【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =027=

2017-09-26 06:11:20 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○ 

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ 現地から届いた手紙 =2/6= ◇◆

 シオラパルクへの旅を終えた後、5月から6月にかけシオラより北極海の方へ旅をやり6月末までには帰国したいと思っております。このウパナビックの後、海水のないゴットソア(ウパナビック最北の村)で10日間ばかり休養し、4月末までにはシオラに着けるものと思います。4月に予定していたカナダの旅はウパナビックの旅が長びき出来ず、6月までに1万kmの走行をこなす予定も今のところ難しくなりました。


 ここに無事ウパナビック旅片道を終えましたこと帰路の不安があるとはいえ、喜びでお伝えします。
3月21日 13・00  朝10時の気温はマイナス32℃》

 鉛筆で書いた、踊っているような文字。特に最後の3枚目は橇が揺れたせいだろうか、文字がさらに大きくなって揺れている。臨場感みなぎる手紙だった。

 この手紙はグリーンランド滞在と犬橇の訓練がうまくいっていることを伝えてくれたが、私はもう一つの別の含みを読みとってもいた。シオラパルク~ウパナビック往復の旅が長びいていて、4月に予定していたカナダへの旅ができなくなった。そのため6月まで1万キロメートルの走行をこなす予定が実行できなくなった、というくだりである。

 植村はさらに北極圏での訓練と冒険を考えているのではないか、と私は漠然とではあったが予感した。この予感をいだいたのには、もう一つ理由がある。

 72年9月にシオラパルクに入る前、植村は同年1月にアルゼンチンの南極基地ベルグラーノに入って、初めて南極の氷を踏んだ。南極横断計画のための偵察である。

 ベルグラーノ基地に入る前、71年11月30日付で、アルゼンチンのブェノスアイレスから届いた手紙がある。その手紙の末尾には、気の早すぎる72年の予定が記してあった。それによれば、3月末~7月 グリーンランド。10月 東京→南極(米軍マクマード基地)、11月 南極横断出発、とある。

 私は手紙を読んで、植村らしい気の早さだけれど、そうはいくまい、と考えた。米軍基地の許可が下りるかどうかという難題がある。それに3月末から7月のグリーンランド滞在で訓練が予定通りいくかどうか、皆目見当がつかない。とにかく、もっと時間がかかるし、かける必要がある、と思った。

 グリーンランドに11カ月いて、植村自身が身をもって「時間がかかる」ことを知った。またそれ以上に、北極圏の氷雪の世界に興味をもち、冒険心をそそられた。南極単独横断の夢は心のなかでいよいよ強くなるいっぽうで、彼の行動そのものは大きく迂回することになるのである。それが74年の年末から始まる北極圏一万二千キロの旅になった。

 その前、73年7月に植村はグリーンランドから帰国。下宿近くのトンカツ屋で野崎公子に出会い、翌年5月、公子さんと結婚。彼にとっては新しい人生の始まりでもあった。その間、あれこれと思いをめぐらした後で、一万二千キロの犬橇旅行に出発した。

 植村からの便りを改めて取りだしてみると、最初にもらったのは1970年、カトマンズからの年賀状だった。

 植村は日本山岳会エベレスト登山隊の一員として、70年の本登山の前年から越冬隊員としてネパールにいた。そこからのハガキである。私の個人的な懐かしさから、全文を引用する。ハガキは横書き。

《謹んで新春のお喜び申し上げます。 私の方は第2次エベレスト偵察の方は無事終了し、今越冬隊ということで、エベレスト山麓、ネパールで一番高いシェルパの村クムジュン(3980m)で、シェルパの家族と一緒に、毎日、エベレストを見ながら生活しています。多分東京の方は目まぐるしい動きに、多忙をきわめていると察しますが、私の方はやっとシェルパの社会にも慣れ、ヒマラヤボケといわれるかも知れない程になっております。晴天続きですが気温はマイナス18℃まで下り、可成り寒いです。今年も宜しくお願い致します。》

=補講・資料=

シェルパを伴うヒマラヤ登山の過去においては、登山隊内のシェルパのリーダーはサーダと呼ばれ、遠征してきた諸外国の登山隊員もその意見を尊重していたが、1990年代以降、商業ベースの公募隊の登山が活発になると、お客さんと化した登山家側から消耗品扱いされるようになった。

2013年4月、シェルパと欧州の登山家がエベレスト登山中に口論、暴力沙汰となる事件が発生すると、シェルパ側から地位向上や遭難時の補償を求める声が高まり、2014年4月、シェルパが13人死亡、3人が行方不明となる雪崩災害を契機に頂点に達した。 この年、多くの登山隊がシェルパの離反などを理由に登山の継続を断念。

この結果シェルパ側が、多少なりとも発言権を確保した結末となった。 その後、ネパール観光省は、2014年9月以降の事故時の補償拡充策として、死亡時の保険金が1万ドルから1万5,000ドルに、医療保険金を3,000ドルから4,000ドルに引き上げている。

シェルパはチベット語の方言ともいえる言語・シェルパ語を話す。 またネパール語や英語に通じる者も多い。 宗教はチベット仏教を信仰している。

20世紀後半以降、エベレストを始めとしたヒマラヤ登山が活発になり、海外から登山客、観光客が増えると、シェルパ側の現金収入の途も増えた。 登山案内人の職は、ネパールの平均収入と比べて高収入であり、職を得るための競争は激しいが、死の危険も大きく1950年から2009年の間に224人以上のシェルパが命を落としている。

一方、エベレスト山麓では、1973年以降に飛行場とヘリ発着場が作られ、比較的簡単に登山が行われるようになり、観光客相手のロッジ経営・通訳など、ヒマラヤ観光全般に従事することも容易となった。 それによって増加した登山客によって持ち込まれる多量のゴミなどによる環境破壊を危惧して、近年では自然保護団体を組織している。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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