Amazonで見かけて即購入(中古で)。
本来的には本屋さんや図書館が大好きだけれども、
Amazonの良いところはあなたにお勧めの商品といって並べてくれたり、書名のすぐ下に☆で評価がついているので、自分ではなかなか気づかないだろう良い本を拾い上げることができる点。
いろんな人のレビューをつらつら読むのも好き。
夫婦そろって歌人であった筆者らが、その馴れ初めの頃から、乳がんを患った妻の死までの間に紡いだ短歌とエッセイを集めた本。
河野裕子の短歌は、以前読んだ俵万智の本に出て来ていたので、知っているものがいくつかあった。
タイトルにもなっている、「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」など。
ああ、そういう状況での歌だったのか、という思いに、いっそうこの歌が愛おしくなる。
全体を通して、夫婦、家族、というものについて考え続けた。
恋人になる前から、恋人になり、夫婦になり、子をなし、老いて死ぬ。
そんな二人の道のりを生々しい短歌でたどるのは、決して事細かな記述があるわけでなくとも、古い映画のように鮮やかでしみじみとしている。
どだい回想やエッセイというものは得てしてそれが過ぎ去ってから思い返して書かれるものなのだから、リアルタイムでなくて当たり前。
それを、当時瞬間につくられた短歌を織り交ぜることによって、そのときの香りがふいに鮮烈に立ち上る仕掛けになっている。
そういう生々しさが、他のどのようなエッセイにも見られない生気をこの本に与えている。
(自分の若いころの作品を振り返るなんて、かなり気力のいる作業だと思うのだが)
恋人時代の歌がどれも若々しくて印象深い。あらあらしさも若さと思えばどこまでも輝かしい。
夫婦になってからの歌は一層の激しさ、強さをもって胸にせまった。
まだ私は夫婦というものをしらない。(私の両親を見ても、親というものはやはりどことなく子供からか見ると謎の多いもので、まして私は両親から馴れ初めや若かりしころのエピソードをほとんど聞いたことがない)
夫婦って……!夫婦って……!
なんなんだろう。
この歌人夫婦は、非常に仲の良い夫婦だったようだけれども、一方で諍うときは激しかったようで、夫婦ってそういうものなのか。
近くて遠くてにくらしくいとおしい。
私にとってはまだまだの領域。
どんどん深く、どんどん潜っていって、どろどろと形なくとけていく。
ひとと生きていくのってたいへんだ。
その一方で、絶えず表現を続ける人種であるゆえか、相手や、相手に対峙している自分に対する視点がすっと突き放していて客観的である。
自分の激情を歌にするときでさえ、頭のどこかで観察しているふう。
子どもに対する視点もそうで、夫と息子の語らいのエピソードを河野裕子が綴った部分など、心底いいなぁと思う雰囲気があった。
詩にはまった時期を経て、今度は短歌に触れたわけだけれども、
短歌となるとなかなか難しい言葉が登場することも多い。
言葉の意味がわからない体験なんて今はなかなかないもの。
少ない字数で多くを表現する手法ゆえなのだろうか。
抑制した表現と短い語数でむしろその生々しさが際立つのが不思議。
亡くなる直前と歌にはさすがに痛ましさ、やりきれなさが満ちているのだけれども
ただの痛ましさで終わらないのは、作品として完成されているからなのだと思う。
夫婦が二人同時に死ぬということが考えられない以上、どちらかがどちらを看取る流れになるのは当然だけれども、
夫(妻)を看取るというのはどういうものなのだろうと考えずにはいられなかった。
「『私が死んだらあなたは風呂で溺死する』そうだろうきっと酒に溺れて」 永田和宏
生きるというのはあまりに長い、けれど過ぎてみれば短い時間なのだろう。
その、本書でいう40年の時間をひとりと連れ添うというのは、
なんとも混沌としたさまざまの日々の寄せ集めのようだ。
この本を買おうと思ったきっかけの一つに、接した患者さんの苦しそうな様子に近づけず、
その心に少しでも近づきたいという思いからだったのだけれども
その当初の思いは果たされたのかというと甚だ疑問である
なにがしかの啓示を得ることができたとすれば、
それは耐えがたい苦痛と、最期の瞬間まで揺れて動き続ける心のさまと、
それを受けとめようとする家族の悲痛さであって、
せめてその心のありようを私が決めつけるようなことはすまいという
小さな決意だった。
本来的には本屋さんや図書館が大好きだけれども、
Amazonの良いところはあなたにお勧めの商品といって並べてくれたり、書名のすぐ下に☆で評価がついているので、自分ではなかなか気づかないだろう良い本を拾い上げることができる点。
いろんな人のレビューをつらつら読むのも好き。
夫婦そろって歌人であった筆者らが、その馴れ初めの頃から、乳がんを患った妻の死までの間に紡いだ短歌とエッセイを集めた本。
河野裕子の短歌は、以前読んだ俵万智の本に出て来ていたので、知っているものがいくつかあった。
タイトルにもなっている、「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」など。
ああ、そういう状況での歌だったのか、という思いに、いっそうこの歌が愛おしくなる。
全体を通して、夫婦、家族、というものについて考え続けた。
恋人になる前から、恋人になり、夫婦になり、子をなし、老いて死ぬ。
そんな二人の道のりを生々しい短歌でたどるのは、決して事細かな記述があるわけでなくとも、古い映画のように鮮やかでしみじみとしている。
どだい回想やエッセイというものは得てしてそれが過ぎ去ってから思い返して書かれるものなのだから、リアルタイムでなくて当たり前。
それを、当時瞬間につくられた短歌を織り交ぜることによって、そのときの香りがふいに鮮烈に立ち上る仕掛けになっている。
そういう生々しさが、他のどのようなエッセイにも見られない生気をこの本に与えている。
(自分の若いころの作品を振り返るなんて、かなり気力のいる作業だと思うのだが)
恋人時代の歌がどれも若々しくて印象深い。あらあらしさも若さと思えばどこまでも輝かしい。
夫婦になってからの歌は一層の激しさ、強さをもって胸にせまった。
まだ私は夫婦というものをしらない。(私の両親を見ても、親というものはやはりどことなく子供からか見ると謎の多いもので、まして私は両親から馴れ初めや若かりしころのエピソードをほとんど聞いたことがない)
夫婦って……!夫婦って……!
なんなんだろう。
この歌人夫婦は、非常に仲の良い夫婦だったようだけれども、一方で諍うときは激しかったようで、夫婦ってそういうものなのか。
近くて遠くてにくらしくいとおしい。
私にとってはまだまだの領域。
どんどん深く、どんどん潜っていって、どろどろと形なくとけていく。
ひとと生きていくのってたいへんだ。
その一方で、絶えず表現を続ける人種であるゆえか、相手や、相手に対峙している自分に対する視点がすっと突き放していて客観的である。
自分の激情を歌にするときでさえ、頭のどこかで観察しているふう。
子どもに対する視点もそうで、夫と息子の語らいのエピソードを河野裕子が綴った部分など、心底いいなぁと思う雰囲気があった。
詩にはまった時期を経て、今度は短歌に触れたわけだけれども、
短歌となるとなかなか難しい言葉が登場することも多い。
言葉の意味がわからない体験なんて今はなかなかないもの。
少ない字数で多くを表現する手法ゆえなのだろうか。
抑制した表現と短い語数でむしろその生々しさが際立つのが不思議。
亡くなる直前と歌にはさすがに痛ましさ、やりきれなさが満ちているのだけれども
ただの痛ましさで終わらないのは、作品として完成されているからなのだと思う。
夫婦が二人同時に死ぬということが考えられない以上、どちらかがどちらを看取る流れになるのは当然だけれども、
夫(妻)を看取るというのはどういうものなのだろうと考えずにはいられなかった。
「『私が死んだらあなたは風呂で溺死する』そうだろうきっと酒に溺れて」 永田和宏
生きるというのはあまりに長い、けれど過ぎてみれば短い時間なのだろう。
その、本書でいう40年の時間をひとりと連れ添うというのは、
なんとも混沌としたさまざまの日々の寄せ集めのようだ。
この本を買おうと思ったきっかけの一つに、接した患者さんの苦しそうな様子に近づけず、
その心に少しでも近づきたいという思いからだったのだけれども
その当初の思いは果たされたのかというと甚だ疑問である
なにがしかの啓示を得ることができたとすれば、
それは耐えがたい苦痛と、最期の瞬間まで揺れて動き続ける心のさまと、
それを受けとめようとする家族の悲痛さであって、
せめてその心のありようを私が決めつけるようなことはすまいという
小さな決意だった。