読んでしまった。
試験勉強に追い込まれているような切羽詰まった時ほど、そのほかの作業が魅力的で捗るというのは古今東西どこにでもありそうな現象だけれども、まさにそれ。
一応、勉強する時間を確保するためにごくあっさりしてそうなこの一冊を選んだのだけれど(買ったもののお預けになっている「舟を編む」もあるのだから)
むしろ心理的にはこちらの方がヘビーであることを予測するべきだった。不覚。
江國香織のエッセイ、1997年初刊。
随所にみられる「きらきらひかる」に酷似した文章が気になって時系列を調べたところ、「きらきらひかる」は1991年初刊で、本作の6年前のことだ。
本作は「結婚してもうじき二年、という秋から、もうじき三年、という秋までのあいだに書いたエッセイ」ということなので、逆算しても、「きらきらひかる」は筆者本人の結婚生活より前に書かれた作品なのだろうか・・・・?
それとも、本書はもともと女性誌に連載されていたものらしいから、連載から初刊までの時間が空いていたのだろうか?
なんとも気になるこの6年の間。
こうなって初めて筆者の年齢を確認したのだが、ちょうど50歳、私の母とそう変わらない年齢だった。
思っていたより若かったというべきなのか、思っていたより上だったと思うべきなのか、悩むところ。
この人は、本当に年を取っても変わらないんじゃないかと思う。
結婚生活に関するエッセイという形をとっていながら、これはもはやひとつの小説である。
うつくしく完成された、閉ざされた世界だ。
既読の読者には、「きらきらひかる」のスピンオフ的な楽しみもできるかもしれない。なにしろ当然のことながら、作者はやはり笑子に似ている。
あの作品よりはいくらかマイルドに、いくらか一般的な、夫婦の肖像。
小説ほどには斬新でない内容のはずが、江國香織(特に初期の)の価値観、まっすぐさ、あまのじゃくが全開、際立っている。
けれど、「結婚」というものの途方もなさ、無謀さを描いているこのエッセイは、彼女の他の小説よりも一般受けするのではないかという気もする。
(主に女性に。平均的な男性が読んで共感できるものかは要実験というところ)
こんな女性と結婚したら、大変だろうなあ。
本書のなかに、「よその女」という一編があって、読みながら拍手喝采の気持ちだった。
「よその女になりたい、と、ときどき思う。よその女というのはつまり、妻ではない女。」という書き出しから始まる。
要するに、よその女は家にいる妻より感じが良くて、夫はきっとよその女からは礼儀正しい、感じのよい男に見えているであろう、と。
「たまによその男の人と会う。よその男はとても新説。礼儀正しいし、いろんな話をしてくれる。私や私の仕事をほめてくれるし、グラスが空になる前におかわりを注文してくれる。
無論私はよその男にそんなことをしてもらってもべつに嬉しくないけれど、夫がしてくれたら嬉しいだろうなと思う。そして、この男も自分の妻にはこんなに親切にしないんだろうなと思う。」
この鮮やかさ!かなしさ。誰かと共有したいけど、賛成してくれそうな友達が思い浮かばない。悲しい。
それから江國香織は結婚するとき旦那さんにに、これから先どんなことがあってもよその女にチョコレートをあげない、という約束をさせたそうだ。
旦那さんはときどきチョコレートを買ってきてくれる。そして、最後の一文。
「私は、夫にチョコレートをもらうたびに、私をよその女でなくしたことへの、夫のお詫びの贈り物だと思っている。」
このパンチの効いた締めくくり。もはやロック。(ロックという言葉の使い道をよく知らないながら、たまに使いたくなる)
結婚っていいなあ、という気持ちと、結婚って墓場かも、と思う気持ちを忙しなく行ったり来たりさせられる。
ひとりの人間と添い遂げる、あるいはそれを前提に一緒に暮らすというのは、これだけたいへんなことか。
江國香織は、仲直りはキープレフトである、という。
「仲なおりというのはつまり、世の中には解決などというものはないのだ、と知ることで、それを受け容れることなのだ。それでもそのひとの人生からでていかない、そのひとを自分の人生からしめださない、コースアウトしないこと。」
こうやって書いてみるとごく当たり前の教訓なのに、なぜ彼女が書くと、ああも絶望的に悲しい言葉になるのか、不思議だ。
いずれにせよ、結婚とはこの本のように、とりあえず今は一緒にいる、結婚生活は目的ではない、くらいの気持ちでいるのがいいのかもしれない。
自分が結婚するまえに読んでよかったのだろう、たぶん少しは、心の準備になる。
自分の結婚に絶望してから読んだら、きっと盛大に凹んだことだろう。
いつか将来結婚するときに、夫となるひとに課題図書としてこれくらいは読んで欲しいかも、と一瞬思ったけれども、
たぶん全然伝わらないんだろうな、とか「あらすじを要約してくれ」とか言われるんだろうな、とかなんとも不安材料と興ざめの予感しかしない。
筆者も本作で言っているとおり、全然違っていても構わないと思っていても、全部一緒だったらよかったのに、と思うことはときどきある。(全部じゃなくても少しくらい、共有できたらいいのに)
ただ、やはり、彼女の作品は文学として楽しむ作品ではないんだろうな、とは思う。
他人に勧めるのは躊躇する作家の一人。
共感できないと読めないし、共感できてしまうのは、結構自分の人格を疑うようなことでもある気がする。
(実際私はしばしば、江國香織の古くさく典型的な男、女の描き方と、それに続く彼女の解釈にはしばしばひっかかりつつ読んでいる。)
そういえば関係のない話だけれど、夫・妻という関係を他人に対して使うときに、ご主人、奥さん、旦那さん、以外のいい表現なんてないものかなあ。
夫、妻、というのはニュートラルでいいな、と思うのだけれど、他人に対して言うわけにはいかない。
ご主人、奥さん、という表現は古くさい三歩下がってエトセトラな関係を想起させられてひっかかるし
旦那さん、なんてのは私にはちょっと遊郭のほうを想像させるから気に入らないのだ。
結局いい呼び方がないのでもやもやしながらそのまま使っている。
夫には「家内」や「嫁」でなく「妻」という呼称で表されたいし、
夫のことは「主人」でなく「夫」と言いたい気がする。
そのほうがずっとかっこいいと思うのだけれど。
と、思い返して本書をめくると、やはり江國香織は「夫」と読んでいる。さすがである。
彼女にかかれば、「夫婦」すらも「フーフ」。