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私の本棚

将来の夢は自分専用の図書館をもつこと。大好きな本に囲まれて暮らしたい。

江國香織を読む夜のこと

2014-07-13 00:14:37 | 日記
自分でも意外なことに、江國香織の本は結構持っている。
BOOKOFFの百円コーナーで江國香織が充実しているのがその主な理由なのだけれど、一度読んだきり再読していないものもあれば、
しっちゃかめっちゃか二重三重に文庫本が詰め込まれている私の本棚で、決まって最前列に陳列される権利を擁する生え抜きのエリートが3冊ほど存在する。
「きらきらひかる」、「つめたいよるに」、「号泣する準備はできていた」がそのレギュラーメンバーである。この3つは、私がいざというときにストックしている救急箱的な3冊なのだ。

「きらきらひかる」は、美しい蒸留酒のような物語の性質、その澄み切った絶頂感に酔ってしまう、ほとんどファンタジーとして楽しむことにしている。(ファンタジーとして読めなければ、むしろあの物語の救いのなさ、行き止まりの感は絶望的である)

「つめたいよるに」は、他人に勧めるのにちょうど良い、秀作が丁寧に詰め込まれた素敵な箱。特に秀逸なのが、短編「ねぎを刻む」。主人公がどうしようもなく孤独を感じる夜に、ひたすら細かくねぎを刻むというだけの話なのだけれど、これが「降ってきた」時の感覚のことは今でも忘れない。この短編に出てくるねぎはきっと分厚い長ねぎではなく、スーパーで束で売ってるような細い万能ねぎであろうと思いながら、我が実家の冷蔵庫はもっぱら分厚めの長ねぎが主流である。残念。一人暮らしをしてから、この短編のような孤独が押し寄せる夜に万能ねぎを刻むことは、私の密かな野望である。恋人に連絡する気も起きない、実家に顔を出すなんてもってのほか、というところが、とても共感できるのでさすか江國香織と思う。

こうやってみると、いちばん辛い作品が多いのは「号泣する準備はできていた」のようで、中学生のころにこれを読んだ時はさっぱり理解できずにいたのが、いつの間にかお気に入りにまでなってしまって、こういうときこそは、歳をとるのは不幸だと感じる。
喪失に次ぐ喪失、ねじきれるほどの悲しさを突きつけられて、たまらない。
失ったものは二度とかえらない、という残酷さをこれでもかと突きつけてくれる短編ばかりで、本当の心が参ったときにはこの中から一編だけ選んで読むようにしている。頓服薬。

表題作となっている「号泣する準備はできていた」の中に、フィッシュスープというものが出てくるのだが、(私のイメージでは完全にブイヤベースに置換されています。本物がどんなものだかは知らない)、この描写が素晴らしく好きで、人生で食べてみたい小説に登場する食べ物ベスト5には入るのではないかと思う。
「私はなつきを、いつかバリに連れていきたいと思っている。パリで、きょうみたいに寒い冬の夜に、濃く熱いフィッシュスープをのませたいと思っている。海の底にいる動物たちの生命そのものみたいな味のする、さまざまな香辛料の風味のまざりあった、骨にまでじんと栄養のしみ渡るフィッシュスープだ。私はその豊かで幸福な食べ物を、隆志とは別な男に教わった。ずっと昔、私がいまよりもまだもっとずっと乱暴な娘だったころ。これを身体に収めれば強くなれるわ、と、私はなつきに言うだろう。とてもほんとうとは思えない、と思うくらいかなしい目にあったとき、フィッシュスープをのんだことがある人は強いの。海の底にいる動物たちに護られているんだから、と。」 (江國香織 「号泣する準備はできていた」より)
主人公が自分の墓碑銘を考えて、「ユキムラアヤノここに没す。強い女だったのに」というシーンなども大好きで、私だったら「弱い人間だったけれども精一杯だった」なんて感じかななどと考えたりしている。フィッシュスープ、飲みたい。きっととびきりおいしくて、あたたかくて薄暗い店内でふうふうしながら食べたんだろうな。

それから別の短編で不倫カップルを描いた「そこなう」というものも非常に好きで、やはり彼女が追求する救いのなさに、どっぷり窒息したい気持ちになる。

なんだか、江國香織の描く人物は意外にもみんな健全だな、とおもう。
自分たちの救いようのなさにきちんと浸れるのは、心と体が丈夫なのだとおもう。しかも、自死に至る(あるいはそれを仮想する)登場人物が極めて少ないのは、すごいことだ(ぱっと思いつく例外は、落下する夕方の華子である)。
自分の救いのなさどうしようもなさ、甘ったれ、甘ったれてもなお逃げ場のない叫びだしたいような気持ち、そういうのにがんじがらめに囚われてしまったときには江國香織を読むようにしている。
それで救われるわけでは決してないのだけれど、ただ、諦めはすこしつくのかも。
それは、私よりよほど手詰まりな状況にいるわりに、登場人物が淡々としているとか、むしろ私はましだ、と思えるとか、そういう理由もたぶんあるのだろうけど。
どんなにだめでも惨めでも生きていればいいよ、というようなメッセージがどこかにあるのだとおもう。登場人物をみる江國香織の視線は、突き放していながらもどこまでも寛容でやさしい。作者の胸の中で、にんげんたちはどこまでも安心しきって自分をさらけ出しているかのようだ。
どうしようもなくても、迷惑ばかりかける存在でも、生きてさえいればいい、と信じているのだけれど、信じていたいのだけれど、その安易な思い込みは何かあると一瞬でほどけてしまうし、そうなるとあとは果てしない身の置き所のなさばかりがある。近頃は、昔得意だったはずのことが全然得意じゃなくなり、昔苦手だったことは更に苦手になるばかりで、なんのために年をとっているのか、本当にわからない。
強固に、あっさりと自分の生を信じられるようになるには、あと60年くらいはかかりそうだ。ただただその点において、私ははやくしわしわのおばあちゃんになりたいと思っている。