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続 写真は心

お気に入りの写真に気ままな独り言を書き込んでいるブログです。

江戸城・平河門(平川門)

2014-06-03 | お城・史跡

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この「平河門」は前出の「江戸城を知る・大手門」から左回りに歩いて行くと在る門です。

幕末から明治初期に撮られた古写真には、ボロボロになりながらも存在していた当時の姿そのままに今も在り続けていて、「たかが門、されど門」な門なのです!

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内堀通りから、この木橋を渡ると、

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右手に「高麗門」があるのですが、当時は閉門時間がそれは厳しくて、「三代将軍家光公」の乳母であった、あの「春日局」が時間に遅れ入れてもらえず、この門前で一夜を明かしたとの言い伝えは有名です。

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これをくぐると桝形に入ります。

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桝形内から振り返って見た高麗門です。

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桝形左手には、美しく積まれた石垣の「櫓門」が堂々と建っています。
この櫓門の右端に小さめの門が造られています。

この平河門は「本丸」からは北東に位置し、「鬼門」に建っています。
その為か、城内で死人や病人あるいは罪人が出た時には、それらの人を城外に出す、この特別な門が造られ「不浄門」(帯曲輪門)と呼ばれました。

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「松の廊下」で刃傷沙汰を起こした「浅野内匠頭」もここから出され、即日切腹させられたとの事です。

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桝形から城内へ入って見た櫓門です。
その左端には、「不浄門」(帯曲輪門)が松の枝葉に隠れるように見えています。

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更にその左方に、「竹橋門」へとつづく堤防のような「帯曲輪」が

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まるで松林のようになっているのが見えます。

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江戸城・乾通り 1」の富士見櫓のところでも書きましたが、櫓などの手前の木々が成長しすぎていて全体が見えなくなってしまっている事と、台風や大雪などで倒れて櫓を損傷しないともかぎりませんよね?!
若木に更新するか、低木に植え替えるか、出来ませんですかね~!

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航空写真だと位置関係が分かりやすいですね!

つづく


運動会

2014-05-31 | まち歩き

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真夏のような今日、炎天下にもめげず娘の運動会を見に行ってきました。
娘に嫌がられるので、声援を押さえつつ日光浴を楽しんでしまいました。

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暑かったけど良い天気でよかったです!


関宿城

2014-05-19 | お城・史跡

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先週末に千葉県・野田市北部にある「関宿城」に行ってきました。

関宿は昔からよく知っていた処でしたが、歴史は殆んど知らないまま現在に至っていました。
今回、この「千葉県立関宿城博物館」へ行って見て、色々な事(治水に難航した事など)を知る事が出来て本当に良かったです。

そもそも「関宿藩」があった事自体知らず、不勉強を恥じました。

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この天守は

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と、ありクーお気に入りの「江戸城・富士見櫓」似の当時の「御三階櫓」を外観再現した博物館になっています。

しかし、当時の城郭部の殆んどは上写真の説明板のとおり、廃藩後の明治期以降に大規模な河川改修工事により、堤防の下に埋没してしまいました。

したがって位置的には、当時何も無かった北東部に建てられています。

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雰囲気は、まるで本物風な門や本丸建築群。

本物の当時の遺構は、「新御殿、埋門(うずみもん)、薬醫門」があちこちに移築されて現存しています。
そのうちの「新御殿」は近くの「実相寺」に客殿として今も使用されています。

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実相寺の山門(中雀門)、その戸板には

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紋が彫って有り、門の右手には

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鐘楼堂が、そしてその奥には

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「関宿城の新御殿」が現存していました。

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と言う事で、歴史を実感できるお寺ですね!

埋門、薬醫門は学芸員の方に聞いたのですが、詳しい場所などが良く分からないようで、今回は行けませんでした。

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次回は、城下に残されている遺跡などを見に行きたいと思います。

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ひとつだけ、この「鬼門除け稲荷」には行きましたよ!

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これも関宿城内にあったと言ってよい遺構ですね!

関宿城は、佐倉城、忍城などとともに江戸城を守る重要な外城(支城?)になっていたとの事でした。
そんなに重要なお城だったとは・・・知って良かった!

また、行ってない処を見に行かなくちゃって思っています。


久留里城

2014-04-19 | お城・史跡

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前回の大多喜城のあと、房総の山道を急ぎ此の「久留里城」に行きました。

この城が歴史に出てきたのは、戦国期なかごろからこの地域に勢力を伸ばした「里見義堯(さとみよしたか)」の代からで、この頃敵対勢力となった北条氏と攻防をくりひろげた場となったそうです。

天正十八年に徳川家康が江戸に入ると、外様大名の里見氏は安房一国のみ領有とされ、この城は徳川譜代大名の「大須賀氏」が入り、近世の久留里城の歴史が始まりました。
明治に廃城にされた時には「黒田氏」が治めていたと言う事です。

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駐車場に着いた時には4時近くになってしまったのですが、急ぎ天守に向かって登っていきました。ここは「山城」なので坂がけっこうきつかったです!
駐車場からは、人工的に造られた「堀切」が道路になっていて、登りやすくはなっていましたが・・・。

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この山は痩せ尾根が細長く連なっていて、曲輪(廓)の殆んどは小規模にならざるを得ない地形です。

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途中綺麗に咲いていたツツジの花

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天守真下の天神曲輪、トイレが建っていました。

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その天神曲輪から更に、この階段を登りきった所に

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「模擬天守」が・・・
2月の大雪で瓦が落ちたりして、修理中で入れませんでした。
本当に有った天守は

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模擬天守の隣りの土塁に建っていたと言う事です。

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天守下の二の丸には資料館(右の建て物)がありますが

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時間が過ぎて閉館していました。
今度早くきて見たいと思いました。

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駐車場へ戻るコースを、堀切ではなく尾根伝いに変えて下りていくと、こんな木々に囲まれた小道になっていて、途中には

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倉庫などがあった跡がありました。
山城の造りが良く分かって、ここを歩いて良かったです。

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中世、北条氏に幾度も攻められながら、ついに落ちなかった難攻不落のお城だったそうです。


大多喜城

2014-04-16 | お城・史跡

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これは千葉県の夷隅郡・大多喜町にある大多喜城(千葉県立中央博物館・大多喜城分館)です。
ちょうど満開の桜が迎えてくれましたが、どんよりとした花曇りで、たまに薄日が差す天気でした。人出も殆んど無くのんびり観て回れました。

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駐車場の入口にある石碑
ここから「平山城」らしく緩やかに登って行きます。

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この看板から右上はこんな

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「空濠」が造られています。

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天守の手前にあった「二の丸公園」、写真の右奥が階段で、登った所が「曲輪」でした。

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あるのは鐘楼と休憩所だけで、当時の面影は見出せませんでした。

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本丸のこの三重櫓天守と附櫓は、近世の徳川時代に家康の重臣「本多忠勝」が10万石で入城し、近世城郭として整備(呼び名も大多喜と変更)されたときの城を再現し中を博物館としたものです。
それ以前の中世には天守は無く、城名も「小田喜城」と呼ばれていたそうです。

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復興天守の多くが、このような鉄筋コンクリート造りの博物館や展示館にされているのは、寂しい感じがするのはクーだけではないようですが、創建当時のままに木造で再建するのは木材確保や維持など大変なのでしょうね!
また、当時の設計図などがないと忠実に復元できませんからね!

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3階に展示されていた、当時のジオラマ。
写真では、天守の真上に「夷隅川」、そのすぐ左の広場には「御殿」が建っていましたが、現在は「県立大多喜高校」の校舎が建っています。
大多喜高校には、当時の「大井戸跡」や移築された「薬醫門」が現存しています。

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これがお城には珍しい、規模の大きな井戸です。
校舎のすぐ脇にドーンとあって圧巻!
いちばん上の写真は、この傍からこちら側を撮ったものです。

ここで写真を撮っていたら、ここの生徒さん達数人から「こんにちはー!」と挨拶され、驚いたのと感心したのとで、「この高校は教育が出来ているなぁ!」って嬉しくなってしまいました!
勿論クーも「はい!こんにちは!」って挨拶し返しましたよ!

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これが当時の「薬醫門」、風格ありますね!

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・・・と言う事です。

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大多喜城天守、側面からの姿。

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3階の窓から附櫓を見下ろした景色。
ジオラマ以外の展示品は撮影禁止になっていますが、ネットで検索すると見られますよ!

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今回、この「図説、房総の城郭」の「大多喜城跡」を参照させていただきました。
千葉県内に、こんなに多くのお城があったとは驚きでした。

つづく


大内宿と塔のへつり

2014-04-11 | お城・史跡

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UPが遅れましたが、3月下旬に福島県南会津郡下郷町にある「大内宿」と、帰りに「塔のへつり」へ行ってきました。

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一番上の写真は、この山にちょっと登って撮ったものです。

江戸時代の「大内宿」は、会津若松と日光を結ぶ会津西街道の宿場町として整備されたそうです。

また、村の伝説では、全盛期の平清盛に反旗を翻した高倉以仁王(後白河天皇第二皇子)が戦に敗れ、この村に身を隠したと言い伝えられ、代々語り継がれているのだそうです。

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これは、「大内宿街並み展示館」(かつての問屋本陣跡)です。

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・・・と言う事です。

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現在では、一軒々其々のお店になっていて、時間があればゆっくり見て廻りたかったです。

今度は夏に来て見たいと思いました。


「搭のへつり」へ行く為に、お蕎麦を頂いてすぐ引き揚げました。

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大昔は此処は海辺だったそうで、波の浸食で面白い景色が出来上がりました。

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以前は、浸食で出来た凹みに沿って遊歩道になっていたようですが、

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今は、ほんのちょっと行けるだけです。

こんな山奥で海の浸食痕に接する事が出来るなんて
ちょっと変な気分でした。

でも、面白かったですよ!

あと、吊り橋の手前のお土産屋さんのお兄さんが面白くて、サービスが良く、ついお茶してしまいました!


江戸城・乾通り 3

2014-04-10 | お城・史跡

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本来の乾通り入場の目的は・・・これでした。
満開は過ぎていましたが、なかなか綺麗な桜を観賞することができました。

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一方通行の左側の建物。
江戸時代の紅葉山の御蔵があったあたりでしょうか!?

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その先に、本丸へ入る「西桔橋門(にしはねばしもん)」があります。
現在は橋があるだけですが。

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あの坂を上って行くと、本丸の此処(柚木門)へ出ます。
すぐ後ろは天守閣の大きな石垣が迫っています

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そこを通り過ぎ(振り返って撮った写真です)、すこし行くと

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「北桔橋門(きたはねばしもん)」の橋が見えてきました。
この景色も今回初めて見る事が出来ましたので、嬉しかったですね!

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そして出口の「乾門」が見えてきてしまいました。
この乾門、江戸時代にはここには無く、「西の丸の裏門(坂下門から入ってすぐ左側)」としてありました。
明治期に、皇居の門として移築されたものです。

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これで今回の乾通り通り抜けは終了です。
行ってよかったぁ!


江戸城・乾通り 2

2014-04-09 | お城・史跡

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長蛇の列で皇居前広場をぐるぐる回されて、身体検査をパスしてやっと写真の何時もは入れない「坂下門」へ!

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坂下門をくぐってびっくり!
天井(櫓門の床木)や柱が黒光りしているではありませんか!おそらく、黒漆が塗られているのでしょう。
江戸時代からそうなのか、皇居となってから塗られたのか?解りませんですが・・・。

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後から知ったのですが、この日は天皇陛下ご夫妻が我々の様子をご覧になっていらしたとの事!窓にお写りになられていらっしゃらないかと写真をチェックしてしまいました。

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富士見櫓を撮ったあと、もう一つ絶対に撮りたかった此の「富士見多門」を、やはり石垣上に見る事が出来て嬉しくてたまりませんでした!

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本丸側からだと、こんなただの倉っていう感じでしたから、念願が叶って本当に良かったです!

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石垣の下は「蓮池濠」で遮るものがなく、完璧に見えて写せました。

つづく


江戸城・乾通り 1

2014-04-08 | お城・史跡

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皇居(旧江戸城)の乾通り(坂下門から乾門まで)が、初めて桜鑑賞の為に一般人の入場が許可され、日本中から観てみたい人達であふれ返りました。

勿論クーも初日に午後1時40分頃行きましたが、DJポリス風お巡りさんが拡声器で「本日の入場は終わりましたぁ!」と大声で連呼していて、大勢の人の波のあちこちから「えぇ~~!?」っと声があがっていました。

絶対に撮りたい場所があったので、昨日また午前中早くに行ってきました。
第一に、上の写真のように「富士見櫓」を石垣上で撮りたかったのです。
本丸から見る富士見櫓は、月・金曜日を除けばいつでも撮れますが、

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この様に石垣が見えませんので、ただの三重櫓っていう感じになってしまい、お城感に欠ける感じがして物足りなかったのです。

やっぱり「お城」はこんなふうに

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石垣上に建っているのが良いのです!

この場所から右側(桔梗門方面)には近づけなかったのが唯一残念でしたが、とにかくも石垣上の富士見櫓を見られて非常に満足したのでした。
やっぱりこうでなくちゃね!

それでも、我がままを言わせて頂ければ、せめて手前のと内堀通り側の松の木などを全部、石垣の3分の1程の低さの若木に植え替えて頂けたならば、最高なのですがね~!

つづく


筑波海軍航空隊記念館

2014-03-20 | お城・史跡

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百田尚樹氏の作品、映画「永遠の0」公開記念として
映画の中で撮影され、また実際に、此処から特攻の為にフィリピンや鹿児島県の鹿屋基地などに派遣され、出撃して逝った若き飛行士達の訓練を行った、この「筑波海軍航空隊」の司令部庁舎(現在は記念館)に昨日行ってきました。

上の写真は、一階の「笠間アンテナショップ(お土産屋さん)」の奥に飾ってあった幕です。

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ほぼ第二次大戦の当時のままに、外観も内部も保存されている貴重な建物です。

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玄関脇の立て看板

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今も残る「号令台」、この前には整列した兵士達が・・・
目に見えるようです。

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一階から二階へのがっちりした階段。
宮部が上官に殴られ、顏を腫らしてここを登ってきましたね!

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宮部が自分の後を託す事になる青年を見舞う病院。

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この廊下を歩いた人達の、その後の人生は・・・?
生き残った人達は、どう生きたのでしょう。

ところで、「永遠の0」を観に行った時の事です
映画が終わってロビーで耳に入った事が、
「宮部はどうしてあんなに生きて帰る事に執着していたのに、自ら特攻に志願したのかな?」と。
そう、確かに!

話し合っていた若い女性達にクーは、こう言いたかった
「自分だけが生きて帰って、本当に後の人生を幸せに送れるのか?自分が飛行を教えた若い未来のある若者達が、戦う事もなく、ただ死ぬためにだけ毎日飛び立っていくのを、宮部は正常な神経で眺めてはいられなくなってしまったのだ」と。
自分が逝く事で、その苦悩から逃れたかったのかもしれませんね!?

特攻とは、そんなにも異常な状況をつくりだしてしまう事だったのですね。

某有名な監督さんらが「作りごとで嘘八百」だのなんだのと仰せのようですが、そもそもこの作品は小説でありドキュメントそのものではないですよね!?
しかし、かなりの部分事実に即しているとクーは思っています。

戦争賛美などではなく、戦争の(特に特攻の)悲惨さを、もし自分があの当時に生まれてしまっていたら、どう生きたか、どう死んだかを、真剣に考えさせてくれる作品だと感動しています。あの時代は、そのまま今現在の時間に繋がっていて、けっして遠いただの昔話ではないのですから!


しかし

最近の世界情勢を見ていると、戦争は勿論してはいけませんが、自国だけが「平和主義です」と言ってみても、戦争にならない保障にはならない事を知らなければなりませんね!

うかうかしていると、我が国の島々も、どこぞの国にアッと言う間に併合されかねませんからね。

「備えあれば憂いなし」は、間違えありません!