某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

武田勝頼自刃の地

2018年03月31日 22時00分00秒 | 史跡めぐり


山梨県甲州市にある「武田勝頼自刃の地」を巡ってきました。

最寄駅はJR中央線の甲斐大和駅。



公共機関を利用する場合、駅前から天目山栖雲寺方面へ行く「甲州市市民バス」が出ていますが、本数が極端に少ないため、訪問の際は注意してください。



コースは、①甲斐大和駅➡②土屋惣蔵片手切➡③景徳院周辺➡④鳥居畑古戦場➡⑤四朗作古戦場➡⑥甲斐大和駅と設定(たぶん、これが一番効率的だと思います)。


AM9時57分甲斐大和駅発の天目行きに乗り、まずは「土屋惣蔵片手切」へ。
下車は「日川渓谷レジャーセンター」です。



土屋惣蔵昌恒は・・・
長篠の戦(1575年)で三重の馬防柵のうち二重目まで突破したところで鉄砲の一斉射撃で戦死した土屋右衛門昌次の弟であり、妻は高天神城で玉砕した岡部元信の娘。勝頼の近習を務め、勝頼に最後の最後まで付き従った忠臣の一人。
           


「土屋惣蔵片手切遺蹟」

時、天正10年(1582)3月3日入城間もない新府城(韮崎市)に火を放ち、岩殿城(大月市)を目指して進んできた武田勝頼一族は岩殿城主・小山田信茂の謀叛により笹子峠でその進路を阻まれた。3月10日、それまで逗留していた笹子峠のふもと駒郷(今の日影)を後にした勝頼一族はすくなくなってしまった家臣を従えて渓谷沿いに田野の郷に入った。あくれば3月11日、この地より先の天目山栖雲寺に向かったが織田・徳川の連合軍に行く手を阻まれ大蔵沢より先に進むことができなくなり田野の郷に引き返した。
     
この時、家臣土屋惣蔵昌恒は主君の危機を救わんと最も崖道の狭い所で岩角に身を隠し片手は藤蔓につかまり、片手には刃を持ち迫りくる敵兵を次々に切っては谷川に蹴落したと伝えられ谷川の水は三日間も血で赤く染まったといわれている。
    
土屋惣蔵の活躍奮闘により武田勝頼主従は田野の郷までもどり従容として自刃したという。数丈の崖、自然の盾のようなこの場所でよせくる敵兵を防ぎたくさんの人を片手で切ったことから「土屋惣蔵片手千人切」といわれている(案内板より)。




続いて、武田勝頼廟所である「景徳院」を目指しました。

「土屋惣蔵片手千人切」から「景徳院」まで徒歩で約30分。
途中、日川の流れを楽しんだり、山々の景色を眺めながら、勝頼一行の逃避行に思いを馳せ、彼の地へ。





「景徳院」

山梨県甲州市にある寺院。曹洞宗寺院で、山号は天童山、本尊は釈迦如来。

天正10年(1582年)3月、甲斐国国主・武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市中田町中條)を放棄し、郡内領主・小山田信茂を頼り落ちのびるが、途中で信茂は離反し、天目山において滅亡した。
同年6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て甲斐は三河国の徳川家康が領する。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は家康に臣従し、同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、景徳院を創建した(ウィキペディアより)。



武田勝頼自刃の地(生害石)。

勝頼の最期については、土屋昌恒の介錯により自害したとも、伊藤伊右衛門永光に討ち取られたとも諸説あり、真相は不明。
天正10年3月11日(1582年4月3日)、享年37歳。




北条夫人 生害石。
北条氏康の6女。名は不明。享年19歳。




武田信勝 生害石。
勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった「楯無(武田家代々の家督の証)」を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。享年16歳。




武田勝頼(中央)、北条夫人(奥)、武田信勝(手前)の墓。

黒髪の乱れたる世ぞ、果てしなき思ひに消ゆる露のたまの緒  北条夫人
朧(おぼろ)なる月のほのかに雲かすみ、晴れて行くへの西の山の端  武田勝頼
あだに見よ。誰もあらしの桜花。咲きちるほどは春の夜の夢  武田信勝

これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。




「没頭地蔵尊」
    
武田勝頼墳墓の西南の山腹に三体の石仏があり、いずれも座像で首がないため、俗に首なし地蔵という。
寺伝に勝頼父子、北条夫人の遺骸を埋めたところと伝わる。




「鳥居畑古戦場」と「四郎作古戦場」。
武田家滅亡最後の激戦地。
     
天正10年(1582年)3月11日、武田勝頼は、景徳院より少し下流にあたる鳥居畑に陣を張った。


     
小宮山内膳は更に100mほど下流の四郎作に陣を構え、四郎作の戦いとなる。
四郎作の武田勢はわずか数人で、織田方の滝川一益、河尻秀隆ら約4000と戦う。
小宮山内膳は奮戦したのち、十数本の矢を受け討死。
      
鳥居畑でも武田勢は奮戦し、勝頼自刃の時を稼いだという。




勝頼に随行した家臣では長坂光堅、土屋昌恒・秋山源三郎兄弟、秋山紀伊守、小宮山友晴、小原下野守・継忠兄弟、大熊朝秀らも戦死。
その後、勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。


「天目山勝頼討死図」(歌川国綱画)

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