【経過】
11/21 二木先生の本を取り上げることにしました。
11/23 この7年間の医療政策のまとめ
12/02 国際比較を踏まえた日本の医療の現状(先生の基本スタンス)
と、これまで3回、読んできました。
【先生が日本の医療に希望を抱く理由】
第1章 第3節 のタイトルは
敢えて「希望を語る」-私の事実認識
となっています。(同書、p15~p23)
この7年間、日本の医療政策は「引き締め」一本で来たのですが
2007年から転換の兆しが見られるので、わずかであれ希望がみえてきた。
【3つの希望】
1 最近の制度改革で評価できることと専門職団体の自己規律が強化されたこと。
→この点は、次の項目でもう一度触れます。
2 マスコミの医療に関する報道姿勢が、医療政策に批判的になってきた。
3 小泉政権時期の医療費抑制策の部分的な手直しが見られる
(安部首相自身のイニシアティブによるものではなく、患者や当事者はやむにやまれず立ち上がった結果の手直し)
医学部定員の削減(1982年、1997年)の見直しの兆候も。
【最近の制度改革と専門職団体の自己規律の強化】
1 医療・経営情報の公開
・カルテ開示
・領収書の発行義務づけ
・医療機関の医療機能の情報公開
2 医療法人制度の改革
・「社会医療法人」の創設による公益性の強化
・基金拠出型法人
3 日本医師会の例
・2005年「自浄作用活性化推進に向けてハンドブック」の刊行
・産科医療無過失補償制度(2007年にも制度化か)
・医療版事故調査委員会(第三者機関)設立の動き
・愛知県医師会や茨城県医師会の自己改革への動き
【次回】
第1章には、「補論」が5本加えられていますが、興味深い論文が多いのですが、ここでは省略して、第2章へ進みます。
第2章は、「後期小泉政権の医療改革」ですが、長いので、節ごとに区切りながら、専門的な部分は省いてポイントを紹介していきます。
【ブログ編集者のエピソード】
19年足らずの厚生省(当時)勤務ですが、霞ヶ関以外(石川県、在ドイツ大使館)が合計7年あまり。残るわずかの期間ですが、課長が技官という部屋に2度いました。それが、「医療課」(保険局。保険医療費の決定)と「防疫課」(公衆衛生局。いまでいう「感染症対策」を担当する部屋)課長が技官(医師)のみならず、課長補佐の筆頭その次と、主な方はみんな技官でした。
(たしか、この2つの課ですごした合計5年は、全課員のうち「法律職」は、新入りの私1人だった)
・・・それが何だって? 私の若いころは、医療費政策や公衆衛生政策のにおいをかぎながらの生活だったこと。そこから、「医療問題」への個人的な関心が持続された。
11/21 二木先生の本を取り上げることにしました。
11/23 この7年間の医療政策のまとめ
12/02 国際比較を踏まえた日本の医療の現状(先生の基本スタンス)
と、これまで3回、読んできました。
【先生が日本の医療に希望を抱く理由】
第1章 第3節 のタイトルは
敢えて「希望を語る」-私の事実認識
となっています。(同書、p15~p23)
この7年間、日本の医療政策は「引き締め」一本で来たのですが
2007年から転換の兆しが見られるので、わずかであれ希望がみえてきた。
【3つの希望】
1 最近の制度改革で評価できることと専門職団体の自己規律が強化されたこと。
→この点は、次の項目でもう一度触れます。
2 マスコミの医療に関する報道姿勢が、医療政策に批判的になってきた。
3 小泉政権時期の医療費抑制策の部分的な手直しが見られる
(安部首相自身のイニシアティブによるものではなく、患者や当事者はやむにやまれず立ち上がった結果の手直し)
医学部定員の削減(1982年、1997年)の見直しの兆候も。
【最近の制度改革と専門職団体の自己規律の強化】
1 医療・経営情報の公開
・カルテ開示
・領収書の発行義務づけ
・医療機関の医療機能の情報公開
2 医療法人制度の改革
・「社会医療法人」の創設による公益性の強化
・基金拠出型法人
3 日本医師会の例
・2005年「自浄作用活性化推進に向けてハンドブック」の刊行
・産科医療無過失補償制度(2007年にも制度化か)
・医療版事故調査委員会(第三者機関)設立の動き
・愛知県医師会や茨城県医師会の自己改革への動き
【次回】
第1章には、「補論」が5本加えられていますが、興味深い論文が多いのですが、ここでは省略して、第2章へ進みます。
第2章は、「後期小泉政権の医療改革」ですが、長いので、節ごとに区切りながら、専門的な部分は省いてポイントを紹介していきます。
【ブログ編集者のエピソード】
19年足らずの厚生省(当時)勤務ですが、霞ヶ関以外(石川県、在ドイツ大使館)が合計7年あまり。残るわずかの期間ですが、課長が技官という部屋に2度いました。それが、「医療課」(保険局。保険医療費の決定)と「防疫課」(公衆衛生局。いまでいう「感染症対策」を担当する部屋)課長が技官(医師)のみならず、課長補佐の筆頭その次と、主な方はみんな技官でした。
(たしか、この2つの課ですごした合計5年は、全課員のうち「法律職」は、新入りの私1人だった)
・・・それが何だって? 私の若いころは、医療費政策や公衆衛生政策のにおいをかぎながらの生活だったこと。そこから、「医療問題」への個人的な関心が持続された。