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私の本棚

将来の夢は自分専用の図書館をもつこと。大好きな本に囲まれて暮らしたい。

生まれた時からアルデンテ  平野紗季子

2014-06-30 17:25:26 | いまの本棚
今にして思えば、私の中学・高校時代は、あらゆるセンスの言語のシャワーだった。
わけわかんない堅い本や新書や古典文学や翻訳文学もライトノベルも読んだし、小学校の頃から国語の教科書の文章はわりと読むほうだったし
なにより友人たちの語彙とセンスが良かった。
笑いを取るための言葉の選び方、重ね方。
ウィットとユーモアに富んだ会話の数々。
私は語彙ばかりは豊富だったけれども、なにしろオリジナリティに欠けた人間なので、
彼女たちの驚くべき表現力と、切り取られた言葉のおかしさに、抱腹絶倒の毎日だった。

残念ながら、今では素敵な語彙を持ち合わせている友人はせいぜい2人ほどしかいないし(そもそも私は友人が少ないので分母が小さい/自分のセンスの欠如は当然棚に挙げている)
悪口を言いたいわけではないけれども、騒々しい男性陣が取る笑いもつまらないわけではないけれども(おそろしくつまらない、だけに留まらず不愉快であることも当然、あります)だいたいがセンスはいまいち。
センスで訴えるというよりも、ちょっと暴力的なくらいの勢いで笑わせようとしてくる姿勢が気に入りません。

先日、中学・高校時代の同級生が「人間関係の焼き畑農業」という表現をしたときには、愛の告白をしそうになった。感動のあまり。

そんなふうに、センスの良い文章から遠ざかっていた私の枯渇が、ゲリラ豪雨のごとき充ち満ちた出会いを得る。
平野紗季子。
彼女のブログ(http://fatale.honeyee.com/blog/shirano/)にすっかりやられてしまって、当然バックナンバーは全て読んだ。(ブログ中に登場していた森茉莉の「貧乏サヴァラン」も買った。)
この本はそのブログを抜粋して書籍化したもの。
ずっと我慢していてようやく手に入れた(プレゼントしていただきました)。
生きててよかった、の瞬間である。
食を体験するということの、果てしなさ。
マカロンを手で潰しちゃうとか、食べ物の破壊の瞬間であるとか、食パンに顔埋めたいとか、
内包された膨大なエネルギーと、それを的確に表現する言葉のチョイス、一緒に体験しているような生々しさ鮮烈さ、いっそ官能的。
おいしい文章の嵐、なにそれ!!の連続。
読むと「分かる分かる」って言いたくなるんだけれども、既に圧倒的に先んじられている。
私の感性は後追いをするばかり。くやしい。
脱帽いたしました。
もとより足下にも及ばないのは承知でも、言いたくなる「脱帽です」。
万が一ご本人に会うことがあったら、「いつもブログ読んでます、本も持ってます、大好きです、これからも頑張って下さい」くらいの凡庸なつまらないことしか言えないんだろうなあと思うと、がっかりだけれども。
この本(この方)の素晴らしさをぜんぜん表現できない私は圧倒的負け犬だけれども(もとから表現したいわけではなくて、言い散らしたいだけだったりする)
せめてこの素敵さを見いだしたという点では褒めてあげたい。

ごちそうさまでした。



キッチン  吉本ばなな

2014-06-26 23:19:26 | いまの本棚
読書を続けていると、たまに、
はじめに読んだときにはさっぱり分からなかった小説のことが、手に取るように分かる瞬間が降ってくることがある。
平坦な道を歩いていたはずなのに、ふと一歩踏み出すと山の頂上の見晴らしだったというような瞬間。
はっきりと覚えているのは川端康成の「伊豆の踊り子」で、たしかそれが降ってきたのは受験を控えた高校三年生の時だったように思う。
遠くから踊り子を見つめている学生が、今自分の中にいる、ときりきり感じた。
先日またその瞬間があって、それが吉本ばななの「幽霊の家」(『デッドエンドの思い出』のなかの短編のひとつ)だった。
あの小説の世界が、消しゴムほどの大きさのジオラマのようにきちんと美しく私の中におさまって、私はその世界をすみずみまで知っている、と思った。
私の中に小説がすっぽり入り込んだような、私自身がすとんと小説の中に入りこんだような、何重にも入れ子になった奇妙な世界だった。
その勢いのままこの本を読んだ。

あらすじに全然覚えがなかったので、中学生のころ私がちらっと読んで苦手に思っていたのは本作ではなく、「TSUGUMI」だったのかもしれない。
あるいは、もしかしたら「TSUGUMI」でなく本作を先に読んでいたら、吉本ばななへの認識は変わっていたかもしれない。
吉本ばななが好きな友人がいたけれども、彼女の中にはこんな景色があったんだな。
今はほとんどFacebookでしか動静を知ることがないけれども、今更になって彼女のことをまた知ることになる。

私は今も昔も感情的で、感情にまかせて物事を突き詰めて考えるのが好きで、なおかつ頑固なので、ふわりとした優しいお話を苦手とする傾向がある。
覇気のある主人公がぐいぐい進んでいくお話が好きだった。
あたりまえのことをもっともらしく語られるのは馬鹿っぽくしらじらしくて嫌いだし、そういうことは心に秘めていてこそ美しいと思っている。
だから吉本ばななが苦手だったんだろうな、と今になると分かる。
優しくて、けなげな小説である。
そして弱さと孤独を残酷なほど正確に描ききった小説だと思った。
喪失感をこんなにつぶさに描いた小説は、あまり読んだことがない。

私はほとんど身内の死に直面したことがないのだけれども(なにしろ祖父母が4人とも健在である)、それでも昔よりはいくらか人の死について知った。
おそろしい事件や辛い病気の話を聞くたびに、自分あるいは自分の身近な人間の死、への恐れが年々リアルに、強くなっている。
あわてて考えに蓋をせずにはいられないほど、みじめな想像である。
その日が来るのが可能な限り遅くあってほしいとねがいながら、何事もないように生活している人間には、ちょっとこたえる読書だった。
この作品が実体験に基づいたものだとしたら(間違いなく、何らかの形では実体験であるはずだ)、よく書けたものだと思う。
お守りとして本棚に置いておきたい本であるけれども、その一方で、もし私が親しい誰かを亡くしたらある程度立ち直ってからでないとこの作品は読めないだろうな、と感じた。

次に続くものがなにもないと思いながら、時間が流れていく。
当たり前なのに、こんなに悲しい。
人生って、辛いんだ。
人生って、悲しいことばっかりだ。
なんで生きていなければいけないのか、なんていう問いを発するでもなく、ただ流れる時間を悼むこと。
光ったり暗くなったりしながら、昼や夜のなかを歩いて行くということ。
作品の中にあった、透き通っていくという表現が一番しっくりくるんだろうな。
なんとなく、ようやく、吉本ばななの書きたい世界の奥のところが、私にも分かってきたような気がしている。




旅のラゴス  筒井康隆

2014-06-21 19:42:57 | いまの本棚
ずいぶん久しぶりに本を読んだ気持ちでいたけれども、一週間少ししか間は空いていなかった。
長い一週間だったのかな。
さらりと読めてしまって、それ以上の感想はいまいち出てこない。
一般的な評価はえらく高いようで読んで見たのだけれど…
やっぱりSFとは相性悪いのかもしれない。たぶん、SFに秘められた寓意を楽しめるセンスに欠けているのだろう。
気分転換にはなった。


猫を抱いて象と泳ぐ  小川洋子

2014-06-12 21:27:41 | いまの本棚
久しぶりに小川洋子を新しく読む。
気持ちに余裕がないせいか読み飛ばしがちできちんと味わうことができなかった気がする。
小川洋子って情報量が多くて読むのに気力がいるのを忘れていた。もったいないことをした。
そして意外なことに、いしいしんじの作品かと思うような感触があった。
きっと、お話の荒唐無稽さと美しさ、底に流れる諦念のようなものと悲しさが共通しているのだ。
昔、小川洋子をよく読んでいたころには、いしいしんじはほとんど読んだことがなかったので気付かなかったのだろう。
それに、小川洋子の作品の中でも、このお話の手触りはちょっと異色だという気がする。

本作に登場するチェス然り、「博士の愛した数式」然り、数式的な世界の秩序・美しさに対する作者の強い憧れ、探求心がよく分かる。
(その点に関していえば、いしいしんじの方がずっと混沌としていて原始的な真理を追究しているように思う。)
あと、標本とか古びた機械とか、甘いお菓子とか、排水溝に絡まる髪の毛とか野菜の屑とか、大好きだよねって笑
変質的なこだわりを描き続ける作家は好き。(もちろん、そのこだわりに共感できる範囲内でしか読めないけれど)
こうした作家の手にかかると、どんなに痛々しいこともなんだか幸せな顛末のように読めてしまって、おかしな気分。
成長することを恐れるあまり体の成長が止まり、狭い箱に入るために関節がそこにぴったりになってしまうなんて、どう考えても悲劇的なのに。
それを「仕方ない」「ちっとも気にならない」なんて。

小川洋子に関していえば、「ホテルアイリス」を読めばわかる通り、マゾヒズム(ただ性的なニュアンスは弱い、より精神的な意味で)との親和性が非常に高い作家なので、それほど驚くことではないけれども、痛い描写が多いよなあ。
失う、ということを常に追求する作家であり、
そして一体何を失うかといったら、ものやひとというよりも「機能」を失うことに主眼をおいている、ていうことに今気付いた。
声、手、タイプライター、関節、なんかの(たぶんそのつもりで読めばもっとたくさん出てくるはず)
あ、「博士の愛した数式」の記憶障害なんかもそうだよな。
形はあるのに機能は失われているということ。
必要がないからといって退化していく、からだの機能。
小川洋子がそれを描くとき、主人公はほとんどそれを悼まず悲しまず、むしろ幸福や安寧の象徴として描かれている。
それってどういうことなんだろう。
人生は結局、流れていくところにおさまるべきなのだ、ということなのか。難しい。
また小川洋子を読むときに考えよう。

それにしても思うのは、
世界ってこんなに美しくてまっすぐだったかなあ、ということ。
物語の中よりずっと複雑で面倒くさい(少なくとも表面上は)生活をしていて、ちっともこんな生きている実感のようなものは得られず、
ふわふわ毎日迷ってばかりの不安な私を、どうしたらいいのか。
こんな素敵な物語を、きちんと味わうこともできない私を。
この気持ちこそが、筆者が追求しているものだったり、と思ったりもするのだ。



父・こんなこと  幸田文

2014-06-07 20:44:25 | いまの本棚
幸田文も読むのは4冊目。
父・幸田露伴との日常からその晩年の看病を綴った代表的な作品だったのだけれど、正直言って難しかった。
知らない言葉も多く、背景も分からないことが多かった。
幸田露伴に私がそれほど興味がないからかもしれないけれども、小説のほうが好きだな・・・・

それでも、幸田文の小説の底に流れる生活に対する眼差しの根源を知ることはできた。
塩谷賛の解説にある、「この人は文学の人ではなく生活の人なのである。」という言葉はまさにぴったり。
身に沁みた言葉の使い方や、「台所のおと」のような看病をする人間のじりじりする苦しさを体得したのも、
予想はしていたけれどこういう経緯だったのだなあと知った。
少し特殊な父と子の関係。
私が経験した父と子の関係とは当然ながら全然違っていて、ふしぎな感じだ。
必ずしも和気藹々でない、どちらかといえば反発やいじけた思いの強い親子だけれど、
それはそれで一つの親子として、悲喜こもごもの逃げ出せない日常が伺える。
この時代に妻に先立たれた露伴の苦労もいかばかりかと思う。

でもやっぱり物語の方が生き生きとしていて好きだな。
「きもの」が私の中では傑作。

面白かったのは幸田露伴から娘への性教育を綴った場面で、ユーモラスで良かった。