【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

霊長類学者_D.フォッシーの学究達=177= / カリソケ研究所(03/14)

2021-05-20 06:09:54 | 浪漫紀行・漫遊之譜

世界に800頭ほどしかいないマウンテンゴリラ、ルワンダ共和国には約500頭が生息

1967年にダイアン・フォッシーが設立した「カリソケ研究所」はゴリラ研究で世界的中心のひとつ

映画「愛は霧のかなたに」や、自著『霧のなかのゴリラ』で世界中で認知される 

設立から約半世紀がたつ今なお、D.フォッシーの情熱が受け継がれる

【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/研究室にいって来た”を基調に編纂】

(文=川端裕人/写真=川端裕人 & イラスト・史料編纂=涯 如水)

カリソケ研究所(03) / マウンテンゴリラ ダイアン・フォッシーの後継者たち ◆◇

◆ 第1回 マウンテンゴリラの赤ちゃんがかわいすぎる件 =3/3= ◆ 

1960年代にはじまる、この地域でのゴリラ研究の歴史があるからだ。いや、極論すれば、ある特定の人物に行き当たる。

 ダイアン・フォッシーだ。

 シガニー・ウィーバーが主演した映画「愛は霧のかなたに」で彼女をご存じの方も多いのではないだろうか。あるいはフォッシー自身の著書『霧のなかのゴリラ―マウンテンゴリラとの13年』を通して。

 とにかく、野生ゴリラ研究の開拓者の1人で、研究分野を切り拓いたカリスマである。彼女が1967年にルワンダに設立した「カリソケ研究所」(火山群の中の2つの山、カリシンビ山、ビソケ山の間にある鞍部に最初のキャンプを作ったのが名前の由来)は、今もゴリラ研究の世界的中心のひとつに挙げられる。

 ダイアン・フォッシーは研究のために「人付け」に成功し、保護にも力を尽くした。おかげで、マウンテンゴリラたちが厳しい状況を生きのび、繁殖し、「観光ゴリラ」まで出現し(観光に出されない「研究ゴリラ」もいる)、野生の姿を容易に見られるのだ。

 というわけで凄く長い前置きになったけれど、今回の研究室訪問の相手は「ダイアン・フォッシー」だ。

 類人猿好きの人なら、え? と思うだろう。

 彼女は、1985年12月、ここルワンダ、それもカリソケ研究所内で、何者かに殺され今はいない。犯人は検挙されなかった。彼女はファイター型の研究者(?)で、当時多かった密猟者に対して徹底抗戦の立場を取っていたから、恨まれることも多く、その関係で殺害されたのではないかというのがよく聞く憶測だ。

 なにはともあれ、彼女が設立したカリソケ研究所は今も存続しており、マウンテンゴリラを研究し、見守る役割を担っている。ルワンダが1990年代の混乱(後に触れることになるだろう)から立ち直って観光立国するのにも一役買った。

 ぼくの訪問時、研究所で会うことができたのは、日本人を含む3人の「後継者」で、偶然なのか必然なのか分からないけれど、3人とも女性だった。

 3人の女性ということでつい連想するのだが、1960年に古人類ホモ・ハビリスの化石を発見し、時代の寵児となったリチャード・リーキーが類人猿研究の大切さを唱え、フィールドに送り込んだ3人の研究者たち、ジェーン・グドール(チンパンジー)、ダイアン・フォッシー(マウンテンゴリラ)、ビルーテ・ガルディカス(オランウータン)の3人は、すべて女性で「リーキーの3姉妹」と呼ばれた。

 また21世紀の現在、ぼくがこれまで類人猿のフィールドで、出会った研究者は、過半数を遥かにこえて「女性ばかり」という印象を持っている。偶然とは思えないのだが、理由は分からない。

 とにかく、ダイアン・フォッシーが拓き、今も彼女の研究と保護への情熱が受け継がれるカリソケ研究所に行ってみた。

次回は“第2回「母親の気持ちとか、すごく通じる」”に続く・・・・

■□ 参考資料: ダイアン・フォッシー/Dian Fossey, 概論 (3/3) □■

生活圏の保護 :

フォッシーの運動により、保護区域は3000mの高度から2500mの高度に下げられ、拡大された。

ディジット基金 :

1977年、フォッシーのお気に入りのゴリラであるディジットが、群れを守ろうとして密猟者に殺された。ディジットの手は切り取られ、灰皿として売られた。フォッシーのアシスタントが密猟者を捕え、服役させることになった。フォッシーは密猟を妨害するためにディジット基金を設立し、寄付を集めた。フォッシーは、公園保護官が裏で密猟を手助けていると非難し、他の国際的な保護機関が公園保護官を助けるのには批判的であった。自分の調査していたグループのゴリラを殺されたフォッシーはさらに過激になり、次第に科学的な調査よりも密猟反対運動に時間を注ぐようになった。フォッシーのグループは密猟者の罠を破壊するだけでなく、密猟者を捕え、辱め、その家畜を捕えて身代金を要求し、キャンプを焼き払うようになった。地元の警察を脅して法の遵守と自分たちの活動への協力を強要した。

私生活 :

フォッシーは、最初のアフリカ旅行でアレクシス・フォレスターと出会って婚約した。後には、既婚者の写真家ボブ・キャンベルと親しくなったが、やがて別れることになった。ケンブリッジ大学で博士号を取得している間に妊娠に気付いたが中絶した。そののちもいくつかの恋愛関係があった。 虐待された動物を救うことが多かったため、フォッシーのキャンプには小動物園がもうけられた。ジェーン・グドールとは友人となった。 ヘビースモーカーであったフォッシーは慢性閉塞性肺疾患に苦しみ、病気は湿った高地での生活により悪化した。次第にフィールド調査は困難となり、酸素タンクを必要とするようになった。

死 :

1985年12月27日、小屋の寝室で斬り殺されているところが発見された。小屋の壁には穴が開けられており、貴重品も現金も盗まれてはいなかった。遺言書には、予定されていた映画からの収入も含めた全財産をディジット基金に寄付すると書かれていたが、家族の署名はなかった。後の裁判で遺言は無効とされ、フォッシーの母が遺産を得た。


死の余波 :

全スタッフが逮捕され取り調べを受けたが、牢内で自殺した一人を除いて全員が釈放された。

後に、ルワンダの法廷はすでにアメリカに帰国していたスタッフのウェイン・マクガイアを不在のままで有罪とする判決を下したが、マクガイアが服役することはなく、その判決の真否は後に論議の的となった。

科学的業績 :

フォッシーはゴリラのメスがグループ間を移動すること、ゴリラの発声、グループ内の階層やグループ間の関係、子殺し、食事などを発見した。

死後 :

フォッシーの死後、ディジット基金(Digit Fund)はダイアン・フォッシー・国際ゴリラ基金(Dian Fossey Gorilla Fund International)と改称された。カリソケ研究センターは基金によって運営され、今日もゴリラの調査と保護を続けている。1994年のルワンダ虐殺まで、センターはフォッシーの指導した学生たちが運営した。虐殺とその後の混乱の間、キャンプは略奪破壊された。今日ではフォッシーの小屋の跡が残っているだけである。その後の内戦の間、ヴィルンガ山地には避難民があふれ、環境は破壊された。

=資料:ウイキペディア=

Dian Fossey Gorilla Fund International PSA 2014 

動画のURL: https://youtu.be/wmTH61XN7po

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

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