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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

讃岐高松城・後章~大いなる海城

2016-03-01 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 後 2 時 4 4 分

香 川 県 高 松 市

国 指 定 史 跡 ・ 高 松 城 址 ( 玉 藻 公 園 )





披雲閣庭園【国指定名勝】を出て、北の丸へ。



月見櫓【国指定重要文化財】、



水手御門【国指定重要文化財】と渡櫓【国指定重要文化財】です。

北の丸付近は、松平頼重徳川光圀の実兄)の代に埋立てがすすみました。
そして月見櫓は次代の頼常(光圀の実子で頼重の養子)の代に完成し、北の丸の隅櫓の役割を担うこととなりました。



月見櫓に入ります。
戦国時代の城郭建築に比べると、少しばかりですが傾斜が緩やかな階段。



櫓からの眺め。
北側は道路1本を挟んですぐに海、四国フェリーがなんとも間近に見えます。
高松城が海城であることを実感できます。



櫓の西側は野面積みの石垣と水路が続きます。
当時はこのあたりまでが海だったのですが、明治時代に埋立てがすすみ、石垣と道路の間に水路が残りました。
往時は海を隔てていた石垣、それにそって並び立つ松の木々もまた良し。



かつての海であった水路は、ここの水手御門で終わっています。
つまりここは海からの入城門、月見櫓は海からの出入りを監視する役割を担っていたのです。
高松城では、月見櫓は「着見櫓」とも表記されていたそうです。



前章で訪れた披雲閣【国指定重要文化財】と披雲閣庭園【国指定名勝】は、月見櫓からちょうど南側。




月見櫓から出て、水路近くまで来ました。
城外とあって、門と櫓はなかなかの威容を示しています。
月見櫓とその続櫓には第1階層に石落としが構えられ、またすべての櫓に鉄砲狭間が空いています。




続いて渡櫓に入ります。



ここでは城郭建築ではめずらしいのたぐり壁が見られます。

城郭建築では木造の壁板を土壁で覆う構造はよく見受けられます。
こうすることで建物の炎上を防ぐのですが、この波状の壁、そして露出している柱・・・?

櫓の外側は敵方の火攻めに備える必要があるので、壁板を土壁で完全に覆う必要がありますが、内側については出火のリスクはある程度下がります。
そのため土の量を節約するために波状の壁になっているそうです。
仮に櫓の中で出火しても、柱が燃え尽きることはめったにないそうです。

こののたぐり壁、城郭建築で現存している例はここと彦根城佐和口多聞櫓だけだそうです。




水手御門、月見櫓を背にして、



城の北西にある水門へ。

高松城の北側は、埋立てにより海とは接しなくなりました。
この水門を通じてのみ、海とのつながりがあります。





鉄門(くろがねもん)を通って、二の丸へ。



屋根付きの鞘橋(さやはし)を渡ると本丸に入ります。



鞘橋から見た本丸。
野面積みの石垣がひときわ高く積み上がります。



いよいよ天守台へ。



天守台から眺める内堀
濠の終末には水門が開いていて、その先の瀬戸内海に通じます。
左が二の丸、右が三の丸
二の丸の石垣が、三の丸のそれよりも少しばかり高いことがわかります。



二の丸と、そこから架かる鞘橋です。
二の丸の向こうはJR高松駅の駅ビルです。



天守台の南東方向には、(うしとら)【国指定重要文化財】。
「艮」は北東の方角を表します。
もともとは城の北東にあった隅櫓が、現在の地に移築されたものなので、玉藻公園の南東にありますが「艮」櫓の名称が残っています。



北東方向は月見櫓が・・・ちょいと見えにくいですなぁ。



お濠に泳いでいるのはクロダイ(チヌ)です。
クロダイは出世魚で、小さいものはチ●チ●、中くらいがチヌで、大きくなるとクロダイと呼ばれるそうです。


天守に到達したので、高松城の攻略、達成!!



ママチャリを停めた艮櫓付近に戻ります。



三の丸からの鞘橋



同じく三の丸から、天守台と鞘橋。



高松城のシンボル・艮櫓



ことでん越しの艮櫓を背にして、最後のうどん巡礼に旅立ちます。





讃岐高松城・前章~披雲閣

2016-02-26 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 後 2 時 0 7 分

香 川 県 高 松 市

玉 藻 公 園 東 入 口



栗林公園【国指定特別名勝】を回遊し、うどん屋3軒をハシゴした私は、かなり満腹のままこの日の城攻めに突入。



この3日間毎日横目で通り過ぎていた(うしとら)【国指定重要文化財】と中堀へ。



中堀にかかる旭橋から、高松城の登城はスタート。
入城料は、大人200円。

入口の管理所ではやくも100名城スタンプを発見。



77番、高松城!


高松城(讃岐高松城)は、またの名を「玉藻城」と呼ばれています。
その由来は「万葉集」で柿本人麻呂が讃岐国の枕言葉に「玉藻よし~」と詠んだことにちなみ、高松周辺の海が「玉藻の浦」と呼ばれていることに寄ります。

豊臣秀吉より讃岐一国を与えられた生駒親正は、この地を「高松」と改称して天正16年(1588年)から築城を始めました。
城の縄張りは瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだもので、「日本三大海城」に挙げられます。

生駒氏の治世は4代54年にわたり続きましたが、寛永17年(1640年)生駒騒動というお家騒動を起こした責めにより改易(領地没収)されてしまいます。
代わって寛永19年、徳川光圀の兄・松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。
以後明治まで松平氏の治めるところとなりました。



こうしてみると、讃岐にやってきた松平頼重は、弟の黄門さまに水戸を追い出されたようにも見えていささか不憫ですが・・・
これには続きがあります。


頼重と光圀の母である久昌院は、もともと水戸徳川家に仕える侍女でしたが、初代藩主・頼房に見初められ、時を分けて2人を身ごもりました。
久昌院はのちに側室となりますが当時は身分の低い侍女、ゆえに身ごもった子を堕胎するよう命じられます。
頼房の乳母夫婦であった家臣の三木之次(ゆきつぐ)は、2人とも隠匿して養育しました。
しかし光圀を懐胎したときには、頼重はその存在がバレないようにするため京都に移ることとなりました。

その後頼重は水戸に戻ることになりますが、その間に水戸徳川家の跡継ぎは光圀と決まってしまいました。
ときの将軍・家光がその名を分けたうえで決まった後継、「実は俺が長男だ」と主張して後継を争うことなどできるわけはありませんでした。

若き後継者・光圀もこのことを気に病み、江戸で吉原通いやら辻斬り!!やらの放蕩の限りを尽くしたといいます。
やがて「史記」を読んでこれまでの行いを改め、学問に励んでいきました。

そして光圀は、頼重の子・綱條(つなえだ)を養子として次代の藩主に指名し、頼重も光圀の子・頼常を養子に迎え、長幼の序を正しました。



それでは玉藻公園の中へ。



旭橋から入ったところは、旭門跡の枡形虎口。
もともとは旭橋も旭門もなかったのですが、藩主の住まいが造成されたことによりあらたに備わりました。



内側からの艮櫓
この櫓は元からここにあったわけではなく、旧東の丸(現在はない)の北東側に建っていたものを移築したものです。



公園の南側に広がる桜の馬場
文字どおり桜の名所で、この日は花見のイベントがありました。



「高松」というだけあって、小ぎれいな松が立ち並びます。
しかしなにやら工事中。
内堀にある仮設の通路を通るよう要求されてしまいます。



内堀の向こうは、豪快な野面積みの石垣が威容を示す三の丸
この日は工事のため、画像左端にチラッと見える仮設通路を歩きます。



内堀の水上を行く仮設通路。
向こう側は堅固な石垣が組まれた本丸
本丸の突端にあるより高い石垣が天守台です。



三の丸にまわってきました。
通行止めゾーンにあるのは、桜御門跡
三の丸の入口を守る櫓門でしたが、戦災により焼失してしまいました。







三の丸には、藩主の住まいであった披雲閣【国指定重要文化財】があります。
江戸時代には御殿で、藩の政庁と藩主の住まいを兼ねており、現在の2倍の大きさがあったといいます。
現在の披雲閣は、大正時代に松平家によってあらたに建てられたものです。



玄関の左右には格式の高い舞良戸、正面には「披雲閣」の扁額が掲げられています。



この日は貸切のため、中には入れませんでした。


仕方がないので先に進みます。



披雲閣の脇を抜ける門をくぐると・・・



三の丸にひろがっている披雲閣庭園【国指定名勝】です。

 

庭園内を歩き、披雲閣の裏手まで来ました。

 

ああ、あなたがたが貸切ってたんですねぇ。



松の向こうに櫓が見えてきたら、庭園内の散策はそろそろ終わり。



庭園の出口に「ど根性松」が立っています。
岩の裂け目に落ちた種子が生長したのだとか。
一時期はやった「ど根性」ナントカのひとつですな~。





披雲閣庭園を出たところで、高松城攻めは後半戦へ。





今治城・後章~スタンプラリーは時間との闘い

2016-01-04 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 後 4 時 2 6 分

愛 媛 県 今 治 市

今 治 城 天 守 閣



天守の中で、100名城スタンプとともに見つけてしまったこの台紙。



「今治城櫓めぐりスタンプラリー」です。
スタンプを全部そろえると景品がもらえる・・・とのことで、旅の思い出づくりにスタンプラリーに挑みます。

さっそく「1.天守」のスタンプを頂戴いたしますよ~。



1番、天守!
絵柄は天守閣とゆるきゃら「バリィさん」です。


さてさてこの天守、歴史的価値の観点から分別すると「模擬天守」という種別にあたります。

歴史的価値の高い順に・・・
1.現存天守 ・・・ 天守が現役であった江戸時代までに完成した天守で、それ以降ずっと残っているもの。
2.再建天守 ・・・ 天守が使用されない明治時代以降に再建された天守で、現役時代の工法をもって再建されたもの。
3.復興天守 ・・・ 明治時代以降に再建された天守で、現代の工法で再建されたもの。
4.模擬天守 ・・・ 天守がなかったり、天守があった当時とは外観があきらかに異なるなど、史実に基づかない天守。

そして今治城には天守がなかった・・・わけではなく、藤堂高虎が築城した当時は層塔型の天守があったとの記録があります。
ただし、天守があった期間は短く、その天守も丹波亀山城(京都府)に移築されたそうです。



そして現在再建された天守は望楼型で、移築されたとされる丹波亀山城の天守とは外観が異なることから、史実に基づいていないとされ「模擬天守」とされるのです。



100名城スタンプの絵柄が天守でないのは、このあたりに要因があるのかもしれませんね。



時刻は午後4時半を回ろうとしています。
今治城の閉城時刻が午後5時。
そしてレンタサイクルの返却時刻も午後5時。
スタンプラリーは時間との闘いとなってきました。



天守から出た私は、櫓を反時計回りにめぐることとしました。
すなわち次に向かうは、



北東にある御金櫓【再建】です。



なにかの石碑のようですが、時間がない私は読まずにスキップ。



今治城2体目の銅像。下の字は読めません。
碑文に目をやると、「今治綿業の父」矢野七三郎の像のようです。
そういえば今治はタオル生産日本一の街。
おみやげに1枚買って帰るのもいいかもしれません。



城壁沿いの武者走りを駆け上り、御金櫓に到着。



2番、御金櫓!
そして御金櫓の中ではなにやら絵画が展示されています。
どうも各々の櫓が小さな展示会をやっているかのようです。



私の目を惹いた1枚。
私にはあーとへの造詣はないので、この絵をどう評するかは読者の皆様に委ねたいと思います。



御金櫓を出ると、西日に照らされた逆光の天守。



北東の御金櫓を制し(?)、



次は北西の(くろがね)御門【再建】ではなく、そのそばの武具櫓【再建】です。

 

西側の城壁に上がったところからの模擬天守はなかなか画になってます。



武具櫓に到着、このとき時刻は午後4時38分。



お先に4番、鉄御門&武具櫓!
さあ残るは「3.山里櫓」だけだ~と思っていたら、武具櫓のおっちゃんいわく。

「山里櫓はもう閉まってると思うから~」

なにっ!? ここでは5分前行動ならぬ20分前行動なのか!?
しかしおっちゃん、

「残りのスタンプも押してください」



3番、山里櫓! そして・・・



達成スタンプ! 藤堂高虎公!!



思いがけずスタンプ制覇を成し遂げたので、景品のもらえる天守に戻ります。
その時刻、午後4時46分。
天守の看板を見ると、「入場は4時30分ごろまで」とあるので、相当ギリギリであるといえます。

さてと、景品は何かな~?



おおっ、これはなかなか素敵な絵はがきですな~(*^_^*)
うんうん、スタンプを必死になって(^_^;)かき集めた甲斐があるってものです。



スタンプはそろい、景品ももらいましたが、



天守の西側・山里櫓【再建】のほうにも行ってみました。



鉄御門とは反対側のこちらにも櫓門が構えられています。



櫓門を出たところからの天守はなんとも端整で美しい!



さざなみひとつなく、水鏡のごとき水濠と、往時の姿を残す石垣。



武具櫓のほうを望みます。
今治城の水濠は意外と大きいことがわかります。
現在は埋め立てられてしまいましたが、海から船がお濠に入ってくる姿が思い起こされます。




午 後 4 時 5 2 分

今 治 城 を 出 る


おだやかな晴天、夕日の朱に染まる天守を見てみたかったのですが・・・



「おのみち010940A」の返却期限が間近に迫っています!!
レンタサイクルのおっちゃんが突き付けてきた非情なる条件・・・

17時までに返却すれば、おつりの500円と保証金1,000円をお返しします。
17時までに帰ってこなかったら、1,500円はボッシュートね(^^♪


この1,500円惜しさに、私は「おのみち010940A」にまたがり、この日2度目のチャリで暴走。
今治市街を颯爽と・・・なんてものではなく無我夢中で駆け抜けて、今治駅臨時レンタサイクルターミナルに到着。

時刻は午後5時を回っていましたが、おっちゃんは帰らずにいて、無事1,500円を奪還したのでした。





今治城・前章~築城の名手

2016-01-03 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 後 3 時 4 1 分

J R 今 治 駅 南 口



この日は松山城湯築城?と続き、最後の3城目が今治城



今治駅の南口。
今回もレンタサイクルの力を借りるべく、予讃線の高架ぞいに東へ歩き、JR今治駅臨時レンタサイクルターミナルへ。



今治で借りた自転車「おのみち010940A」です。
なぜ「おのみち」??
今治と尾道は瀬戸内海を挟んで対岸にある街。
その2つの街を結ぶしまなみ海道をサイクリングしたい、と思うのは至極当然のこと。
ここのレンタサイクルは対岸の尾道で乗り捨てることができるのです。
そのかわり故障・紛失のリスクも高いため、借用時には賃料を支払うほかに保証金を預ける必要があります。
(ただし乗り捨ての場合、保証金は没収されます)

レンタル料金は1日1,000円と割高。保証料も1,000円。
ですが、今治にいる2時間程度で1,000円は高いと察してくれたのか、レンタル料金は半額の500円にしてくれました。
ただしおつりの500円玉を持ち合わせていないということで、おっちゃんには2,000円を預けます。
そのかわりに非情なる条件が。

17時までに返却すれば、おつりの500円と保証金1,000円をお返しします。
17時までに帰ってこなかったら、2,000円はボッシュートね(^^♪


営業時間は17時で終わりで、(早ぇとこ家に帰りたい)おっちゃんは帰っちゃうのだと。
ということは、明日高松市内をめぐる私にとっては、17時に戻らないと1,500円を諦めなければならないことになります。
時刻は午後4時に差しかかろうというところ。
今治城をめぐる時間は1時間もなさそうです。



「おのみち010940A」にまたがった私は、今治市街を颯爽と駆け抜けて、



レンタサイクルターミナルから10分ほどで今治城に到着しました。



御門をくぐる前に水濠を見渡しましょう。

 

今治城は讃岐高松城豊前中津城とともに「日本三大海城」のひとつとされています。
まぁ、この「日本三大○○」自体不明確なものではあるのですが・・・ともかく今治城は海のそばにあるということで、その水濠は海水を引いています。
右の画像にある濠からの水路は海に通じています。



水濠に泳ぐ魚は海水魚のチヌ(クロダイ)です。



それでは入城。

 

二の丸を守る(くろがね)御門【再建】です。
現在再建されているのは櫓門であるこの門のみですが、往時はこの門の前にもうひとつ門があって、枡形虎口を形成していました。



鉄御門の脇には武具櫓が建っています。


鉄御門をくぐった先に、さっそくご登場。



晴天を貫かん勢いで直立する天守【模擬】と、その主の銅像。



 

藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、今治城をはじめ宇和島城伊賀上野城江戸城など多くの築城に携わり、黒田官兵衛孝高加藤清正とともに「築城の名手」と称されます。
また主君を7回変えた武将ですが、そのたびに禄高を高めていきました。
はじめは出身地・近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、浅井家滅亡後はその旧臣阿閉貞征(あつじさだゆき)、次いで同じく浅井旧臣の磯野員昌(かずまさ)、員昌の養子となっていた津田信澄織田信長の甥)の家臣として仕えます。
しかしいずれも長続きせず、津田信澄とはそりが合わなかったようで、やがてその元を去ります。
次に仕えた信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長は高虎の能力を高く評価し、高虎も功績を重ねていき大名に列せられるまでになりました。
天正19年(1591年)、高虎の最大の理解者ともいえる豊臣秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保に仕えますが、秀保が早世するとその菩提を弔うべく出家して高野山に上ってしまいます。
しかしその将才を惜しんだ豊臣秀吉が呼び戻したため還俗、さらに伊予国板島7万石の大名に封ぜられました。このときに宇和島城を築城し、「板島」から「宇和島」に改称しています。

慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から徳川家康に急接近していきます。高虎は豊臣恩顧の武将ともいえますが、家康の天下泰平の志を理解していたから家康についたといいます。
関ヶ原の戦いでは東軍につき、西軍の名将・大谷吉嗣(よしつぐ)と死闘を演じ、戦後に家康から宇和島の所領に加えて今治20万石に加増されました。
関ヶ原の戦いの後は天下泰平の時代が近いと考えた高虎は、交通の便の良い港近くに今治城を築城しました。
以後は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などに携わり、伊賀伊勢22万石に加増移封され、津藩主となります。
家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながらも譜代大名と同等に重用しました。
大坂の陣では徳川方として参戦し、豊臣方の長宗我部盛親隊と死闘を演じ、戦後32万石に加増されました。
家康死後は2代将軍秀忠、3代将軍家光に仕え、寛永7年(1630年)10月5日に江戸で亡くなります。享年75。


ちなみに東京の神田和泉(いずみ)町は、津藩の藩邸があったところで、高虎の官位であった和泉守からその名がついています。



次は天守に向かいます。



天守に入るには、まず櫓門をくぐって本丸に入ります。



本丸にある吹揚神社を正面にして、その右側に天守への入口があります。
天守への入場料は、大人500円。
天守内は資料館になっています。



なぜ仕込み杖?

「細身の刀剣を杖の中に仕込んで、杖と武器を兼用したもの。明治期の廃刀令(明治10年3月28日)以降、護身用としてさまざまな形の仕込み杖が作られた。」

説明書きより。これだけだとなんで今治城の資料館に置かれているか疑問なのですが、

「この仕込み杖は、今治藩の最後の藩主であった松平定法が所用したものと伝わる。
 握り手の突起を押すと、留め金がはずれ、杖から刀を抜きだすことができる構造となっている」


なるほどねぇ~。
この仕込み杖が唯一私の気を引いた資料でした。


天守最上階に到達。



遠く北西を見渡すと瀬戸内海、そしてしまなみ海道・来島海峡大橋が見えます。



また遠くを見ずに見下ろすと、先ほどの鉄御門藤堂高虎公像
水濠の向こうには今治港が至近にあることがわかり、今治城が海城(水城)であることがよくわかります。



天守の北東には御金櫓【再建】という隅櫓が建っています。
やはり向こうには海が見えますね。



天守の西側には山里櫓【再建】が建ちます。


天守からの眺めをひととおり味わったところで、忘れてはいけない100名城スタンプ。



79番、今治城!
絵柄は意外なことに天守ではなく隅櫓。おそらくは武具櫓だと思われるのですが・・・なぜでしょう?
その理由と思われる事柄は次話に回すとして・・・



ここでも見つけてしまったスタンプラリー!
しかも今治城のスタンプラリーは景品付き!

というわけで、城攻めとスタンプラリーを兼ねつつ、城内を回っていきます。





湯築城登城?

2015-12-21 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 2 3 分

勝 山 公 園 ・ 松 山 城 三 之 丸



松山城からの退路を誤り、思わぬ時間を食ってしまいました。
とりあえずレンタサイクル「174号」のもとにたどりつきました。



さて松山市内にはもうひとつ日本100名城が存在します。
それは湯築ゆづき
現在はすでに建物はなく、道後公園となっています。

「道後公園」ということは、あの有名な?道後温泉も近くにあるということです。

ともかく「174号」を駆って、湯築城へ急ぎます。



この日の予定もあいまって、松山に滞在できる時間は限られています。
13時34分発の伊予西条行きの電車に間に合うようにするためにも、残り時間は約1時間。


伊予鉄道の路面電車とともに、松山市内を急いで走り抜けます。



松山城三之丸内にある愛媛県庁舎・本館です。
昭和4年に落成し、今もなお現役の庁舎です。
現役の都道府県庁舎では3番目に古いもので、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」ではヒロインが入院している病院のシーンでロケ地として使われたそうです。



愛媛県庁舎からほどなく近くにある大街道商店街のアーケード。
ここいらでランチやおみやを・・・なんて余裕はありません。

いよてつの路面電車とともに、道後方面をめざしひた走ります。




午 後 1 2 時 3 6 分

道 後 公 園 に 到 着




いよてつの道後公園電停の向かいに、

 

道後公園・湯築城址があります。


湯築城は、1335年ごろに伊予の守護大名河野通盛みちもりにより築城されたといいます。

戦国時代の1535年ごろ、河野弾正少弼通直みちなおにより外濠が設けられ、縄張りが現在のかたちとなりました。

弾正少弼だんじょうのしょうすけ」は通直が任じられた官位です。
弾正少弼通直の孫は伊予守通直と同じ名を名乗っています。

弾正少弼通直の代には、近隣の村上水軍と縁戚関係を結びますが、のちに離反されてしまいます。
また家中では後継争いなどが勃発し、勢力が弱まってしまいます。

伊予守通直の代になると、周囲が騒がしくなります。
隣国の土佐からは四国統一をもくろむ長宗我部元親ちょうそがべもとちかが攻め込んできます。
このときは瀬戸内海の向こうの毛利氏からの援軍を得て、なんとか自立を保ちました。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国攻めが始まると、毛利一族の小早川隆景の軍勢の前に降伏を余儀なくされます。
ここに大名としての河野家は滅亡しました。

河野氏のあとは、小早川隆景が城主となりますが、隆景はその後筑後国へ移ります。
その後は福島正則が城主となりましたが、天正15年(1587年)居城を国分山へ移したため廃城となりました。



というわけで、松山城に比べると経歴もパッとしない湯築城。
城主の河野氏は、「信長の野望」シリーズでも、瀬戸内海を越えてきた毛利家に攻められて滅亡したり(史実通り?)、土佐の長宗我部元親に滅ぼされたり、まれに豊後水道を越えてきた大友宗麟に攻められたりと、やられ役になってしまいがち。
しかしながら・・・

河野氏の隆盛は、まず源平合戦の時代にさかのぼります。
河野通信みちのぶは源氏方につき、屋島の戦い壇ノ浦の戦いに参戦し、その恩賞として伊予国の守護に任じられました。
しかし通信は、源氏将軍滅亡後の承久の乱では朝廷方(後鳥羽上皇方)についてしまい没落の憂き目を見ます。
通信のひ孫である通有みちありは、元寇(弘安の役)で活躍し、河野氏の復権につながりました。
南北朝時代、室町時代を通じ、足利将軍家や、大内氏、大友氏、毛利氏などの有力大名と同盟して伊予国の支配を守ってきましたが、やがて勢力は衰えていきました。

なお、鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、通信の孫にあたります。



うんうん、河野氏はなかなか頑張ったんだねぇ~。
「信長の野望」ではあっさり滅亡しちゃうけど(^_^;)


それでは湯築城登城開始。

まずは道後公園入口から連なる土塁
おそらくは水濠の盛り土から成るのでしょうか。

 

西側から登城しましたが、本来こちら側は搦め手(裏手)にあたります。



そして弾正少弼通直のころに設けられた湯付堀とよばれる水濠。


近くには資料館復元武家屋敷があるのですが・・・時間がない。



というわけで、観音寺城登城のときも使った手段で・・・



80番、湯築城!!



12時43分、滞在時間わずか7分にして、私は湯築城を後にしました。




午 後 1 2 時 5 2 分

ふ た た び 道 後 公 園


少しだけ時間がありそうだったので、道後公園の中を歩いてみました。

 

 



内側の水濠に沿って歩くと、日本庭園のような趣きを感じました。



12時55分、湯築城を退去。





松山城・最終章~意地悪すぎる天守

2015-12-10 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 2 7 分

松 山 城 天 守



松山城を登城して1時間経過。

たかだか1時間のことなのに、3話も使ってしまうほどに奥の深い松山城です。
今回で松山城は最終話です。約束しましょう!!



さて本丸に入った足軽(妄想中)の私は推定35機ほど討ち取られ、ようやく最奥の場所に着きます。



う~ん、敗因は・・・
カマこうげき!!を捨てて竹槍を取っちゃったり、大根を食べて異常にスピードが上がっちゃったりしたから・・・

そんなわけはなく、天守群の守りが厳重すぎて四方八方から狙撃を受ける格好になっているためです。




天守【国指定重要文化財】の足元にある入口・穀倉【国指定重要文化財】から、内部に入ります。


靴を脱いで入ると、さっそく100名城スタンプが置いてあります。



81番、伊予松山城!
絵柄はもちろん天守群ですね。

ちなみに「伊予」と(この期に及んで)つけましたが、100名城にはもうひとつ備中松山城が岡山県にあるのです。
そしてこちらも現存12天守のひとつを擁する名城です。


天守から、まずは内門【復元】に入ります。



内門から天守広場を望みます。
ここから女の子敵兵を狙い撃ちしたわけです。



反対側の窓からは仕切門内塀【国指定重要文化財】と、その先には松山の街が見えます。
こちら側は天守の裏手にあたります。


天守群の内部は資料館になっています。
松山城に限らずたいていの城はそうですが・・・ここで目を惹く1領の具足が。



よく展示されている名の知らぬ誰それの具足と思っていたら・・・
角頭巾形鳥尾飾兜すみずきんなりとりおかざりかぶと漆塗佛胴六間草摺素懸威鎧うるしぬりぶつどうろっけんくさずりすがけおどしよろい加藤嘉明着用と記されているではありませんか!
ただあくまで「加藤嘉明着用と伝えられる」とあるので、いわばホンモノかどうかはわかりません。

ただこのクソ意地悪い天守を考案した本人の具足と思うと、わくわくするものがあります。


内門から北隅櫓【復元】へ。



左から乾門いぬいもん東続櫓【復元】&乾門【復元】、乾櫓【国指定重要文化財】、やや手前に野原櫓【国指定重要文化財】。
松山城の搦め手を守る防衛ラインが一望できます。
つまりは、乾門を突破した足軽をここから狙撃するわけです。



今度は反対側の窓。
天守広場と、左から天守の一部、筋鉄門【復元】、小天守【復元】です。


続いて南隅櫓【復元】に移動。



南隅櫓からは本丸の様子がまるわかりです。
つまりは本丸に立った時点でここから狙われてしまうわけです!!

手前の平屋の建物が券売所です。
その先の二階建てのやぐらが馬具櫓【復元】。おそらく馬具を格納していたのでしょうか。
さらに先の左右のやぐらが、それぞれ太鼓櫓【復元】(右)、太鼓門北続櫓【復元】(左奥)です。
太鼓門北続櫓の手前には、伝承多い井戸がたたずんでいます。



南西方向を見やると、この日は入れなかった二之丸(二之丸史跡庭園)、その向こうに自転車を停めた三之丸



三之丸のさらに先には、松山市街が広がっています。
ぼんやりして見えにくいですが、中央に見える円は「くるりん」という観覧車で、そこに伊予鉄道松山市駅があります。


小天守に入りました。



小天守からの眺望その壱。
右下の一ノ門【国指定重要文化財】から入って、中央の三ノ門南櫓の裏にある二ノ門【国指定重要文化財】を通り、左の三ノ門【国指定重要文化財】をくぐって、左下に続く仕切門【国指定重要文化財】から天守広場に行けます。
しかしその通路のほとんどが小天守からの射程圏内。
しかも狭い通路とあって、通過には相当の犠牲を払う必要がありそうです。



小天守からの天守広場
北隅櫓玄関から内門が続きます。



小天守の窓からの天守
次はいよいよ天守に登ります。



天守に登る階段。
現存天守らしく傾斜は45度を超える急なものとなっています。
女性の方はスカートを防衛する策を講じなければなりませんなぁ(*^_^*)



天守内にある石落とし
「石落とし」という名称ですが、実際にはここから石を落とすのではなく、鉄砲を突きだして狙撃をしていたようです。


天守の最上層に着きました。



天守から東を望みます。
次に行く湯築城道後公園はあのあたりかな?



天守の北側。
松山の街は大きいですなぁ。



天守の南側は本丸の様子がよくわかります。
本丸にいるだけで天守からの射程圏内というわけです。



天守からの眺望を愉しみ、天守群から戻ります。



帰りは仕切門【国指定重要文化財】から出ました。

・・・記述がずいぶんあっさりですが、出ました。



天守群入口に、城主のこの御方がいらっしゃいました。



松山城公式マスコットキャラクター「よしあきくん」です。


松山城を築城した加藤嘉明(かとう よしあきは、豊臣秀吉の子飼いの部下のひとり。
柴田勝家と秀吉との間で起きた賤ヶ岳の戦いで活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられるほどの武功を挙げました。
その後は四国征伐朝鮮出兵で活躍。
伊予正木(現在の松山周辺)6万石の大名となりました。

そのころ宇和島には藤堂高虎が7万石の大名として統治していました。
嘉明と高虎は領地が隣接していたためいさかいを繰り返し、また熾烈な戦功争いを繰り広げます。

秀吉死後は、徳川家康に与し、関ヶ原の戦いでは西軍の首魁石田三成本隊と交戦し、戦功を上げました。
戦後は20万石に加増。
高虎も今治などの領地を与えられ、同じく20万石の大名となります。

嘉明は家康の許可を得て居城を移転し、「松山」と改称しました。

松山城がひとまず完成した直後の寛永4年(1627年)、蒲生氏の減封にともない、所領が伊予松山から陸奥会津若松に移ることとなりました。
石高は倍増の43万石。
この移封には、長年のライバルであった藤堂高虎が将軍徳川家光に薦めたことにより実現しました。
長年いがみ合っていた嘉明と高虎は、この件により和解し、以後は親しく接したといいます。

寛永8年(1631年)江戸在住のおりに死去。享年69。



藤堂高虎は戦国時代で一二を争う築城の名手とされますが、いやいや加藤嘉明も負けてはいません!!
それはこの松山城を歩けばすぐにわかるでしょう。





帰りはルートを変えて、搦め手にあたる乾門から退出しました。





松山城・第3章~難攻不落の天守

2015-11-29 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 1 3 分

松 山 城 本 丸





天守に討ち入ります!

券売所で入場券を購入します。
入場料は、大人510円。



天守群入口で、のっけから天守【国指定重要文化財】がお出迎え。
少し見えにくいですが、天守は塀(筋鉄門東塀【国指定重要文化財】)によって隔てられています。
画像左側はこれまた見えにくいのですが、小天守【復元】です。



少し後退しました。
小天守がよく見えます。
その向こうは先に見てきた南隅櫓【復元】です。



小天守(左)と天守、いちおう筋鉄門東塀
右上に見える屋根は、一ノ門南櫓【国指定重要文化財】のものです。



それでは討ち入りましょう!
最初の門は一ノ門【国指定重要文化財】。
中央のやぐらは三ノ門南櫓【国指定重要文化財】で、そこから筋鉄門東塀が続いています。
天守もちらっと見えますね。



一ノ門をくぐって振り返りました。
門の頭上には小天守がそびえます。
一ノ門の左そばにあるやぐらが一ノ門南櫓です。



一ノ門を通過すると、目の前にやぐらが控えており、進路が左に折れ曲がります。
その曲がり角に控えるのが二ノ門【国指定重要文化財】です。
この門で進軍の勢いを削がれた上に、左側の三ノ門南櫓の銃眼から狙撃を食らうわけです。



二ノ門を通過すると、狭かった進路から広いスペースへ。
天守へ向かうには、このまま進む・・・こともできますが、ここを左にターンをかまして、



天守の足元にある三ノ門【国指定重要文化財】に進む必要があります。



三ノ門をくぐったところ。
そばにある塀(三ノ門東塀【国指定重要文化財】)からは、二ノ門を通過してきた軍勢を狙撃できます。



同じく三ノ門をくぐって目の前にある三ノ門南櫓です。



三ノ門南櫓の壇から見える小天守
ということは、このあたりは小天守からの射程内。



三ノ門の先にある筋鉄門【復元】。
左は筋鉄門東塀、右は天守に包囲され、さらに筋鉄門は櫓門なので、周囲からの狙撃にさらされる危険地帯です。


登城時に城を攻める足軽の気分に浸りながら進む私の妄想ですが、四方八方からの銃弾の雨をかいくぐって筋鉄門を通過すると、ようやく天守広場に到達。
おそらくここまで来るのに私は何度討ち取られていることでしょうか。



くぐって来た筋鉄門と、そのかたわらにそびえる小天守
広場の中央からながめています。
こんなところに立ってたら、戦のときでは蜂の巣にされてしまうところですが・・・ここから時計回りにながめ、



小天守から続く多聞櫓【復元】、二階建てになっていて城外ににらみをきかす南隅櫓【復元】、そこから続く十間廊下【復元】。



十間廊下から北隅櫓、これらの連結天守に入る玄関
玄関ではありますが、現在はここから天守内部に入るのではありません。



玄関から続き、裏手の門にあたる内門【復元】、そして天守【国指定重要文化財】です!!



天守筋鉄門です。
天守の足元にある穴は穀倉【国指定重要文化財】で、現在の天守入口です。



松山城、奥が深すぎます。
2話構成の予定でしたが伸びに伸びて、まだ完結できません!!


というわけで天守の中に入って、松山城はいよいよ最終章です。





松山城・第2章~天守を前にして

2015-11-21 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 1 分

松 山 城 本 丸





本丸の茶屋で一服したあとは、いよいよあこがれの天守群に討ち入ります!



討ち入りますよぉ~!



討ち入りますよぉ~!!



おや? 天守の入口とは違うところにある高麗門。
この門は紫竹門【国指定重要文化財】です。



紫竹門の先にも櫓が連なっているようです。



高い石垣がこれでもかと連なっています。



紫竹門をくぐりました。
門の前には、このように竹が植えられていたそうです。
門の上にそびえ立つのは、天守群の一角をなす小天守【復元】。



小天守から続いて、天守群の隅に立つ南隅櫓【復元】。
こちらのルートは松山城の裏手のようですが、防御が固いです。



天守群からいったん離れると、すぐに搦め手を守る乾門東続櫓【復元】、乾門【復元】、乾櫓【国指定重要文化財】が現れます。
紫竹門付近の崖っぷちから見えていた櫓群は、これらの門構えです。
「乾(戌亥・いぬい)」は、方角で北西に当たります。





この先は搦め手のルートです。
門扉の上が格子になっているのは、敵方の動きを見通せるようにする工夫なのだそうです。



ちょっとだけ乾門を出て、乾櫓を見上げます。
さすがは戦国の生き残り・加藤嘉明が建てた名城、裏手の守りもしっかりしています。



松山城は、慶長7年(1602年)加藤嘉明により工事が着手され、翌年に嘉明の居城となりました。
このとき「松山」の名称がついたといいます。
その後も工事は継続、寛永4年(1627年)に一応の完成を見ました。

しかし嘉明は、完成直前に伊予松山20万石から陸奥会津40万石に転封となりました。
あらたに蒲生忠知会津若松城を大改修した氏郷の孫)が、出羽上山から移りました。
忠知は二之丸の築造を行い、完成させましたが早くして亡くなり、嗣子不在のため断絶となってしまいます。

この後伊勢桑名より松平氏が入り、明治維新まで伊予松山を治めました。

その間松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の治世の天明4年(1784年)、落雷により天守が焼失してしまいます。
その3代後の松平勝善により城郭復興がなされ、安政元年(1854年)天守も蘇りました。
これが現在の天守です。




乾門から紫竹門に戻ります。



さきほどの南隅櫓(右側)と北隅櫓【復元】、それらをつなぐ十間廊下【復元】。



天守群や、乾門の防衛ラインとは離れたところにある野原櫓【国指定重要文化財】。
唯一現存している望楼型二階櫓で、松山城天守の原型になったともいいます。





紫竹門から本丸に入り、天守群の正面に戻りました。



今度こそ、天守に討ち入ります!





松山城・第1章~歩いて本丸へ

2015-11-18 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 0 0 分

J R 松 山 駅



早朝高松を発った私は、午前10時に松山に到着。



松山駅で時刻表を確認したところ、松山の滞在可能時間はわずか3時間半。
というわけで、私はよたび自転車の力を借りることにしました。

松山駅東口から出て、道路を渡らずに2分ほど歩いたところにある松山駅前観光レンタサイクルポート
松山市営のレンタサイクルで、1日300円で自転車を借りることができます。
松山駅前のほかに、3ヶ所のレンタサイクルポートがあって、借りたところとは別のポートに乗り捨てることもできます。

・・・が、3時間半後に松山駅に戻らねばならないため、乗り捨ては最初から考えていませんでした。



松山観光レンタサイクル「174号」にまたがって、この日最初の城・松山城へ。




午 前 1 0 時 1 9 分

松 山 城 に 到 着


松山駅東口からそのまままっすぐ、伊予鉄道の路面電車とともに進んでいくと、城郭の水濠にぶつかります。



水濠の内側に広がる三之丸(堀之内三之丸)
山の頂きには、早くも憧れの天守閣群が見えています!



地図のにある駐輪場に「174号」を停めて・・・いざ、進軍!!



三之丸と二之丸を隔てる城壁は復元されたものです。
そこそこ傾斜のある坂を上っていき・・・



向こう側から回り込み・・・







槻門(けやきもん)を通って、二之丸に入りました。
槻門は、真っ向から本丸へ向かう大手道と、二之丸から迂回して大手道の裏手へ出る搦め手との分岐点にあたり、往時は大きな櫓門が構えていたそうです。



二之丸は・・・通過。

二之丸にある二之丸史跡庭園は、この日は工事中で中に入れませんでした・・・(-_-;)



この石垣の向こうに見える坂道。
本丸へ至る登山道が始まります。



残念ながら入れなかった二之丸史跡庭園をのぞき見してみると・・・何じゃ、この軽自動車は!?
おま・・・自重しなさいよぉ(-_-;)
自動車はここまで入ってよかったのか・・・。





ところどころに石垣が築かれています。
おそらくは復元されたものだと思いますが、松山城の防御力の高さが思い起こされます。



いよいよ本格的な山道へ。

そういえば、この日は・・・いや、この日に限ったことではないのかもしれませんが・・・やたらと登山道を走っていくランナーを目にしたような気がします。
山道といっても、標高は60メートルほどだそうなので、ちょっとした負荷をかけるランニングにはちょうどいいのかもしれません。



一部の読者には不評かもしれませんが・・・山ガール? ランガール?
ランガールなんて言葉はあまり聞いたことはないですねぇ。



(仮称)山ガールに後れて登山道を踏破。
なんと! 山ガールはそのままUターンして、登山道を駆け下りていきました。
えらくつらそうな感じにも見えましたが、ここで山ガールとはお別れ。



坂道を上りきって、いよいよ本丸へ。
この地点は大手門跡で、ロープウェイを使って上ってきた観光客との合流地点でもあり、ここから人がかなり増え始めます。

私? 私は山城は自力で上り、往時の足軽の苦労を偲ぶのを旨としているので、ロープウェイなぞ使いません!



本丸に入る前に太鼓櫓【復元】が見えました。
大手門跡からの登城道は、ここでヘアピンカーブがかかります。
進軍の勢いを削ぐための工夫ですな。



石垣の角の見事なしなりっぷり!!
世にいう「扇の勾配」です!!




大手門がないため、現在の本丸最初の門は戸無門【国指定重要文化財】です。
この門は築城当初から門扉がなかったといい、柱に門扉を取り付けた痕跡がまったく見当たらないのだそうです。



戸無門から入り、ふたたびヘアピンカーブを曲がると、今度は扉で固く守られた筒井門【復元】が待ち受けます。
頭上がやぐらとなっている固い櫓門です。
そして門の先が坂道になっているのは、門を突破されたときに敵兵の勢いを和らげ、敵方からの視界をさえぎることで防御力を上げています。



筒井門をくぐって振り返ります。
守兵は、門を突破してきた敵兵を三方から包囲して攻撃することができます。



もう一回筒井門の外に出ます。
おやおや・・・熱心な城マニアでしょうか?
そうではなくて・・・その城マニア氏の背後から道が続いていますね。
その先にも門があって、



その門をくぐった先がこちら。
筒井門の石垣の陰に隠れて目立たないこの門は隠門(かくれもん)【国指定重要文化財】です。
ふだんは使われない門で、戦闘時にこの門から出撃し敵兵を挟撃するための門だったそうです。

隠門の上に連なるやぐらは隠門続櫓です。
東側からの登城道を監視する目的があり、隠門とともに築城当時から残っています。


筒井門の先に、またも門が構えています。



筒井門をくぐる前に見えた太鼓櫓(左)と、そこから門まで続く太鼓門西塀

 

登城道はまたもぐるりとねじ曲がり、太鼓門【復元】にぶつかります。
名の由来は、時を知らせる太鼓が置かれていた・・・のだと思います。

 

おやおや・・・熱心な城マニア氏・・・ではなく、太鼓門に隣接するやぐらは(たつみ)
1層目の屋根に三角形の千鳥破風がついているおしゃれな櫓ですが、ここから太鼓門・太鼓櫓のラインが、筒井門を突破した敵兵を防ぐ第2の防衛ラインでした。
「巽」は東南の方角の意です。



太鼓門付近から北東方向を眺めてみました。
次の目的地・湯築城道後温泉はあのあたりかな?



太鼓門をくぐって振り返ると、筒井門のときと同じようになっていますね。



石垣が素晴らしい太鼓櫓ですが、内側はいたってシンプルなものです。


太鼓門を通過して、ようやく見えてきました。



あこがれの松山城天守群です!!
天守群にはあとでゆっくり回るとして・・・



本丸にたたずむごりっぱな井戸です。
この井戸は、築城当時から戦災で焼失するまで稼働していたそうです。

「・・・井戸には、①底がない、②天守と二之丸への抜け穴がある、③大こうもりがいる、④水をきれいにするため大判・小判が投げ込まれている、などの伝承が残されていましたが、いずれも真実でないことがわかっています。

案内表示より抜粋。
オカルトを一刀両断するお役所仕事を拝見したところで・・・



いよかんソフトクリーム! すっぱうまい!

井戸のそばにあった茶屋で一服して、いよいよあこがれの天守群に討ち入ります!





丸亀城~日本一の高石垣

2015-10-27 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 0 日 ( 金 )

午 後 2 時 0 7 分

香 川 県 丸 亀 市

J R 丸 亀 駅



四国へ渡って、最初に下車したJR丸亀駅
ここでの目的は、現存12天守のひとつを擁する丸亀城【国指定史跡】です。

現存12天守のうち、丸亀城の天守はもっとも小さいものとされています。
しかしそれを補って余りある魅力が、日本一とされる高い石垣です。

私がこの旅で楽しみにしていた城のひとつでもあります。


安土、岡山に続き、丸亀でもレンタサイクルの力を借ります。



「まるがめ」の文字が入った、アヒルのエンブレム?
・・・いやいや、ここで亀なんて誰もが考えうるものを使ったところで、失笑を買うだけか・・・なかなかやるのぅ。



そして、JR丸亀駅南口から自転車で10分ほど。





北面に堂々と構えているのは、日本最小の現存天守である丸亀城天守【国指定重要文化財】です!
連なる高石垣に固められた天守は、小さくも凛として立つ姿が孤高であり、かえって威厳を醸しだしているようで美しいです。

そして正面の入口である大手門【国指定重要文化財】は、外側の高麗門が大手二の門、内側の櫓門が大手一の門です。
2つの門で四方を包囲する枡形虎口を形成しています。


丸亀城は、讃岐国の領主となった生駒親正(ちかまさ)によって、小高い丘であった亀山に築かれました。

親正は、まず天正15年(1587年)に豊臣秀吉より讃岐国を与えられると、高松城を築きました。
そして慶長2年(1597年)に讃岐の西部の備えとして丸亀城の築城を始め、慶長7年(1602年)に完成しました。
しかしその後江戸幕府より一国一城令が発布されると、丸亀城は廃城することになります。

その後生駒家が所領没収になり、寛永18年(1641年)山家治(いえはる)が讃岐国西半分の領主となると、廃城となっていた丸亀城は再築されます。
家治死後、山家は後継がなく断絶となると、京極高和が領主となります。
このころ丸亀城は復興し、現在までその姿をとどめています。




レンタサイクルは、大手門と道路を挟んで向かいにある丸亀市生涯学習センターの駐輪場に停めて・・・



大手一の門をくぐります。
大手門から天守が現在もなお望める光景は、意外なことに日本全国を探してもなかなかお目にかかれなかったりします。



櫓が備わっている大手二の門です。
この先は、山下曲輪と呼ばれる一帯。
山の下の平地だから「山下」曲輪という、なんともダイレクトなネーミングです。


大手門から山上まで上る坂は、見返り坂という名がついています。



自転車で上るのは困難であろう、急な斜面。
あまりに急な傾斜のため、ついつい後ろを見返してしまうことから、その名がついたそうです。



「扇の勾配」と呼ばれる、反り返った美しい曲線。



高浜虚子の句碑が立っていますが、それがまったくかすんでしまうくらいの重厚な石垣。

稲むしろあり
飯の山あり 昔今






威圧感たっぷりの打ち込み(はぎ)の高石垣。
お城大好き人間にとっては、飯が何杯もすすむくらい大好物です(#^.^#)



見返り坂で振り返ってみれば・・・
中国人と思われるなかなかかわいい2人組の女の子たち。
一部の読者からは「また女か・・・」との嘆息交じりの声が聞こえてきそうですが・・・


見返り坂を上り、三の丸に到達しました。



三の丸の崖っぷち、月見櫓跡です。
ここから見えるのは「讃岐富士」の異名を持つ飯野山
こんもりとしたフォルムは、ちょうど山盛りの飯のよう。




讃岐では これをば富士と いいの山
朝げ煙 立たぬ日はなし


丸亀製麺にも掲げられた、飯野山と西行法師の歌。
丸亀城を出たら、うどんでも食ってみるか。

 

三の丸の崖っぷちから下を見てみると・・・
この石垣がいかに高いかをまざまざと見ることができます。



ここから上ると、二の丸へ。
おやおや、くだんの2人組に追い越されてしまった。


二の丸まで到達しました。



桜の木々で覆われる二の丸。
天守がちょっと見えにくいですが・・・時季になれば美しい華をそえることでしょうね。



丸亀城の最高所にある二の丸井戸
現在もなお水をたたえているそうです。



坂を上っていきます。
天守がよく見えてきます。


本丸に着きました。



日本で12棟しかない、現存の天守です。



本丸側から見ると、しょぼ~いきわめて質素な天守です。
天守なんてものは、城の外に対して権威を示すものですから、中から見る部分については質素でもなんの問題もないのです!
・・・とフォローを入れてみました。


天守への入場料200円を支払って、天守の中へ。



三角形の穴は、狙撃のための鉄砲狭間。



急角度の上り階段。
いずれも現存天守ならではのものです。
それと、100名城スタンプも、天守の中。



78番、丸亀城!
四国最初のスタンプを押印しましたよぉ~(*^^)v



天守から下界を望むと・・・
入口の大手門、そこから道路が始まり・・・そして瀬戸内海がかなり近い印象を受けます。
天守は北向きなので、瀬戸内海を渡ってくる敵軍を想定して築城されていることがわかります。



天守を出ました。
戻りは、登城とは異なるルートで下ります。



二の丸から天守の足元へと下る二の丸搦手
城の急所ともなり得るところだけあって、石垣はより厳重なものになっています。



 

天守の真下。



左側の出っ張りは石落としで、登り来る敵兵めがけて石を落として撃退する装置です。
よ~く見ると、三角形の鉄砲狭間も見えます。



内側からは質素な天守も、石垣の上にそびえ立つ姿は美しいです。

 

 

 

 

私は狂ったように石垣を撮りまくります。



そして搦め手(裏口)まで下りました。

搦め手からは、山下曲輪を歩いて大手門へ。
かつては京極家の御殿があったところを進みます。



玄関先御門【香川県指定文化財】は、御殿の表玄関にあたります。
こちらは御門の内側です。



御門をくぐって外側へ。
門に併設している建物は玄関先番所・長屋【香川県指定文化財】で、当主にお目通りする者のチェックを行っていました。



大手門前に戻ってきました。



壮麗なる天守&高石垣を振り返って・・・ん!?

DQNオヤジが高校生に絡んでる・・・!
それを尻目に大手門を出ると・・・高校生に導かれる警察職員!



その後の漢たちの姿を見た者はいない・・・?