後の第一夫人)、メンヘト、メンウィ、メルティ 息子/アメンヘテプ2世

略歴;エジプトのナポレオンと呼ばれる王。この人ひとりだけについて取り上げた本も出ているくらいなので、ここではわざわざ述べるまい。 中でも、「メギドの戦い」は有名で、西アジア方面への遠征は17回を数え(実際に戦闘によって敵首長を討ち取ったのは初回のみで、あとは脅しのようだが)、国土を大きく広げた。  この王の代に西アジアへ何回も遠征したかとういうと、義母ハトシェプストの時代に、外交がおろそかにされて、アジアの国々がエジプトからミタンニ王国に乗り換えていたためで、北西の、アジア方面の国境線を強化する必要があったのだという説がある。

ハトシェプストの名や記録を抹消した行為も有名。しかしハトシェプスト葬祭殿オペリスク付近から出土したハトシェプストとの関係を示す像などから、それは政治的意図からによるもので、憎しみによるものではなかったことが知られるようになった。また、ハトシェプストとの共同統治時代に自ら命令を下したこともあったようで、完全に主権を奪われていたのではないようだ。 また、この王の時代にエジプトにおける射的競技が重要になり、碑文などで大きく取り上げられるようになる。ミン神を息子アメンヘテプの「師匠」として選び、自らの墓の壁画にミン神が王子に弓の稽古をつけているさまを描かせた。

背景;”アメン神の旗の御許に。” 自らの華々しい戦歴をアメン神殿に記すことによって、アメンの威光を高め、先代のハトシェプスト女王と同じく、この神と王家のつながりを強調した。 と同時に、正反対とも思える母性の女神ハトホルの礼拝所も、テーベ近郊に建造している。 このあたりから、王家の財産によって潤った神官団の権力と、聖俗一体政治の微妙さが浮き彫りになってくる。

 

ハトシェプスト女王

在位年代;前1473-1458年  誕生名;ハトシェプスト・クヌムトアメン(最も高貴な婦人、アメン神と結ばれし者) 即位名;マアトカラー(真実とラーの魂)  治世;5年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷 KV20 出身地;テーベ  家族構成;父/トトメス一世 母/イアフメス 夫/トトメス2世 娘/ネフェルウラー

概略;男性の王に代わり王権を乗っ取ったことで有名な女王。夫・トトメス1世は息子を次の王にと言い残したが、トトメス3世はまだ幼かったため、結果的にハトシェプストが摂政の座につくことに。 壮麗な葬祭殿など多くの建造物を残したが、その多くは、のちに打ち壊され、碑文も隠されてしまった。 ただし、かつて考えられていたように王権の簒奪者として憎まれていたわけではなく、「父から子への王権伝達」という伝統を壊さないために記念碑等の抹消が行われたのだと考えられる。女が王位についたことが許せず、彼女の業績を抹消しようとした人々もいるのだろうが、義理の息子・トトメス3世の残した母への賛辞から、少なくとも息子との仲は最悪ではなかったようだ。

なおハトシェプスト女王のミイラは、2007年6月にザヒ・ハワス博士らのチームによって特定された。CTスキャンの結果、ハワード・カーターが発見した王家の谷の墓に残されていたミイラに欠けている歯と、ハトシェプストの銘いりカノポス壷に入っていた奥歯が一致したことが、最終的な決定打になった模様。 これにより、ハトシェプスト女王の死はかつて考えられていたように記録から消えるトトメス3世の治世22年ごろではなく、そのさらに後に50歳くらいで病死しており、暗殺では無かったことも判明した。

背景;王は太陽神の息子(ホルス)と同一視されるため、父は太陽神でなければならなかった。かつてその太陽神とはラーだったのだが、新王国時代はアメンになっている。ハトシェプスト女王も、アメン神を自らの父として崇めていた。 女性が王のためか戦争は無かったが、そのぶん貿易で栄え、得た利益によってアメン神殿がグレードアップ。かつてない壮麗さを誇るようになる。(それ以外の神々の神殿も、派手になっていたようだが…。)

アメンヘテプ2世(別綴り;アメンホテプ2世、アメノフィス2世(ともにギリシア語))

在位年代;前1427-1400年 誕生名+通称;アメンヘテプ・ヘカイウヌ(アメン神は喜びたまう、ヘリオポリスの支配者) 即位名;アアケペルウラー(偉大なるラーの出現) 治世;27年   王朝の首都;テーベ  埋葬地;王家の谷、KV35  出身地;テーベ  家族構成;父/トトメス3世  

略歴;父王の時代に造営が始まったアメン大神殿を完成させた。アメン神の庇護のもと、王国は全盛期を迎える。  戦いに関しては非情に徹したようで、地中海地方の反乱を制圧し、反乱地域の王子たちを連れ帰って打ち殺し、アメン神への生贄として捧げたという。 なお、墓荒らしに遭ったものの、王のミイラは無事だった。 アメンヘテプ2世は記録によれば弓の名手として描かれており、「300の弓に弦を張った」「銅板に矢を射て貫通させた」などと石碑に刻ませている。

背景;軍事強化の時代のため、国土はヌビアからパレスチナまで南北の広域に渡っている。最初に新王の威光を知らしめるための遠征を繰り返したあとは、平和的な治世を行ったとされる。遠征によって、多大な富を得たため、国はうるおっていた。

トトメス4世

在位年代;前1400-1390年 誕生名;トトメス(トト神の生み出した者) 即位名;メンケペルウラー(ラー神の出現は永続する) 治世;10年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷、KV43 出身地;テーベ  家族構成;父/アメンヘテプ2世 母/ティア

略歴;ギザの大スフィンクスの修復者として知られている。スフィンクスの足元に立てられた「夢の碑文」によれば、夢の中にスフィンクスが出てきて、修復してくれたら王にしてやると言われたという内容が刻まれている。 通常オベリスクは2本で一対だが、珍しく、単一のオベリスクを建造。そのオベリスクは国外に持ち出され、現在は何故か、ローマのヨハネ大聖堂の傍らに立てられている。

背景;小規模な遠征はあったが、とくに大きな戦闘はなし。先代までが、かなり派手に軍事活動を行ったので、特に何もしなくて良かったようだ。 なお、テーベの「死者の町(ネクロポリス)」に、豪華な貴族の墓が作られるようになったのは、この時代である。 

アメンヘテプ3世

在位年代;前1390-1352年 誕生名+通称;アメンヘテプ・ヘカワセト(アメンは喜びたまう、テーベの町の支配者) 即位名;ネブマアトラー(真実の主はラーなり) 治世;38年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷、KV22 出身地;テーベ  家族構成;父/トトメス4世、母/ムテムイア 第一王妃/ティイ、息子/アクエンアテンほか、娘/イシス、サトアメン

略歴;第一王妃は王位につく前に結婚していた、平民出身の娘。恋愛結婚のニオイがしますが、この最愛の王妃との間に生まれたのが、のちのアクエンアテン。 ちなみに、正妻・ティイの一家はそろって王に仕えていたようで、父イウヤは軍事指導者、兄アネンは下エジプトの総督をつとめていた。

背景;アメン神のために、ルクソール神殿を建造。アメン神とその妻ムト、人間創造の神クヌム神と知恵の神トトに捧げられた碑文が有名。新王国時代特有の信仰体系が見受けられる。 外交、貿易によって多大な富が築かれていた時代なので、アメン神の神殿は豪華絢爛。のちに「メムノンの巨像」と呼ばれる座像が作られたのもアメンヘテプ3世の治世下である。 やはり大きな戦いは無く、母はミタンニから政略結婚で嫁いできた王女だったという。後宮には、同じように各国の王女たちが集められていたらしい。ハレムですな…。ちなみに古代エジプトの王家は、同盟国に王女を差し出させることはあっても、自分とこの王女を送ることは決してありませんでした。対等な関係ではなく、「エジプトが上」という意識があったわけです。

アメンヘテプ4世(アクエンアテン 別称;アメンホテプ、アメノフィス(ギリシア語))

在位年代;前1352-1336年 誕生名;ネフェルケペルウラー・ワァセンラー(美しきラー神の顕現、全知全能なるラー) 即位名;アメンヘテプ・ネチェルヘカワセト(アメン神は喜びたまう、テーベの力ある神) 改名後の即位名;アクエンアテン(アテン神の役に立つもの) 治世;16年  王朝の首都;テーベ→アケト・アテン 埋葬地;アケト・アテン→王家の谷 KV55 出身地;テーベ  家族構成;父/アメンヘテプ3世、母/ティイ、兄/トトメス(夭折)、妻/ネフェルトイティ、他多数  息子/ツタンカーメン【2010年確証】

 略歴;彼についてはもちろん、エジプト史上もっとも謎に満ちた王として、多数の本が出版されている。 アメン神への信仰を放棄し、アテン神を祀り上げた。アテン神自体は彼以前の代(少なくとも父親アメンホテプ3世の時代)から信仰が確認されているが、なぜ突然、それまでの最高神を捨てたのかは、諸説ある。 

アメン神のみならず、他の神々への排除も行われていたようだが、その弾圧は国全体を巻き込む苛烈なものではなく、地方では今までと変わらない信仰が続いていた。 それまでの首都だったテーベを放棄し、テーベとメンフィスの間にあるエル・アマルナに「アケト・アテン(アテン神の地平線)」という名の都を築いたが、彼の治世が終わると放棄され、都は短期間で砂に埋もれることとなる。尚、アマルナから出土する人骨はほとんどが10代で命を落としており、栄養状態も悪く、都の壮麗さとは裏腹に環境は劣悪であったことが推測されている。

背景;王様が宗教に熱中している間に、国政はガタガタに。以後、完全な建て直しは不能のまま、王朝は下り坂ぎみに終焉を迎える。 2010年、KV55から発見されていた、破損した棺の中のミイラ(というか骨)がDNA鑑定の結果、アクエンアテンのものと判明。棺の名前が削り取られ、顔の部分が破損していたことから、アクエンアテンを好ましく思わない誰かが故意に傷つけたと考えられる。

もとの埋葬地はアクエンアテン自身が築いた都、エル・アマルナ付近だったという説もあり、未完成のKV55へ移葬されるときに名前が削られたのかもしれない。ちなみに発見された骨から、アクエンアテンは頭の骨が長く、腰骨が男性にしてはやや広く、アマルナ芸術に見られる両性具有のような姿は実際のアクエンアテンの風貌をより際立たせたものだったことが分かってきている。

スメンクカラー(通称;アンクトケペルウラー・メリィトワァエンラー(生ある息吹、ラー神の出現、全知全能なるラー神に愛されし者))

 在位年代;前1338-1336年 誕生名スメンクカラー・ジェセルケペルウ(信頼できるものラーの魂、神聖なるラー神の出現) 即位名;アンクケペルウラー・メリィワァエンラー(生ある息吹、ラー神の出現、全知全能なるラー神に愛されし者) 治世;2年  王朝の首都;アケトアテン 埋葬地;王家の谷? 出身地;テーベ?  家族構成;妻/メリトアテン 弟?/ヘカイウヌシェマ(ツタンカーメン)

略歴;最近になってから取り沙汰されるに至った、新発見の王。治世については、アクエンアテンとの共同統治だったという説が有力。アクエンアテンと共同統治にあったが、ほぼ同時に亡くなったため殆ど記録が残っていない。この王についても単独の研究書が出ているので、ここでは省略。 次代ツタンカーメンとの関係は、片親違いの兄弟ではないかという説もあるが、今のところ確定はしていない。

情報が少ないため、この王が、アテン信仰とどう関わっていたかについては諸説ある。名前にアテン神が入っていないこと、墓に記された落書きなどから、この王は、かつての信仰(アメンorラー)への回帰をもくろんでいた、という説がある。 

背景;アクエンアテンが政治をかえりみず宗教に走っていた間に、国政は家臣がガッチリ握ってしまっていたようで、この王の活躍についてはほとんど知られていない。

ツタンカーメン

在位年代;前1336-1327年  誕生名;トゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿)改名後;トゥトアンクアメン・ヘカイウヌシェマ(アメン神の生ける似姿、上エジプト、ヘリオポリスの支配者) 即位名;ネブケペルウラー(出現の主は、ラー) 治世;9年  王朝の首都;(アケトアテン)→メンフィス→テーベ 埋葬地;王家の谷、KV62 出身地;アケトアテン?  家族構成;父/アクエンアテン 妻/アンケセンパアテン(アンケセンアメン)、兄/スメンクカラー その他は不明

略歴(省略)・背景;アクエンアテンとスメンクカラーが相次いで亡くなったあと、家臣団が実権を握る中に幼くして即位したのが、ツタンカーメン。アテン信仰からアメン信仰へと立ち戻った時期であり、アテン信仰の歴史を抹消しようとした形跡が多く見られる。 この王が跡継ぎを残さずに急死したため、王朝がいったん断絶する。他に適当な王位継承者がいなかったのか、次代を継ぐのは高齢だった神官アイと将軍ホルエムヘブ。その後、ホルエムヘブの養子だったトトメス1世に代が移り、19王朝が開始される。18王朝から19王朝への歴史のターニンクポイントに位置する王様なのだ。

アイ (通称;アイ)

在位年代;前1327-1323年  誕生名;イトネチェル(神の父) 即位名;ケペルケペルウラー(永続するものはラーの出現) 治世;4年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷 KV23 出身地;テーベ?  家族構成;先妻/ティイ2世  孫・妻/アンケセンアメン

略歴;アクエンアテンの先代、アメンヘテプ3世の時代より、長らく神官として王家に仕えて来た人物。同時に、宮廷内の権力を牛耳る人物でもあった。王による改宗、王の死後の急激な変化、王の手が離れた政治を、影で支配して来たのは、この人物かもしれないといわれている。 ツタンカーメンの葬儀を執り行った直後、アマルナ王家直系の最後の一人、自分の孫でもあるアンケセンアメンと(強引に? それとも地位救済のため?)結婚し、王位を継ぐ。 若い妻は、結婚直後に夭折。高齢だったアイ自身もわずか4年で死に、王権はさらに次の権力の手へと移って行く。

背景;アクエンアテンの即位後も権力の座に居座り続けたということは、王の宗教改革に表立って反対はしていなかった人物なのだろう。しかし、その死後、あっというまにアメン信仰を復活させた手際からして、実は裏でアメン神官団との繋がりがあったのではないかと言われている。世渡り上手で狡猾な人物のように思えるが、王のブレインともなればそのくらいの素質は必要かもしれない。

ホルエムヘブ (別綴り;ホルエムハブ、ハレムハブ)

在位年代;前1323-1295年  誕生名;ホルエムヘブ・メリアメン(ホルスは歓喜する、アメン神に愛されし者) 即位名;ジェセルケペルウラー・セテプエンラー(聖なるものはラーの出現、ラーに選ばれし者)  治世;28年   王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷 KV57  出身地;ヘラクレオポリス   家族構成;先妻/?  もう一人の妻/ムトノジュメト

略歴;出自不明の軍人。アイと同じく、アメンヘテプ3世の時代から仕えた古参の家臣。アイが文官や神官を牛耳っていたなら、こちらは武官や軍人を掌握し、二大勢力となっていたと思われる。アイの没後、二大勢力は崩れ、すべては彼の手の中に握られることになる。 神官団に邪魔されないように、即位するや否や、息のかかった軍人出の者ばかりを神官に任命。その上で、アメン信仰の復興、神殿の造営等を行った。しかし、それすらも信仰のためというよりは、先王たちの遺業を横取りし、自らの名を世に残すためだったのかもしれない。

自分より前に即位したアイの墓を、容赦なく徹底的に破壊させたが、何故かツタンカーメンの墓だけは見逃している。アイが墓の位置を隠したからなのか、ホルエムヘブがツタンカーメンに特別な思い入れを持っていたからなのか。説は幾つかある。

背景;栄えていた王国も、末期の状態である。 18王朝末からの低迷は新王国時代 第19王朝・ラメセス1世に引き継がれる。 ネフェルトイティの姉妹、ムトノジュメトを妻に迎え、辛うじて王家の血筋との繋がりを保っているが、通常なら王位の正当性は主張できないくらいのもの。王家の血筋とは全く関係なさそうな人物が即位できたということは、もはや、他に適当な人物がいなかったということだろう。

 

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