『老人生活研究』〈月刊)
には大変お世話になりました。
写真は、
2001年1月の第360号で、これをもって休刊となっています。
今では、社会福祉関係の学部のある大学図書館にもあるかどうか。
大阪の、財団法人老人生活研究所というところで刊行されていました。
所長であり、刊行人であった故清水英夫先生は、大阪で特別養護老人ホームの施設長をされ、辞めたあと、介護職の研修を意図してこの雑誌を作られたと聞いています。当初は、昭和45年5月の『老人ホーム』として刊行された。
もちろん、介護福祉士や介護保険のない時代です。
昭和59年に、厚生省〈当時)の老人福祉課長〈当時)をやめて、何か、いまでいう介護専門職の教育のような仕事をしていきたい、と思っていたとき、清水先生からお声をかけていただいた。
公務員の現役の時にはかなわなかった、全国の良心的老人ホームを訪ねる訪問記の企画を相談して、『老人生活研究』に連載していただいた。〈12回)
*この話は、項を改めて紹介する予定です。
〈清水先生が亡くなられて)この最終号には、ちょうど連載中の「随想」の6回目の拙稿が掲載されています。pp.38-39
「21世紀の社会保障」と大きなタイトルですが・・たしかに丁度21世紀になったときですね・・結論は、「国民の目線でわかるような議論をしよう」というものでした。〈北海道の某大学に勤務していたときのことです)
には大変お世話になりました。
写真は、
2001年1月の第360号で、これをもって休刊となっています。
今では、社会福祉関係の学部のある大学図書館にもあるかどうか。
大阪の、財団法人老人生活研究所というところで刊行されていました。
所長であり、刊行人であった故清水英夫先生は、大阪で特別養護老人ホームの施設長をされ、辞めたあと、介護職の研修を意図してこの雑誌を作られたと聞いています。当初は、昭和45年5月の『老人ホーム』として刊行された。
もちろん、介護福祉士や介護保険のない時代です。
昭和59年に、厚生省〈当時)の老人福祉課長〈当時)をやめて、何か、いまでいう介護専門職の教育のような仕事をしていきたい、と思っていたとき、清水先生からお声をかけていただいた。
公務員の現役の時にはかなわなかった、全国の良心的老人ホームを訪ねる訪問記の企画を相談して、『老人生活研究』に連載していただいた。〈12回)
*この話は、項を改めて紹介する予定です。
〈清水先生が亡くなられて)この最終号には、ちょうど連載中の「随想」の6回目の拙稿が掲載されています。pp.38-39
「21世紀の社会保障」と大きなタイトルですが・・たしかに丁度21世紀になったときですね・・結論は、「国民の目線でわかるような議論をしよう」というものでした。〈北海道の某大学に勤務していたときのことです)