ともちの小さなGLOBE

人生は一期一会のLong and winding road。小さな地球儀をめぐる日々をブログにしました。

2009年3月 ロシア:モスクワにて

2009-04-08 22:29:24 | 
先日ロシアより帰国した。
訪れたのはモスクワ


ロシアはグルジア侵攻でロシア株が半額になったところに、経済危機、原油安も手伝って資源外交も思うに任せず、経済も深刻な様相を見せているかと思っていた。
確かに、自動車販売は半分になり、建設ラッシュも鳴りを潜め、建機需要も凍り付いている現実がある。
しかしながらモスクワの道路は自動車で埋まり、かつては物も無かった例えもあるマーケットには物が溢れていた。


写真はかつての国営デパートの中…クレムリンの前の超高級デパートになっている。


モスクワの巨大マーケットを訪ねると、USのウォルマートと全く違わない光景があるから驚きだ。
自国通貨ルーブルよりもドルやユーロの箪笥預金を信頼し、物に変えておくことを大切とする潜在意識。
20年近く前にソビエトが崩壊した時、たくましく生き延びた国民性のなせる業かもしれない。
当時を知るロシア人に聞くと、写真のダーチャと呼ばれる郊外の週末ハウスの農園からの収穫で食を繋いだとも言っている。


モスクワの商店を見ると面白いのが、鰯の群れのように、小さな同じ業種の店が寄り集まってモールのようなコミュニティを形成しているものが多い。
これは、お土産物屋の寄り集まり、スポーツ、アウトドアショップの寄り集まり、ハードウエアショップの寄り集まりなど多種多様だ。
こんなところにも力をあわせて生き残る、彼らなりの術を見出す事が出来る。


一方、モスクワの中心近くは1戸建ては認められていないのに、それが集まっている高級住宅街がある。
聞けば、政府高官の住居との事。「マフィアも住むのか?」と冗談を言えば、「彼らがマフィアだからね」と言う現地スタッフ。
中々、開けた会話で面白かった。
法律を、自分達の都合が良い様に捻じ曲げてしまう事が、この言葉の裏にはある。
いずれにせよ、ロシアで金を得てのし上がる為に、法律の隙間をかいくぐる者が後を経たないが、当局はそれに対抗して、またまた法律を作るため、この国はそのうちに法律で身動きが取れなくなるのかもしれない。
このような背景にもロシアマフィアと呼ばれる人種を生む土壌がある。
ロシアにはマトリューシュカと呼ばれる人形を割っていくと次々と小さな人形が出てくる置物があるが、これは、あたかも一人一人が王を目指すが、その上の王には従っていく社会構図のように見えて仕方なかった。

モスクワでの商売も世界不況の影響は顕著に見られるが、掘り下げるとローンで物が買えなくなったということに尽きる。
ローンの影響をもろに受けるのが中産階級向けの自動車などであるが、逆にピラミッドの頂点の顧客層を相手にする商売はキャッシュ払いが主体である為、大きな影響を受けていない。
今回の経済危機の目に見える要因は、まさにローンに代表される信用経済に大きなブレーキが掛かった事が非常に大きいと感じざるを得ない。

モスクワを歩くと、殆どの女性がスリムな美女ばかりに見える。
太ったおばさん達は余り見る事がないが、現地スタッフは旧体制の人間と揶揄していた。
確かに、年寄りは頭が固い。
ただし、これから我々の相手となるのは、柔軟な思想を持つスマートな新体制の奴等だとすれば、手強いかも知れないが、面白いことになるだろう。

雪解けでぬかるむモスクワ市街には春の訪れと、何としても起き上がろうとする躍動感を感じた。

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2008年2月 中東:UAEにて

2009-04-08 22:11:42 | 
ドバイ…

彼方に見える現在のバベルの塔に例えられる最上階が何階か公にならずに建設されている世界一の高層ビル。

ビルの建設ラッシュに沸くドバイは中東の中でも、一種独特の雰囲気を持つアラブ圏における多国籍国家に変貌している。
オイルマネーを源とする異常発展は驚きと言う他ない。
ショッピングモールの人工スキー場では灼熱の砂漠の中でスノースキーを楽しめる現実がある。

911に端を発したUSとアラブとの軋轢によって、オイルマネーがUSからドバイにシフトした事が、ドバイの発展を2次曲線的に加速している要因の一つである。

歴史を紐解けば、石油収入が無い時期、他の湾岸地域を含めペルシャ湾に面したこの地の民は天然真珠による収入に大きく頼っていたが、日本の御木本幸吉による真珠養殖技術の開発によって、この地の産業は大きな打撃を与えられた。
一方その頃、この国の基本構成は、砂漠を往来するラクダ飼い、真珠を潜って探す実戦部隊、陸上で真珠水揚げを待つ留守番部隊だったところに、イギリスが統治をしやすくするため、常に連絡が付く陸上にいる留守番部隊を統治の主人にしたとも言われている。
そこに石油によるビックマネーと発展が生じたわけで、非常に短期間の間に急激な発展をしている。
クエートの友人がこの事実をやっかんで、「急激に栄えた国は急激に滅ぶ」と言っていたのも意味深だ。
しかし、アラビアンナイトの世界もかくあるものかと彷彿する、煌びやかなドバイの夜を目の当たりにすると発展という言葉すら相応しくない爆発的な鼓動を感じざるを得ない。
慢性的な交通渋滞を緩和すべく、地下鉄導入も進められており、ドバイは完全な機能都市に変貌している。

また、モスレムのシーア派とスンニ派の違いは、キリスト教で言うカトリックとプロテスタントの違いに近いとも例えられるが、アウトドアレジャーに対して、この地ではモスレムの女性も参加しており、厳格なサウジと比べると非常にオープンな空気を感じさせている。
写真は砂漠での4WDツアー


一方、UAEのアブダビがソニーを買おうとしていると言うの、もかつてニュースであったが、これは石油枯渇の次を睨んでいるのも事実だ。
しかし自国の民が働ける環境を創りたいという意識はよくわかるが、この地で働いているのは西アジア諸国からの出稼ぎ者が多いのも事実である。
ドバイで大きく成功した産業としてアルミニウムの精錬会社(DUBAL社)があるが、ここでも出稼ぎ労働者が多くを占め、産業を支えている。
石油の次を睨んだ産業の確立が、この国の大きな課題に他ならない。
サウジ2560億バレルに対しオマーンが50億バレルと言われる残存埋蔵量集計の中でブルネイが最も少なく、10億バレルだ。世界の中で1国でも大きな産油国が無くなった時のクライシスは、オマーンの農場、ドバイの外国企業買収をより先鋭化する形で産油国の産業変化をもたらすイメージをあらためて強く感じざるを得なかった。
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2008年2月 中東:クエートにて

2009-04-08 22:05:23 | 
クエートはイラク侵攻から立ち直り、この地も建設ラッシュに沸いている。
歴史的にメソポタミア文明のイラク、ペルシャ文明のイランという強国にはさまれた湾岸諸国(通常湾岸諸国は今回訪れた5カ国に、バーレーンを加えた6カ国と言われる)は歴史的にも圧迫されて来たのも事実で、現在経済的に逆転している様相を示しているが、実際は近隣のかつての大国であるイランとイラクには非常に神経を尖らせている状況を感じ取る事が出来る。
事実、今回訪れたいずれの国でも、2月4日にイランが宇宙センターを開設しロケットを打ち上げたニュースは大きく受け止めている事も事実であり、危機感と畏怖を持って注視されていた。
また、湾岸諸国は第1次世界大戦でのオスマントルコ帝国の敗北と同時に西側諸国の大きな支配に屈してきた事実もあり、宗教、政治、周辺危機を織り交ぜると複雑な様相を示している。

一方で高級クルーザーの並ぶクエートのマリーナの景色からは、戦争の傷跡を感じることは出来ないのも事実だ。

この国を取り巻く有事に対する軍備増強、そして建設ラッシュ。
砂嵐に煙る風景には哀愁を感じた。


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2008年2月 中東:オマーンにて

2009-04-08 22:03:17 | 
続いて訪れた国はオマーン。
この地でも建設ラッシュに沸いているが、2007年のサイクロン災害の爪あとが痛々しいのも事実。
灌漑設備の乏しい都市ではサイクロン災害は大規模な水害に直結する。
また、石油残量が少ない(サウジ256に対しオマーンが5:単位10億バレル*1)と言われるオマーンが石油脱却事業の一環として郊外での地質改良による農場化を進めている。
*1:BP statistical review of world energy 2003
また、この農場で作られたインゲン豆は工場内で日本語の包装をされ「オマーン産インゲン豆」と表示されて出荷されていた。日本のショッピングセンターでもおそらく目にする事が出来ると思う。
青空の下、畑の中で生のまま食べたインゲン豆はおいしかった。


上述の地質改良によって作られた広大に続くインゲン豆農場を後にしようとすると、そこで働く農民の方から大きな木彫りの仏像を手渡された。仏教徒の日本人ゆえと考えたのであろうが、これからの長旅を考えると有難くもあり辛くもある。真心だけを頂き、オマーンで働く仏教徒のスリランカ人現地スタッフに大切に預かってもらった。

中東貿易の要といて栄えたオマーンの首都マスカットには日本企業も進出している。港に面したオールドマスカットのエキゾチックな小路を歩くと何とも言えない異国情緒を感じた。


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2008年2月 中東:カタールにて

2009-04-08 21:59:21 | 
ストイクトなサウジを後にすると、どの国も華やいで見える。
前回のヨルダンもそうだったが、今回のカタールも華やいだ衣装を着た女性達が街の華やかさを彩っている。

カタールは天然ガスの輸出で有名だが、この地も建設ラッシュに沸いている。

街並は綺麗に整備され、沿海部にはドバイのリゾートのような施設も建設されつつある。
面積的には秋田県に等しい狭い国土ゆえ、都市部の再開発による家屋、商店等の生活基盤の移動は大変なようだ。

首都ドーハには古い町並みを復元させたエキゾチックな街並の中でアンティークや周辺諸国の料理を楽しめる場所もあり、訪れたイラク料理店では、暫し料理に舌鼓をうった。


週末の夕刻になると繁華街にはインド、パキスタン、バングラデシュ、フィリピンなどの国々からの天然ガスプラントで働いている出稼ぎ労働者達が、行く当ても無くどっと繰り出してくる。
一部の商店街には彼らが入る事が出来ない施設も存在している。
しかし、一方で基幹産業の主労働力を彼ら出稼ぎ労働者が支えているのも、この国の紛れも無い事実だ。

また、カタールはオリンピック誘致の候補地として名乗りを上げているが、湾岸諸国では実質的に、1月2月のすごし易い時期を除けば、日中の屋外スポーツは非常に過酷な環境になる事を考えると、もし開催されるとなれば冬季五輪と同じ時期、もしくは初の夜間オリンピックとなるのかもしれない。

夜、カタールの友人が砂漠の中で歓迎の宴を催してくれた。荒野で食べるカバブ料理は絶品。ビール片手に食べたいと思うのは切実な心境だったが、ここはモスレムの国ゆえ、それは御法度。
砂漠の中の男性だけのパーティで、ひとしきり世間話に花が咲いた。

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2008年2月 中東:サウジアラビアにて

2009-04-08 21:54:26 | 
初春に中近東湾岸5カ国(サウジアラビア、カタール、オマーン、クエート、UAE)を訪ねた。

2年前に訪れた時に比べ原油価格の高騰が産油国にどのような影響を及ぼしているのか興味深い。
今回は写真を織り交ぜて、5カ国に分けてレポートしたい。

初めに訪れたサウジアラビアの印象は2年前と大きな変化を感じなかった。
世界最大の産油国のオイルマネーはどこに行ったのか?
驚くべきほど多人数にあたる王族達に回っているとの話も聞くが、中々定かではない。首都リアドの街並の変化からも他の国に比べて建設ラッシュというキーワードは感じることが出来なかった。
しかし、写真にあるように郊外には週末にベドウィンライフを楽しむ為のレクレーショナルとしてのキャンプ施設が立ち並ぶようになっており、庶民の暮らしにも豊かさが浸透しつつある事も感じ取る事が出来る一面もある。

ただし、サウジには華やかさを感じないのは事実だ。マックやケンタッキーなどのUSファーストフード店も数多いし、立派なショッピングモールもあるのに…やはり宗教の厳格さ故の、外で見る黒尽くめの女性の容姿のなせる業かもしれない。

余談だが道中、移動に使ったベンツがオルタネーターベルトとプーリーの破損によって荒地の中でSTOPした。
通常であれば、かなりの重症でパーツが届いて整備交換が終了するまで数日は待たされると思ったが、なんと当日中に全ての部品交換と整備が終了した。砂漠の国でのベンツのアフターサービス体制には驚く事しきりだ。

かつて車が壊れたら道端に捨てられ、廃車が道路脇に点在するとも言われていたが、これは既に過去のものになっている。

立ち寄ったショールームに面白いものを見つけた。

中国製RVのリムジン…内装はブルーの照明にDVDを置いた応接風だが、運転席はマニュアルミッションのシャビーな感は否めない。

召使が運転する故、運転者には快適さは皆無というところか。おそらく、世界一運転席と後部座席の“格差“がある車両だろう。
しかし、リムジンと言えば名の通った車の改造と思い込んでいたが、誰がこのシャビーリムジンを買うのだろう…!?
オイルマネーは、目立たない形でこの国に小金持ちを生み出しているのかもしれない。

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2007年12月 インドシナ:カンボジアにて

2009-04-08 21:35:09 | 
12月初旬、カンボジアを訪れた。

ひさしぶりのアジアだ、夏のインド南部で蚊に刺され、病を患い完治してからも久しい。
いつ来ても西アジア、インドシナは活気に満ちている。
その中でも取り分けカンボジアは、若者の新しい国づくりへの希望を肌で感じる。

また、プノンペンにはロシアンマーケットと呼ばれる巨大な部品市場が存在し、20年前のバイクだろうが走る事が出来る。 写真からもかなり危ない雰囲気がある。


今回訪れたのは、首都プノンペン(Phnom Pengh)を基点にコンポントム「Kampong Thom」シエムリアップ「Siem Reap」、シソポン「Shisophon」、ポイペット「Poipet」、バッタンバン「Battambang」、プルサット「Pursat」コンポンチュナン「Kampong Chnang」のトンレサップ湖をぐるっと回った地域。

カンボジアに入って目につくのは、積極的な日本のODA活動。
日の丸の付いた学校、施設が目につくのは、日本人として嬉しくもあり誇らしくもある。

トンレサップ川に掛かるフレンドシップ橋を渡り、コンポントムへ。

同行した現地スタッフは元UNTACで働いた経験のあるチャンという名の35歳の青年。
道程では路端で売っている蓮の実を食べたりして終始打ち解けた時間を過ごすが、彼にも従兄弟、叔父達をポルポトの虐殺で亡くしたという辛い過去がある。彼自身もジャングルを逃げ回りマラリアを患いながらも一命を取り留めたという。
年寄りが目立たず、二十歳そこそこの若者が多く目立つカンボジアの現実がそこにある。
チャンと食べた蓮の実の味が懐かしい。


カンボジアの高校生の足はバイク。下校時には日本の高校と変わらない賑わいがある。


一方、タイ国境の町ポイペットでは国境にカジノがある風景と2重底の荷押し車が行きかう風景がある。


コンポントムはUNTACボランティアの中田厚仁さんが志半ばにして殺害された地。
彼の名前を多くのカンボジア人が知っている。彼の名をつけた学校もある。ローカルレストランのウエイトレスに聞いても、ジャパニーズのアツと言う答えが返ってきた。
25歳で生涯を閉じた彼の残した言葉にはいつも心をうたれている。

だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、その誰かになりたい。」

Webには彼に関する記載がいくつも残されている。ぜひ一度御覧になることを薦めたい。
カンボジアでは、UNTAC活動中に、警察官の高田晴行さんも尊い命を落としている。
両名の御冥福を心よりお祈りしたい。

郷愁に浸る中でもアンコールワットの夜景は壮言な美しさを見せていた。


クメールルージュを台頭させたカンボジア混乱の歴史を紐解くと、ベトナム戦争の影がある。
ベトナムへの援助を断ち切る為、USが後押し打ち立てたロン・ノル政権は、シアヌークと共に中国から戻ったポルポトとの内戦に終始したが、ベトナム戦争終結と共に中国に後押しされたクメールルージュが実権を掌握する事になる。
ここに、極端な原始共産思想に基づく都市部からの知識人の移送と反乱を恐れる事による大虐殺が行われた。
最終的には、中ソ対立からソ連と親密だったベトナムがカンボジアとの国境紛争の中から介入し、中越戦争を経てポルポトの率いるクメールルージュを一掃したが、その後、ドイモイ路線により旧退化した社会主義からの脱却を図ったベトナムがカンボジアから撤兵し、UNTACによる平和維持活動が開始され、現在に至る大国の思惑により混迷した歴史がある。
しかし、皮肉な事に結果的にクメールルージュからの開放を行ったベトナムを、多くのカンボジア人は嫌っているのも事実で、その背景には領土問題やフランス植民地時代にフランス人がベトナム人を使ってカンボジアを統治した事による反感が今もって根強いようだ。

先に述べたように、カンボジアでは日本のODA活動が目につくし、日本人に対する感情も非常に良い。しかし、日本企業の進出は政府に比べて大きく目立ったものではなく、中国、韓国の企業の進出が目立っている。
プノンペン近郊には経済特区の工業団地も建設されつつあり、訪れる毎に変化を感じ取る事が出来る。

一方、インフラ整備も充実されつつあるが、シエムリアップからシソポンに続く道はODA援助での道路整備が続く砂埃渦巻く悪路。郊外はかなりの悪路が続く。
また、舗装された道路には速度制限らしきものは無く、100km/hを超える猛スピードで車が行き来する。しかし、道路の住み分けは無く、夜間は自転車に乗った学校帰りの子供達が、この道を往来している。
皮肉にも援助で作られる道路整備による車の高速化から交通事故が相次いでいるのも事実だ。
せめて子供達の自転車に反射板をつける援助を行ってあげたいと考えている。

トンレサップ湖の夕暮れには哀愁を感じた。


光と影が交錯するカンボジア。子供達の未来に輝きがあることを切に願いたい。

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2007年2月 西アジア:スリランカ シーギリアにて

2009-04-08 06:11:28 | 
内戦の話題が尽きないスリランカだが、内陸部の美しい景勝地を紹介したい。

訪れたのはスリランカのほぼ中心の内陸部にあるシーギリアと呼ばれる、かつての王の住まい。
この城にも悲しい歴史がある。
父親を暗殺し、王位に付いた王が、異母弟の復讐を恐れ巨大な1枚岩の頂上に宮殿を築いたのがこのシーギリア。
現地の友人ヨハンと一緒に記念撮影:本当に壮大な岩山だ。

岩山の麓にはプールがあり山の頂上との水の循環システムを形成してしていると言う。
麓のプールでは王が美女と戯れていたそうだ。
その美女の写真が下のフレスコ画

宮殿であった岩山を登っていくといたるところに斜面に段を刻んだような歩哨の待機所がある。
歩哨が居眠りをすると落ちるような仕掛けとの事。命がけの居眠りだ。
また、写真の石で支えられた大岩は敵が攻めてきた時に落とす為の物。
かなり強固な守りであった事は間違いない。

シーギリアの頂上から見渡す景色はどこまでも緑が続く壮観な眺め。
しかし、この近くで内戦が行われている事は拭いようの無い事実だ。


素晴らしい自然、人々のいるスリランカ。この国に真の平和が訪れることを願いたい。

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