☆ 日本生命が、劇団四季のための劇場を日比谷にオープン(1963年=日生劇場開場)。その前座としてベルリン・ドイツ・オペラの招待興行が開かれる。 ☆ 皇后陛下が過労で倒れられ失声症となる(1993年)。憂国に名を借りた週刊誌の不敬に心を痛められた模様。 ☆ カダフィが第二のチャウシェスクになる(2011年)。42年間続いたリビアの独裁政権に幕を下ろす。
◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 14 回= ◎ ◎
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2012年7月11日 / (Web編集部)
前回に続いて、1930年代に『ナショナル ジオグラフィック』に載った日本の記事をピックアップしてみます。
「ナショジオが見た大正の日本」の回で紹介したように、1923年10月号の「日出づる帝国(The Empire of the Rising Sun)」で日本が成功した秘密を考察した日本学のさきがけ、ウィリアム・エリオット・グリフィスは1933年3月号で日本と中国を比較しています。西洋人にとって両国は「ほとんど双子のようなものとして」一般的に受け止められていました。
「中国の自然にはあまり大きな変化は見られないが、日本は激しく変動する大地と海に囲まれ、大気が乱れやすい。こうした地球規模の力は、長きにわたり、日本人の体型や、習慣、そして精神に深く影響を及ぼしてきた。どちらかと言えば保守的で冷淡、無神経な中国人と比較して、日本人は変化を受け入れる一方で、自然や地理的条件がもたらす困難に毅然と立ち向かう、活発で優しい人々である」
もっと言って(笑)。
日本人は西洋の真似ばかりしている、という当時よく言われた批判については、 「日本人に独創性はあるのか? その問いになんと答えようと、日本が若い国であること、何世紀にもわたる鎖国が行われた国であることを忘れてはいけない。19世紀の日本には、海外の思想や発明、長い時間をかけて培われてきた西洋文明の成果が一気に流入してきた。独創性を発揮する余裕など、なかったに違いない」
「日本人は折衷主義だと言われるかもしれない。しかし、医学の分野、特に細菌学においては、北里柴三郎博士や野口英世博士の発見と業績が欧米でも認められている。化学的な発明、従来の知識の展開と応用など、日本人は科学や商業の世界で、名声を勝ち取ってきた」
お雇い外国人だったグリフィスは相当な日本びいきだったようです。この号では、さらに日本の自動車旅行の記事もあり、全62ページで日本を取りあげています。写真も多く、30年代ではいちばんの規模でした。
3年後の1936年4月号には、それまでと毛色の違う記事「にっぽん人情めぐり旅(Friendly Journey in Japan)」が掲載されました。若いアメリカ人のジョン・パトリックが貧乏旅行をしながら肌で日本文化を理解するというライトな紀行文で、これが面白い。興味深い描写がたくさんあります。
横浜に着いたパトリックは、美しい富士山を目にしてまっ先に登りにいきました。 「日本人にとって富士山は、イスラムのメッカと同じように、特別の意味をもつ。それにしても、山頂も登山道も、灰とゴミの山に囲まれていた。毎年訪れる多くの登山者が、たくさんのゴミを捨てていくのだそうだ」
この頃から富士山はゴミだらけだったのか……。
続いて鎌倉から日光へ。 「日本にはホテルと宿屋がある。ホテルと違い、宿屋の部屋には鍵などはないが、それでも外国人にとっては、日本の暮らしを理解し楽しめる場所だ。景勝地の日光には、こうした宿屋がたくさんある。若い4人の女性教師を誘って旅館に泊まった。半透明の紙袋に入った歯ブラシに彼女たちはいたく感激したが、バスタオルも石鹸も部屋にはない。
風呂に入るにも私が入り口で見張り番をすることになってしまった。『なぜ、お風呂に鍵がないの』と騒ぐ彼女たちに私はこう言った。『ここは日本、鍵なんて必要ないんだよ』。アーサー・ローズ・イネスの日米会話辞典には、こう書かれている。『privacy(プライバシー);日本にはほとんど見られない。日本語に訳すのは困難』」
日光のページには華厳の滝のカラー写真もありました。
パトリックは日光から荷物を最小限にとどめてより身軽になり、いよいよ貧乏旅行の気配が濃くなるものの、洗濯だけはマメにして、時にはシャツにアイロンまでかけました。そのワケは、 「奇妙に聞えるかもしれないが、私は、貧しい巡礼者と旅行者が多く、しかも清潔を最も尊ぶ国にいたのだ。誰もが、私の放浪を暖かく見守ってくれた。特に貧しい人々は、私のことを「貧乏な人」と信じ、私心なく助けてくれた」
仙台から青森へ行き、津軽海峡を渡るため青函連絡船に乗り込みます。 「連絡船には1000人もの乗客がひしめき合い、寝返りも打てないほどだった。小泉八雲の名で知られる作家ラフカディオ・ハーンは「日本人は群集も世界で最も清潔である」と書き残している」 パトリックは日本人の親切さと同時に、清潔さにとても感心したようですね。「清潔」という言葉がしばしば登場します。
北海道では札幌やアイヌの村を訪ねたあと、また青森から船で秋田へ。さらに日本海沿いに直江津、富山、金沢、福井、天の橋立のあとは関門海峡を抜けて宮島、神戸、名古屋にいたります。
旅のフィナーレは岐阜で鵜飼い見物です。その帰り、横浜行きの船でパトリックは東京へ向かう少女たちの一団と出会いました。彼女たちは貧しい養蚕農家から出稼ぎに行くところでした。 「不況とレーヨンなど化繊の流行で、絹の需要は落ち込み、養蚕農家は厳しい状況を迎えている。自宅から離れたことなどなかっただろう彼女たちは、故郷の村や幼い兄弟の笑顔を思い出して、悲しい夜を過ごしたことだろう」
岐阜の農家と聞くと、中の人は『あゝ野麦峠』を思い出してしまいます。野麦峠は飛騨から長野県の諏訪方面へ行くルートにありましたが、同じように横浜へ行く女の子もいたのでしょう。楽しい紀行文のわりに、しんみりとした最後の一文はまるで旅の終わりを嘆く筆者の感傷を映し出しているようです。
次回は “ « ナショジオが見た戦中の日本 » “ に続く・・・・・
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