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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

三春城・後編~愛姫のご実家?

2019-05-01 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 9 月 1 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 6 分

福 島 県 田 村 郡 三 春 町

城 山 公 園 ・ 三 春 城 本 丸



この日の城攻め旅は、「白石リベンジ」
8年前に訪れたけど、まったく登城できなかった白石城を最終目的地としております。
そこでご覧いただきたい、1枚の画。



知る人ぞ知る、ナムコ「独眼竜政宗」
あの独眼竜政宗が、奥羽統一を目指して、頭と金と力を使う、実にわんだふるなゲーム!
そしてこの画は、年ごろになった政宗が嫁を選ぶというシーンです。
この中に、実在していた人物がふたりいます。

ひとりは、右下にいる「小十郎」・片倉小十郎景綱
伊達政宗の腹心で、のちに白石城の城主となります。
今回の旅は、片倉小十郎のお城をめぐっていく旅でもあるのです。

・・・では、小十郎と三春城との関係は?



同じくわんだふるなゲームより。
この画に登場している政宗さんと、下で激怒している秀吉さん。
三春城&小十郎をつないでいるのは、政宗さんではなく秀吉さんのほう。

豊臣秀吉奥州仕置により、小田原北条攻めで参陣しなかった奥州の大名たちは領土を没収されてしまいました。
三春城も没収の対象となったのですが、その三春を秀吉が小十郎に与えようとしたことがあったのです。
「伊達の知恵袋」として名高かった小十郎の才覚を秀吉は認め、大名に取り立てることにより政宗のもとから引き離してしまおうと企んだのですが、
「関白殿下(秀吉)に直接忠節を尽くすことと、政宗様への忠節を通じて関白殿下に忠節を尽くすことは同じ」
と断ったそうです。




そしてもうひとりが、小十郎の上にいる「めご」。
(めご)は、三春城主・田村清顕(きよあき)の一人娘です。
永禄11年(1568年)に生まれ、天正7年(1579年)数え年12歳で伊達政宗の正室となりました。


三春城を登城したこの日は、愛姫生誕450年の記念年・・・なのですが、愛姫の実家・三春ではあまり「愛姫推し」はしていない様子ですね。




さて私は、三春城の本丸にいました。
本丸ということで、スマホさんで「城攻め」を行います。



続日本100名城・第110番、三春城攻略!



ここでは片倉景綱には会えませんでした。
登用できた田村隆顕は、愛姫の祖父にあたります。



三春城の築城時期は不明ですが、16世紀初頭に田村義顕が本拠地として移ってきたことから、歴史の表舞台に上がります。
田村氏は分立割拠する小豪族のひとつで、婚姻政策により命脈を保ってきました。
義顕の孫・清顕は娘の愛姫伊達政宗に嫁がせました。
清顕は男子に恵まれずに死し、三春城は勢力拡大しつつあった伊達政宗の下に置かれ、清顕の甥・宗顕が城主となります。
しかし宗顕は、政宗の指示もあって豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため、領地を没収されてしまいました。

その後三春城は会津若松城の支城と位置付けられ、会津を領した蒲生氏郷上杉景勝蒲生秀行などの家臣が城代を務めました。
蒲生氏が改易となると、替わって会津に入った加藤嘉明の三男・明利、次いで松下長綱が城主となり、長綱のときに大改修が行われて現在残る姿となりました。
松下氏が改易されると、秋田俊季(としすえ)が三春藩主となり、秋田氏が明治維新まで三春を治めました。




いったん入口まで戻ります。



本丸を取り巻く石垣は、蒲生家臣・蒲生郷成の改修によるものだそうです。



帰りは階段ではなく、小道となっている坂を下りました。
こちらが本当の裏道だったところで、途中には搦手門が構えていました。



小道を下りきると・・・ここは進入禁止だったようです・・・。




二之門跡まで戻ってきました。
最後に、ここから本丸に続く大手道を上っていきましょう。



二之門跡の駐車場の先に、本丸へと続く大手道があります。



分かれ道は、城山を上っていきそうな左を進みます。
ちなみに右の道は、



竪堀跡、そして三の丸に続きます。



つづら折りの坂道、なかなかに急です。



カーブのところに門が構えられていたようです。
2番目のヘアピンカーブは、揚土門跡
愛姫の父・田村清顕死後の内紛では、この門を挟んで攻防戦が繰り広げられたそうです。
江戸時代の図面に揚土門はないので、改修時に撤去されたのかもしれません。



石垣?・・・ではなくて天然石のようです。



次のヘアピンカーブは、三之門跡
こちらは江戸時代の図面にも記載があります。
本丸まではあと少し。



石垣?・・・ではなく、こちらも天然石。



石垣かな~? 天然石かな~? 考えつつ階段を上りきると、

 

スタンプの絵柄になっている、大門跡から望む本丸に到達です。




午 前 1 1 時 2 4 分

城 山 公 園 を 出 る


二之門跡の駐車場に戻り、レンタサイクルを回収。
これよりJR三春駅に戻ります。



三春町役場の手前にある、三春町歴史民俗資料館自由民権記念館への入口。
入っていくと、



自由民権発祥の地の碑とともに、



河野広中像が立っています。
「自由民権」という言葉・・・・・・明治時代で自由民権運動といえば、連想するのは自由党板垣退助ですね。


明治維新後河野広中はイギリスの政治学者・ジョン・スチュアート・ミルの著書を読んで影響を受け、東北地方の自由民権運動の中心人物となりました。
土佐に下野していた板垣退助とともに国会開設運動をおこし、明治14年(1881年)には自由党の結成に参加しました。
明治15年(1882年)福島県令・三島通庸の圧政による福島事件で検挙され、禁固刑を受けることになってしまいます。
明治22年(1889年)明治憲法発布による特赦で出獄し、のちに開設された帝国議会で衆議院議員に選出されました。


その後自由党の内紛で脱党したり、桂内閣を糾弾する奉答文事件を起こして衆議院解散を招いたり、日露戦争の条約締結に反対する日比谷焼打ち事件を扇動したりと、なかなかのトラブルメーカーっぷり。
同じく対外強硬派であった大隈重信と行動を共にするようになり、大正時代の第2次大隈内閣では農商務大臣を務めました。




午 前 1 1 時 4 0 分

J R 三 春 駅


駅を下り立ってから約1時間半、再び三春駅へ。



駅に戻ってようやく、愛姫のご実家らしいものを見つけたのでした。





三春城・前編~福島なのに秋田さん

2019-05-01 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 9 月 1 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 0 8 分

福 島 県 田 村 郡 三 春 町

J R 三 春 駅



この旅最初に下車したのは、JR磐越東線・三春駅



阿武隈高地にあるこの町にも、続100名城に選定された三春城【三春町指定史跡】があるのです。
今回の「白石リベンジ」の旅にもほんのちょっと関わりのある三春城に、



レンタサイクルの力を借りて向かいます。
三春駅の中にあるばんとうプラザという土産物販売施設の、レジにいるお姉さんがエージェントとなって自転車を貸してくださいます。
自転車には普通のママチャリと電動アシスト付き自転車があり、料金はそれぞれ1日500円、1日1,000円となっています。
丘陵地にある三春を往くには電チャリの方が圧倒的に楽ですが、己の健脚を信じ、経費を節減すべく、ママチャリを借りることとしました。



三春駅を出たら、駅前を通る県道を右に進みます。
(画像のように、県道側から駅を見ている場合は左方向です)
とにかく東へ。



そのまま道なりに市街地方向に進んで、磐越東線の跨線橋を渡ります。
急なアップダウンは跨線橋くらいなものなのですが、地味~に緩やかな上り坂が終始続きます。



三春の市街地に入りました。
左に折れ曲がる急カーブに沿って進みます。つまりは道なりに行けばOK。


右手に三春郵便局が見えてくると、



左側には現在三春小学校の校門となっている藩講所表門【三春町指定文化財】が現れます。
三春藩の藩校・明徳堂の表門だったので、「明徳門」と呼ばれています。

18世紀末の藩主・秋田倩季(よしすえ)により、明徳堂が設置されました。
その表門であったのがこの明徳門で、扁額の揮毫は倩季本人によるものだそうです。
明徳堂は別の場所にあったそうですが、明徳門だけが現存し、三春小学校前に移築されています。

なお、明徳門のある場所は、追手門跡にあたります。
また、現在の三春小学校一帯に、秋田氏時代の御殿があったそうです。


明徳門を過ぎ、三春町役場も通過してしばらく進むと、



「←舞鶴城址入口」の看板が現れます。
「舞鶴城」は三春城の雅称ですので、ここで左に曲がりましょう。



三春城へ続く坂は、お城坂というそうです。



坂の途中から傾斜が急になっています!
つい最近も急な坂を上らされたばかりですが・・・



三春の坂もなかなか・・・ここを進むときだけは、レンタサイクルさんが足手まといになってしまいますね。



きつい坂を上った中腹にある二之門跡
ここから続く道が本丸へと続く正規のルート、すなわち大手道だったようです。
現在は駐車場が設けられており、私もここでレンタサイクルから下りることとしました。



【今回の移動記録】



JR三春駅 10時12分発
福島県道28号・本宮三春線、国道288号、福島県道40号・飯野三春石川線経由
三春小学校(明徳門) 10時22分着
城山公園(三春城址) 10時29分着

*移動距離 2.5km
*移動時間 17分
*速さ平均 8.8km/h  ※最後のお城坂で自転車を手押しした分、速さが伸びなかったですね。




二之門跡付近に立つ、江戸時代初期の三春城想定図。
このときの私は坂にやられていたため、「よくわかんねぇ図だな・・・」としか思わなかったのでした。
白字が江戸時代の三春城、緑色が現在の三春城を表しているようですね。
そして赤い点が現在地を表しているようですが、登城当時は「どれが現在位置だよ~???」と困惑していました。

この案内図をよく読むと、秋田氏入府時」とあります。
先ほどの明徳門のときといい、福島なのに秋田さんなんです。
秋田さん・・・その名のとおり、もとは秋田に住んでいた秋田さんなんです。


秋田さんの祖は、秋田地方に勢力を張っていた安東氏です。
現在の能代市にあった檜山城を居城とし、津軽半島西岸の十三湊を根拠地とする安東水軍、さらには蝦夷地の蠣崎氏とも連携していました。
8代当主の安東愛季(ちかすえ)は最大の版図を築き、「斗星の北天にあるにさも似たり」(北の空で輝く北斗七星のような、北国の名将だ)と謳われました。
愛季が壮年で急死し、子の実季(さねすえ)は若くして当主となると、お家騒動と周辺大名の侵攻の対応に追われますが、所領を守り抜いて豊臣秀吉奥州仕置を迎えます。
実季は秋田の所領を安堵され、秋田周辺の国司にあたる秋田城介(あきたじょうのすけ)にあやかり、秋田に改姓しました。

豊臣秀吉が亡くなり、天下分け目の関ヶ原へ。
出羽国(山形・秋田)では慶長出羽合戦が起こります。
安東改め秋田実季は東軍につきましたが、積極的な軍事行動を起こしませんでした。
西軍の上杉景勝と真っ向から戦う羽目になった最上義光が、戦後に実季の働きぶり(怠けぶり?)を徳川家康に報告したため、実季は常陸宍戸(茨城県笠間市)に移封されてしまいます。

実季の子・俊季(としすえ)の代に常陸宍戸から三春に移り、以降明治維新まで秋田氏が三春藩主を務めました。





レンタサイクルは二之門跡の駐車場に停めましたが、私はお城坂をもう少し進みます。
この日の天気予報は、気象庁によると曇り時々雨。
三春駅から三春城までは雨が降らなかったものの、城内に入って時折小雨がぱらついていました。



への入口。
「の」の字の色を変えて記述するのには理由がありますが、それはのちほど。



二の丸へと続く虎口?のような構造。
先の階段を上がると・・・



現在は児童公園となっている二の丸です。
三春城は、中央の城山に本丸、そこから西と南の尾根にそれぞれ二の丸と三の丸が造成されていて、空で鶴が舞うかのような縄張りを成していることから舞鶴城とも呼ばれています。

あと、ここで三の丸についても言及しているのは、時間の関係上三の丸に足を踏み入れることができなかったためです。あしからず。


二の丸から下りました。



本丸と二の丸を隔てる切通しです。
坂になっており、下れば二之門跡へたどり着きますが、ここは戻らずに上っていきます。



車も乗り入れることができる、山上へと続く道。
本丸へと続いているようなので、ここから上っていきます。



中腹の駐車場と分かれて続く、本丸への階段。
これらの通路や駐車場は江戸時代の縄張図には記載されておりません。
三春城が廃城となり、公園化したときに設置されたものなのでしょうか。



折れている「矢倉跡」の標柱。
このあたりに矢倉(櫓)があったと思っていたのですが、縄張図を参照するとそのような事実はなさそうです。
ただ単に折れた標柱が打ち捨てられているだけでしょうか???



本丸まではもう少し。
この階段もなかなか急ですが、これを上っていくと搦め手(裏道)に合流します。



搦め手に合流しました。
本丸を取り巻いている石垣が、わずかに残っています。
ここの石垣は蒲生氏郷が領主であったころに造成されたものだそうです。




「舞鶴城址」の標柱が立っているあたりに、搦め手を守る本丸裏門がありました。



これよりく本丸・・・



二之丸だと?!
丸はさっきあったじゃないか・・・ん? 二丸?
まぁいいでしょう、その四阿(あずまや)の横にあるのは・・・



100名城・・・じゃなくて続100名城スタンプです!
中にはスタンプに、三春城のパンフレットも入っています。



110番、三春城!
絵柄は・・・「大門跡」の標柱が立っているあたりのようですね、ゆっくり探してみるとしましょう。それにしても・・・

ここは本丸なのか、二之丸なのか?
二の丸はこっちなのか、あっちなのか?


手に入れたばかりのパンフレットを参照すると・・・四阿が建っている空間は「本丸」と明記されています。
そして先ほどの児童公園になっている空間が「二の丸」とあります。

う~~~ん、標柱よりもパンフのほうが新しい研究成果に基づいているだろうから・・・「二之丸」はガセなのかな?
この二の丸が表記ゆれ問題のおかげで、私は最後まで腑に落ちない登城を続けることになってしまいました。


じつはこの「二之丸」、間違いではありません。
現在までに「舞鶴城」と称される三春城は、江戸時代初期に松下長綱が三春藩主であったころに改修されてできあがったものなのです。
それまでは、城の主要部(江戸時代の「本丸」)が区分されており、「二之丸」はそのひとつだったわけです。

ちなみに松下長綱のお爺さん・松下之綱(ゆきつな)は、若かったころの木下藤吉郎(豊臣秀吉)織田信長に仕える以前に仕えていた人物といわれています。
三春城を改修した松下さんはその後改易されてしまい、秋田さんが三春藩を引き継ぐこととなります。



・・・というわけなので、松下氏以前の二之丸をここでは旧二之丸と表記することとします。





旧二之丸の南端から望む、城下町・三春。
三春城を翼広げる鶴になぞらえるならば、ちょうど鶴の頭にあるこの位置に御三階櫓が建っていたそうです。
先ほどの「矢倉跡」の標柱は、このあたりに立っていたのでしょうか。
城下から仰ぎ見ることができたであろう御三階櫓は、三春城にとっては事実上の天守だったのでしょうね。



旧二之丸にある、四阿付近にある礎石と標柱・・・。
気になりますが、それよりも草が深いです。
この日は小雨が降ったり止んだりだったので・・・私の大好きなスネークでも出そう・・・。


よし! ここは後で来よう。




虎口のような狭い構造を経て、



「本丸跡」の標柱が立つ曲輪へ。
この「本丸跡」も、江戸時代以前の本丸を示しています。ここでは旧本丸と表します。
江戸時代以降の本丸は、この旧本丸と旧二之丸の双方を含んでいます。
ここには本丸御殿が建っていたようで、



「奥跡」の標柱がある北側に、城主の住まう奥御殿があったそうです。

 

現在は秋田家祖先尊霊の碑が立っています。
石壇も据えられていてお墓のようなたたずまいなので、私も手を合わせましたが、お墓ではなく石碑なのだそうです。



尊霊の碑のそばには、明治戊辰役三春藩烈士碑が立っています。


幕末、勤皇(新政府)か佐幕(旧幕府)で揺れる中、三春藩の藩論は勤皇でした。
しかし小藩のため、周辺諸藩とともに佐幕派の奥羽越列藩同盟に加盟することを余儀なくされます。
新政府軍が列藩同盟軍の諸城を次々攻略し、次は三春城か・・・。
このとき下級武士であった河野広中は、新政府軍を率いる板垣退助美正(みしょう)貫一郎らと面会し、三春城の無血開城へと導いていきます。

列藩同盟軍はこの無血開城を「裏切り」と非難、同盟軍の陣に身を置いていた4人の三春藩士を死に追いやってしまいました。



三春の無血開城に尽力した美正貫一郎は、その後会津攻略のおりに戦死してしまいます。
板垣と河野のふたりは、後に明治の政界でその名を轟かせるのですが・・・それは後ほど。




奥跡の石壇から見た、旧本丸。



旧本丸の南側は、御殿の大広間があったそうです。



三春城の登城は、ここで折り返し点。
草地にあった礎石と標柱は? スタンプの絵柄の場所は?
板垣退助と河野広中の関係は?
あと、ここの城で生まれたというひとりの女性は?

続きは後編で。