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私の本棚

将来の夢は自分専用の図書館をもつこと。大好きな本に囲まれて暮らしたい。

舟を編む  三浦しをん

2014-07-27 17:31:03 | いまの本棚
数週間前に買っていたこの本を、やっと一段落して読むことができた。
映画を先に見ていたのであらすじは知っていたけど、気になって読んでいた。
単行本を買ったのだけど表紙が素敵。この表紙の意味は作中の後半であきらかになる。

三浦しをんといえば私にとっては「風がつよく吹いている」で、あのわくわく感とか疾走感がくせになって、お正月にはあれを読みたくなる。
本作もわくわく感という意味では似ていて、相変わらず読み口はあっさり軽め。
そういう小説を書く作家なんだなあと改めて確認する。
人物造形とかをこまかく描く作家ではないよう。
その点はちょっと物足りない。

本作の魅力はなんといっても、「辞書づくり」というマイナーな分野にこれほどのスポットをあてたこと。
「風がつよく吹いている」の駅伝もそうだけど、着眼点がユニークな人だなあと思う。




いくつもの週末  江國香織

2014-07-20 17:48:53 | いまの本棚
読んでしまった。
試験勉強に追い込まれているような切羽詰まった時ほど、そのほかの作業が魅力的で捗るというのは古今東西どこにでもありそうな現象だけれども、まさにそれ。
一応、勉強する時間を確保するためにごくあっさりしてそうなこの一冊を選んだのだけれど(買ったもののお預けになっている「舟を編む」もあるのだから)
むしろ心理的にはこちらの方がヘビーであることを予測するべきだった。不覚。

江國香織のエッセイ、1997年初刊。
随所にみられる「きらきらひかる」に酷似した文章が気になって時系列を調べたところ、「きらきらひかる」は1991年初刊で、本作の6年前のことだ。
本作は「結婚してもうじき二年、という秋から、もうじき三年、という秋までのあいだに書いたエッセイ」ということなので、逆算しても、「きらきらひかる」は筆者本人の結婚生活より前に書かれた作品なのだろうか・・・・?
それとも、本書はもともと女性誌に連載されていたものらしいから、連載から初刊までの時間が空いていたのだろうか?
なんとも気になるこの6年の間。
こうなって初めて筆者の年齢を確認したのだが、ちょうど50歳、私の母とそう変わらない年齢だった。
思っていたより若かったというべきなのか、思っていたより上だったと思うべきなのか、悩むところ。
この人は、本当に年を取っても変わらないんじゃないかと思う。

結婚生活に関するエッセイという形をとっていながら、これはもはやひとつの小説である。
うつくしく完成された、閉ざされた世界だ。
既読の読者には、「きらきらひかる」のスピンオフ的な楽しみもできるかもしれない。なにしろ当然のことながら、作者はやはり笑子に似ている。
あの作品よりはいくらかマイルドに、いくらか一般的な、夫婦の肖像。
小説ほどには斬新でない内容のはずが、江國香織(特に初期の)の価値観、まっすぐさ、あまのじゃくが全開、際立っている。
けれど、「結婚」というものの途方もなさ、無謀さを描いているこのエッセイは、彼女の他の小説よりも一般受けするのではないかという気もする。
(主に女性に。平均的な男性が読んで共感できるものかは要実験というところ)
こんな女性と結婚したら、大変だろうなあ。

本書のなかに、「よその女」という一編があって、読みながら拍手喝采の気持ちだった。
「よその女になりたい、と、ときどき思う。よその女というのはつまり、妻ではない女。」という書き出しから始まる。
要するに、よその女は家にいる妻より感じが良くて、夫はきっとよその女からは礼儀正しい、感じのよい男に見えているであろう、と。
「たまによその男の人と会う。よその男はとても新説。礼儀正しいし、いろんな話をしてくれる。私や私の仕事をほめてくれるし、グラスが空になる前におかわりを注文してくれる。
無論私はよその男にそんなことをしてもらってもべつに嬉しくないけれど、夫がしてくれたら嬉しいだろうなと思う。そして、この男も自分の妻にはこんなに親切にしないんだろうなと思う。」
この鮮やかさ!かなしさ。誰かと共有したいけど、賛成してくれそうな友達が思い浮かばない。悲しい。
それから江國香織は結婚するとき旦那さんにに、これから先どんなことがあってもよその女にチョコレートをあげない、という約束をさせたそうだ。
旦那さんはときどきチョコレートを買ってきてくれる。そして、最後の一文。
「私は、夫にチョコレートをもらうたびに、私をよその女でなくしたことへの、夫のお詫びの贈り物だと思っている。」
このパンチの効いた締めくくり。もはやロック。(ロックという言葉の使い道をよく知らないながら、たまに使いたくなる)

結婚っていいなあ、という気持ちと、結婚って墓場かも、と思う気持ちを忙しなく行ったり来たりさせられる。
ひとりの人間と添い遂げる、あるいはそれを前提に一緒に暮らすというのは、これだけたいへんなことか。
江國香織は、仲直りはキープレフトである、という。
「仲なおりというのはつまり、世の中には解決などというものはないのだ、と知ることで、それを受け容れることなのだ。それでもそのひとの人生からでていかない、そのひとを自分の人生からしめださない、コースアウトしないこと。」
こうやって書いてみるとごく当たり前の教訓なのに、なぜ彼女が書くと、ああも絶望的に悲しい言葉になるのか、不思議だ。
いずれにせよ、結婚とはこの本のように、とりあえず今は一緒にいる、結婚生活は目的ではない、くらいの気持ちでいるのがいいのかもしれない。
自分が結婚するまえに読んでよかったのだろう、たぶん少しは、心の準備になる。
自分の結婚に絶望してから読んだら、きっと盛大に凹んだことだろう。
いつか将来結婚するときに、夫となるひとに課題図書としてこれくらいは読んで欲しいかも、と一瞬思ったけれども、
たぶん全然伝わらないんだろうな、とか「あらすじを要約してくれ」とか言われるんだろうな、とかなんとも不安材料と興ざめの予感しかしない。
筆者も本作で言っているとおり、全然違っていても構わないと思っていても、全部一緒だったらよかったのに、と思うことはときどきある。(全部じゃなくても少しくらい、共有できたらいいのに)

ただ、やはり、彼女の作品は文学として楽しむ作品ではないんだろうな、とは思う。
他人に勧めるのは躊躇する作家の一人。
共感できないと読めないし、共感できてしまうのは、結構自分の人格を疑うようなことでもある気がする。
(実際私はしばしば、江國香織の古くさく典型的な男、女の描き方と、それに続く彼女の解釈にはしばしばひっかかりつつ読んでいる。)


そういえば関係のない話だけれど、夫・妻という関係を他人に対して使うときに、ご主人、奥さん、旦那さん、以外のいい表現なんてないものかなあ。
夫、妻、というのはニュートラルでいいな、と思うのだけれど、他人に対して言うわけにはいかない。
ご主人、奥さん、という表現は古くさい三歩下がってエトセトラな関係を想起させられてひっかかるし
旦那さん、なんてのは私にはちょっと遊郭のほうを想像させるから気に入らないのだ。
結局いい呼び方がないのでもやもやしながらそのまま使っている。
夫には「家内」や「嫁」でなく「妻」という呼称で表されたいし、
夫のことは「主人」でなく「夫」と言いたい気がする。
そのほうがずっとかっこいいと思うのだけれど。
と、思い返して本書をめくると、やはり江國香織は「夫」と読んでいる。さすがである。
彼女にかかれば、「夫婦」すらも「フーフ」。


やわらかなレタス  江國香織

2014-07-16 22:26:30 | いまの本棚
江國香織のエッセイを、たぶん初めて読んだ。
これは、なんというか、あれだ。
話だけは散々聞いていたけれど実際に会ったことはなかった、友達の彼氏に初対面!という気持ちだ!(たぶん。一度くらいしかその場面に出くわしたことがないので。)
つまり、「あああーーわかる!!知ってる!!」っていう気持ちと、「え、そういう人だったの?!」っていう気持ちを、7:3くらいで行ったり来たり。
とても素敵な出会い(半分くらいは、再会)をしました。
食べ物をめぐる彼女のエッセイ。
やっぱり、食べ物にテーマを絞ったエッセイというものは、贅沢でとても好き。

筆者たる江國さんは、思っていた以上に、「きらきらひかる」の笑子に似ているし、
「号泣する準備はできていた」の中の数編に登場する姉妹にも似ている気がするし、
思っていたとおりの神経の細い、いかにも良家のお嬢様で、優しそうな旦那様の奥様(これはぞっとする言い方ではある)だし、
かと思えば、ちょっと図太い中年のおばさんのようでもあるし、不思議な人であるらしい。

つまり、兼ねてからの読者が読むと、この本はあらゆる彼女の作品のセンスの泉であるし、
さらにひとつ、江國香織という登場人物の目を通した新たな作品であって、幾重にも幾重にも楽しめるおいしすぎる一冊。
表紙と中表紙?の絵も素敵で、単行本なのにカバーが柔らかくて持ちやすい質感も好み。
彼女の描くヒロイン、とそのボーイフレンドの原型はたしかに、江國さん自身と、その旦那さん(あるいは過去のボーイフレンド?)にあるようだ。
特に、彼女が描くボーイフレンド像の影の薄さが、私にはややもするとリアルで好ましかったのだけれど、このエッセイにおける旦那さんの登場ぶりがまさにそんな様子。
愛読者にしか分からないおいしさがてんこもりだ。(はて、いつから私は愛読者になっていたのか!)

思い込みの強い、不器用で傷つきやすい数多のヒロインたちは、驚くほどにもまさしく筆者の分身で、
もしかしたら筆者は、傷つきやすく小心者の自分の代わりに彼女たちに思い切った冒険をさせているのかもしれない。
その一途さが素晴らしくもあり、きっとうっとうしくもあるのだろう。
なるほど、ある程度年をとってしまえば苦手なことも苦手で放ってしまえるのかもしれず、
そのくらい割り切って生きたほうが、人生におもしろみもあるのかも。
夫婦の極意のような短い文章にはっとさせられることもあった。
彼女は彼女で精一杯の毎日のようだけれども、どこか優雅に見えるのはなぜだろう。
自分も他人も追い詰めないという気持ちのせいかしら。
あと、江國香織も本書の中で言っていたことだけれども、なぜ絵本や本や映画の中に登場する謎の食べ物たちはあんなにおいしそうなのか、
誰か教えてほしい。
(のり弁に炒り卵をサンドするなんて、知らないんだけど!!!!)

予想以上に好きだったので、もう一冊Amazonで彼女のエッセイを注文。




江國香織を読む夜のこと

2014-07-13 00:14:37 | 日記
自分でも意外なことに、江國香織の本は結構持っている。
BOOKOFFの百円コーナーで江國香織が充実しているのがその主な理由なのだけれど、一度読んだきり再読していないものもあれば、
しっちゃかめっちゃか二重三重に文庫本が詰め込まれている私の本棚で、決まって最前列に陳列される権利を擁する生え抜きのエリートが3冊ほど存在する。
「きらきらひかる」、「つめたいよるに」、「号泣する準備はできていた」がそのレギュラーメンバーである。この3つは、私がいざというときにストックしている救急箱的な3冊なのだ。

「きらきらひかる」は、美しい蒸留酒のような物語の性質、その澄み切った絶頂感に酔ってしまう、ほとんどファンタジーとして楽しむことにしている。(ファンタジーとして読めなければ、むしろあの物語の救いのなさ、行き止まりの感は絶望的である)

「つめたいよるに」は、他人に勧めるのにちょうど良い、秀作が丁寧に詰め込まれた素敵な箱。特に秀逸なのが、短編「ねぎを刻む」。主人公がどうしようもなく孤独を感じる夜に、ひたすら細かくねぎを刻むというだけの話なのだけれど、これが「降ってきた」時の感覚のことは今でも忘れない。この短編に出てくるねぎはきっと分厚い長ねぎではなく、スーパーで束で売ってるような細い万能ねぎであろうと思いながら、我が実家の冷蔵庫はもっぱら分厚めの長ねぎが主流である。残念。一人暮らしをしてから、この短編のような孤独が押し寄せる夜に万能ねぎを刻むことは、私の密かな野望である。恋人に連絡する気も起きない、実家に顔を出すなんてもってのほか、というところが、とても共感できるのでさすか江國香織と思う。

こうやってみると、いちばん辛い作品が多いのは「号泣する準備はできていた」のようで、中学生のころにこれを読んだ時はさっぱり理解できずにいたのが、いつの間にかお気に入りにまでなってしまって、こういうときこそは、歳をとるのは不幸だと感じる。
喪失に次ぐ喪失、ねじきれるほどの悲しさを突きつけられて、たまらない。
失ったものは二度とかえらない、という残酷さをこれでもかと突きつけてくれる短編ばかりで、本当の心が参ったときにはこの中から一編だけ選んで読むようにしている。頓服薬。

表題作となっている「号泣する準備はできていた」の中に、フィッシュスープというものが出てくるのだが、(私のイメージでは完全にブイヤベースに置換されています。本物がどんなものだかは知らない)、この描写が素晴らしく好きで、人生で食べてみたい小説に登場する食べ物ベスト5には入るのではないかと思う。
「私はなつきを、いつかバリに連れていきたいと思っている。パリで、きょうみたいに寒い冬の夜に、濃く熱いフィッシュスープをのませたいと思っている。海の底にいる動物たちの生命そのものみたいな味のする、さまざまな香辛料の風味のまざりあった、骨にまでじんと栄養のしみ渡るフィッシュスープだ。私はその豊かで幸福な食べ物を、隆志とは別な男に教わった。ずっと昔、私がいまよりもまだもっとずっと乱暴な娘だったころ。これを身体に収めれば強くなれるわ、と、私はなつきに言うだろう。とてもほんとうとは思えない、と思うくらいかなしい目にあったとき、フィッシュスープをのんだことがある人は強いの。海の底にいる動物たちに護られているんだから、と。」 (江國香織 「号泣する準備はできていた」より)
主人公が自分の墓碑銘を考えて、「ユキムラアヤノここに没す。強い女だったのに」というシーンなども大好きで、私だったら「弱い人間だったけれども精一杯だった」なんて感じかななどと考えたりしている。フィッシュスープ、飲みたい。きっととびきりおいしくて、あたたかくて薄暗い店内でふうふうしながら食べたんだろうな。

それから別の短編で不倫カップルを描いた「そこなう」というものも非常に好きで、やはり彼女が追求する救いのなさに、どっぷり窒息したい気持ちになる。

なんだか、江國香織の描く人物は意外にもみんな健全だな、とおもう。
自分たちの救いようのなさにきちんと浸れるのは、心と体が丈夫なのだとおもう。しかも、自死に至る(あるいはそれを仮想する)登場人物が極めて少ないのは、すごいことだ(ぱっと思いつく例外は、落下する夕方の華子である)。
自分の救いのなさどうしようもなさ、甘ったれ、甘ったれてもなお逃げ場のない叫びだしたいような気持ち、そういうのにがんじがらめに囚われてしまったときには江國香織を読むようにしている。
それで救われるわけでは決してないのだけれど、ただ、諦めはすこしつくのかも。
それは、私よりよほど手詰まりな状況にいるわりに、登場人物が淡々としているとか、むしろ私はましだ、と思えるとか、そういう理由もたぶんあるのだろうけど。
どんなにだめでも惨めでも生きていればいいよ、というようなメッセージがどこかにあるのだとおもう。登場人物をみる江國香織の視線は、突き放していながらもどこまでも寛容でやさしい。作者の胸の中で、にんげんたちはどこまでも安心しきって自分をさらけ出しているかのようだ。
どうしようもなくても、迷惑ばかりかける存在でも、生きてさえいればいい、と信じているのだけれど、信じていたいのだけれど、その安易な思い込みは何かあると一瞬でほどけてしまうし、そうなるとあとは果てしない身の置き所のなさばかりがある。近頃は、昔得意だったはずのことが全然得意じゃなくなり、昔苦手だったことは更に苦手になるばかりで、なんのために年をとっているのか、本当にわからない。
強固に、あっさりと自分の生を信じられるようになるには、あと60年くらいはかかりそうだ。ただただその点において、私ははやくしわしわのおばあちゃんになりたいと思っている。

近代秀歌  永田和宏

2014-07-01 21:22:42 | いまの本棚
教養のなさを、ごまかせない年になってきた。
ものを知らないのは心底恥じ入るべきことだと、最近思っている。
そういう気持ちと、先日いたく気に入った「たとへば君 40年の恋歌」を読んで短歌の勉強がしたくなったのとで、
購入に至った。(本書の帯には、「日本人ならこれだけは知っておきたい近代の歌百首」とある。)

高校の授業で詩・短歌・俳句の部分は結構苦手だったことを思い出した・・・・

嫌いとかじゃない、すごく好きな短歌ももちろんある。
けれども自分の楽しみかたが正解なのか不安になるのが、私にとっては短歌である。
俳句ほど端的でも平易でもなく、詩に比べると圧倒的に言葉は少なく直接的で、
割り切れなさ、奥深さがおおきすぎる。
あと、なんとか派っていうのが苦手。
文学史とか一時期は随分調べてたから、そういった背景を知ることがすごく大切なことはもちろん分かっている。
記憶の中の国語の授業では、誰々はなんとか派で、誰々は写実主義がどうこうって、長い前置きがあったなあ・・・・今更だけど、そこ、クリアしないとだめでしょうか・・・・
おもえば、国語はずっと得意科目だったけれども授業が楽しかったのは小学校の塾くらいだった。
国語の授業って、文学を個々人が楽しむ方法を教えるにはいまいち。
短歌や論説文といった苦手なジャンルの読み方を教えてもらったのは良かったけれども、かといって自分で読めるようになったわけでもなく。
(なんとか派で思い出すのは、絵画の鑑賞にも欠かせない概念なので、そちらも随分最近になってようやく克服の兆しがみられている。)
与謝野晶子の熱情と、太宰治への愛をうっとり語っていた先生は元気にしているだろうか。

そんな忸怩たる思いを抱えながら読み進めた。
買ってから気付いたことには、本書の著者がまさに「たとへば君 40年の恋歌」の二人の歌人のうちの旦那さんの方だった。不覚。
知識が欠けている人間からすると、歌人の人生や流派、それぞれの短歌の背景を含めて解説してもらえるのは安心感があるのは否めない。
結局苦手ななんとか派は克服しきれずに終わってしまったけれども、好きな短歌が少しだけ増えたから収穫。
本当はもう少し古文を勉強して、古典文法のものの意味もさらりと読めるようになりたい。
ただひとつの表現を追求しつづけるというのは、宗教も、学問も、絵画も、文学も、短歌も、それぞれ全てに共通にする、むしろ原始的な運動のようだ。
私はどちらかというと、ぎりぎり自由律手前くらいの、エモーショナルな短歌が好き。
どこまでいっても、感情的な人間であることから逃げられない。
私にとっての愛唱歌といえるものはそれほど多くないけれども、何を隠そう我が母が幼い頃の弟(と私?)をみてつくったのであろう短歌は、心底気に入っています。
気に入った短歌を覚え書きにしておこう。

人妻をうばはむほどの強さをば持てる男のあらば奪られむ  岡本かの子
相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ  川田順
もの忘れまたうち忘れかくしつつ生命をさへや明日は忘れむ  太田水穂
老ふたり互に空気となり合ひて有るには忘れ無きを思はず  窪田空穂
かにかくに祇園はこひし寐るときも枕の下を水のながるる  吉井勇
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく  若山牧水
ああ皐月仏蘭西の野火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟  与謝野晶子
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ  木下利玄
向日葵は金の油を身に浴びてゆらりと高し日のちひささよ  前田夕暮
終わりなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ  土屋文明

新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれどー  石川啄木


友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としあしむ

石川啄木のこの短歌もとても好きなのだが、
女友達が言っていたのは「私も妻がほしい」ということであった。
ジェンダーを押しつける言動にはアレルギーのごとく過敏に反応してしまう私ですが、
実際のところ、古い時代にあった良妻賢母の精神が必ずしも嫌いなわけではなくて、(よく知らない人にむりやり押しつけられたら非常に反発するというだけの話だ)
良妻賢母で控えめな奥さん、というファンタジーには、結構共感できる。
ほんとう、素敵な奥さんがいたら毎日でも花を買って帰りたいのに、悲しいことに奥さんがいません。

それからもうひとつ悲しいことには、
こういう本を富んでも共有できる人があまりに少ないということ。
その点では、文学部に進めばよかったと今もしばしば思います。
現在の進路は非常に気に入っているけれども、情緒的な部分ではいささか不足。
(たぶん、私に友達が少ないばかりが原因ではないぞ・・・・)
かつては、必ずしも同じ本を読んでいなくても、そういった話をいくらでも聞いてくれる友達がたくさんいた環境にいたし、
もしお互いに同じ本を読んでいたなら好きなだけ議論できた、あの幸せ!
今の場所に来て、私の情緒も、それを自分で表現する力も、ひとく痩せてしまったように思う。
もちろんそれは私の自己研鑽の不足によるところが大きいのだけれど、共有できる人がいないというのはとにかく悲しい。
自分がどんどんただのやせっぽちの(体型ではなく情緒の話です)すれっからしになっていくよう。
オリジナリティとアイデンティティは、どこにいったのだろう。
つまらない女になっていくのはいやだ。