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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

弘前城・第1章~消えた天守

2016-11-02 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 後 2 時 3 0 分

青 森 県 弘 前 市

弘 前 駅 城 東 中 央 口



津軽の城下町・弘前に下り立ちました。



めざすは弘前城、アクセスの手段は今回もバスです。

弘前にも「100円バス」というありがた~い交通手段が10分おきに出ています。
往復で乗車しても、レンタサイクルより安いバスを利用しない手はありません。
弘前駅の西口にあたる城東中央口のバスプールより乗車します。



津軽といえばやっぱりリンゴですねぇ。
14時32分、弘南バスさんも定刻どおりの運行で弘前駅を発ちました。
青森のバスは優秀ですなぁ。



バスは順調に弘前の市街地を走行し、14時50分に最寄りの市役所前バス停に到着しました。


※弘前城寄りの駅出口は、「城東口」ではなく「中央口」です。
 お詫びして訂正させていただきます。 (2016年11月16日追記)



【今回のバス乗車記録】

弘前駅前 2番のりば 14時32分発
弘南バス 土手町循環バス
市役所前バス停 14時50分着

*乗車時間 18分  *運賃 100円


バス停から徒歩2分ほどで、



弘前公園(弘前城)入口にあたる三の丸追手門【国指定重要文化財】が見えてきました。

曲輪は水濠で囲われていて、さらに土塁が造成されています。
東日本の城郭の例に漏れず、石垣は造成されておらず土塁のみで枡形が構成されています。
また門構えは櫓門の一棟のみで、外側に高麗門などの門構えがないのは、古い形式の枡形構造とされています。
この門が建造されたのは慶長16年(1611年)、2代藩主・津軽信枚(のぶひら)の治世です。

中秋の青空の下、波紋ひとつ立っていない水濠、端正に整っている土塁と櫓門がとても美しく配置されています。



「史跡 弘前城跡」の石標と追手門。



追手門をくぐって、弘前城の登城スタート!




午 後 2 時 5 5 分

弘 前 城 内 へ


追手門をくぐり、まずは三の丸



三の丸には弘前城植物園三の丸庭園があるようです・・・が、まずは天守をおさえておきたいのでここはスルー。



三の丸と二の丸を隔てる中濠へ。
濠の向こうには二の丸辰巳櫓【国指定重要文化財】が建っています。

 

中濠にかかる杉の大橋
架橋当時は杉材で造られていたそうですが、文政4年(1821年)に付け替えられた際にヒノキ材となったようです。
またこの付替えのときに、橋の両詰めに石垣が造成されたということです。



杉の大橋から眺める中濠
濠の両側には桜が植えられています。



同じく中濠の西側。
向こうには二の丸未申(ひつじさる)【国指定重要文化財】が・・・あまりよくは見えないですね。



杉の大橋を渡るとふたつめの枡形構造。
入口の三の丸追手門と同様、ひとつの櫓門と土塁による枡形によって構成されています。



二の丸への入口・二の丸南内門【国指定重要文化財】。



南内門をくぐり、二の丸へ。



二の丸に入ってからは本丸へ急がず、先ほどの2基の櫓を間近で見ていきます。



まずは南西にある二の丸未申櫓
弘前城の現存する櫓は3基あって、いずれも二の丸にあります。
現存する櫓のいずれもが三階櫓となっています。

次は南東にある二の丸辰巳櫓ですが・・・

 

発掘調査のため立入が制限されていて、なかなか近付けない!
そんな中、立入制限区域に入らないようにして近づいて撮った辰巳櫓がこちら。



う~ん、イマイチ。



立入制限区域限界からの二の丸辰巳櫓、その弐。
・・・やはりイマイチ。早く発掘調査終わらせてよ・・・(T_T)



しつこく二の丸辰巳櫓・・・これが限界です。



弘前城で最も内側にある水濠、内濠です。
土塁には桜の木が植わっていて、桜の名所・弘前城でも指折りの花見スポットとなっています。



二の丸と本丸を結ぶ下乗橋
本丸に上る藩士は、この橋の前で下馬しなければならない決まりとなっていたそうです。

そして下乗橋と天守、満開に咲き誇る桜!・・・というのが弘前城を語る上で欠かせない佳景。
橋から天守を望んでみれば・・・



鮮やかな晴天の下には、天守台のみが残されておりました。





根城・最終章~淑女とめぐる史跡根城の広場

2016-10-26 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 9 時 4 6 分

青 森 県 八 戸 市

史 跡 根 城 の 広 場







八戸市博物館で手荷物をコインロッカーに預け、予備知識を学んだ末、ようやく根城の登城に向かいます。




旧八戸城東門【八戸市指定文化財】。
この先が史跡根城の広場となっています。


いざ、往かん!


するとひとりの女性が話しかけてきました。

「ガイドはいかがですか? 無料でやっているのですが・・・」

その語り口は明らかに南部訛り、齢は50代後半であろう淑女の申し出に、私は何の異論もありません。
喜んでご同行を願うこととしました。ただし・・・

私『少々時間が限られているもので・・・』
淑女「どれくらいですか?」

この日は、根城を登城したのちに弘前城に向かう予定。
弘前には午後3時前には到着しておきたいので、逆算すると根城の最寄りの根城・博物館前バス停11時24分発のバスに間に合うようにしたいところ。
登城の後に博物館で荷物を回収する時間を考えると、根城を周遊できる時間は・・・

私『1時間強くらいでしょうか』
淑女「1時間ですか? わかりました。少々駆け足になりますね」

ここに淑女とめぐる史跡根城の広場の段、開幕。

(さすがに仇敵?にあたる「弘前」の名は伏せました)



旧八戸城東門をくぐると、



空堀が通っていて、



東善寺館と呼ばれる曲輪に入ります。

広場はとてもよく復元、整備されています。
このあたりには梅、桃などの果実のなる木や、薬効のある草木が植わっていたようです。
現在もそれらの樹木、草木が植えられています。




ハナショウブが植えられている空堀を渡ると、中館と呼ばれる曲輪へ。



この曲輪に限らず、広場内には多くのシダレザクラが植えられています。
淑女によると、これらの桜は山梨県にある日蓮宗の総本山・身延山久遠寺から贈られたそうです。

日蓮宗の開祖・日蓮が佐渡への流刑を解かれ、鎌倉へ戻ったおり、南部氏の始祖・南部光行の三男・南部実長(さねなが)により迎えられ、身延山に久遠寺を創建しました。
実長は根城南部氏の祖とされ、自らも日蓮宗に改宗しました。
博物館前に立っている銅像の南部師行は、実長の家系に養子として入り、これを継いだものとされています。
(諸説あり。師行と実長との家系にはつながりがない、とする説もあります)




深めの空堀の先が本丸です。
ここから先が有料で、入城料は250円。
博物館との共通券は400円となっていて、私はすでに共通券を購入済みなので、淑女とともにそのまま入っていきます。

本丸をはじめとする各曲輪は空堀で囲まれていて、防御力を上げているほかに、自軍の騎馬隊を走らせて敵軍に奇襲をかけることもできるようになっていました。
本丸と中館の間には木橋【復元】が架けられ、当時はそれを使って行き来しました。



木橋の先にある東門【復元】が、本丸への正門とされていました。
現在は土橋が造成されていて、ここから本丸に入れます。


本丸の入口にある南部家家紋の案内板より。



南部家は甲斐源氏(武田氏)の庶流であることから、当初は左の「武田菱」を用いていました。
そして室町時代以降用いられているのが「南部鶴(向かい鶴)」です。

「南部鶴」が家紋になった由来は諸説ありますが・・・

応永18年(1411年)、隣国出羽(秋田)の安東氏が攻め込んできました。
三戸南部家の南部守行は、根城南部家の光経に命じ、迎え撃つこととしました。
光経は仙北に向けて出陣し、安東勢と対峙しますが、なかなか手強く容易に打ち破れません。
そこで、出羽国(山形)の霊山・湯殿山で七日七晩、味方の勝利を一心に祈願しました。

満願の夜、光経は不思議な夢を見ました。
それは、二羽の鶴が山の上を飛んでいる夢でした。

「鶴は長生きのめでたい鳥、命永らえて勝利を勝ち取るとの夢のお告げである!」
光経は全軍に決戦を指示しました。
すると不思議なことに、戦場の空に夢で見たような二羽の鶴が現れたのです。
これで南部軍の士気は大いに高まり、大勝利を収めることができました。

この勝利を記念して、これ以降南部家では二羽の鶴を表す「向かい鶴」の家紋を使うようになったといいます。


淑女がそう話すと、私にひとつの問いを与えてきました。



「『向かい鶴』の左右の鶴は、1ヶ所だけ異なるところがあります。それはどこでしょう?」

私は1分たっても見つけることができずに降参、「サイゼリヤの間違い探しより難しい(>_<)」と思いました。
正解はのちほどお伝えしましょう。



淑女のガイドがとてもわかりやすく、私も多少予習して知識をかじってきたため話は弾み、本丸到達は登城開始から35分経過していました。



本丸に入ると、正面に建っているのが主殿【復元】。



来客の接待や、儀式などの公的行事が行われていた場所で、普段はあまり使用されなかったのだとか。
しかしながらここではまだ立ち入らず、主殿の脇にある・・・

 

上馬屋から淑女の解説が始まります。

南部といえば、馬。
騎馬隊といえば、武田。・・・・・・いえいえ南部も勇猛な騎馬隊で知られていました。

武田家の庶流である南部家も、もとは馬産地である甲斐国(山梨県)を本拠地としていました。
南北朝時代、南部師行北畠顕家に従い奥州に下り、根城を築城しました。
甲斐国同様、根城周辺も馬産地であったため、馬繁殖のノウハウを有していたであろう南部氏を顕家が配置したといいます。
一戸、二戸、三戸、四戸はなくて、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸はすべて馬牧場の番号から由来しているそうです。

そして馬小屋の中にいる当時の馬。
体躯は大きくなく、動物園で乗れるポニーのようなサイズ。
それでいながら面長だったそうです。


淑女による馬の解説が終わり、次は主殿の中へ。
この主殿の復元に八戸市は相当力を入れたようで、材木も良質のものを取り寄せ、何億円もの費用をかけたのだとか。
「そんなところに税金を使うなら云々」とちょっとだけ毒を吐く淑女とともに中に入ります。



まずは詰の間
来客の応対をする人が詰めていた場所だそうです。
いろりに吊り下げられているのは、ご当地らしく南部鉄器のようですね。



と呼ばれる廊下には採光のための窓があります。
窓はこのように板をせり上げて開けていました。
さらにこの窓、下の板も外れるようになっていて、非常時には板を外して逃走できるという仕掛けになっていました。



窓から外を眺めます。
正面の立木の向こう側には常御殿跡の柱、左奥は板蔵【復元】、右奥には工房【復元】が建っていました。
板蔵は一門が使用する道具や衣類を納めた蔵だったそうです。
また工房では武具を製作していたようです。



ふたたび主殿の中。詰の間の隣りは茶の間です。
その名のとおり、来客に茶を立ててもてなす部屋だったようです。



なんの変哲もない段差ですが、さすがはガイドの淑女、ここでも解説。
ここから先は高い身分の者しか入れなかったといいます。
そして段差の先にあるのが・・・



二の間です。
ここで控えていらっしゃる方は、お隣の広間で儀式の最中であるために、変事に備えて待機しているようです。

 

先ほどの茶の間と、二の間の天井を比べてみましょう。
右の画像である二の間の天井の方がしっかりとした造りになっています。
ここにも身分差が顕れているようです。



儀式が開かれている広間です。
ここでは「武事始め」と呼ばれる正月十一日の儀式を再現しています。
手前に着座する6名は、それぞれの曲輪にある館の主、いわば家老にあたる者たちです。
そしてひとりだけ甲冑をまとって当主にかしずいている者は「年男」で、淑女によると前年の「MVP」が宴に呼ばれ、当主より栄典を受けていたのだそうです。
奥に座る当主は、八戸政栄(まさよし)


八戸政栄(南部政義)は、戦国時代末期の根城南部家当主です。

このころの三戸南部家は南部晴政が当主で、南部家は最盛期を迎えていました。
「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われたのもこのころです。
しかし晴政には子ができず、娘を叔父の子・石川信直と一族・九戸実親に嫁がせました。
そして信直が後継者と目されていましたが、ここで晴政に嫡男・晴継が生まれました。
そうなると晴政にとって信直は邪魔な存在となってきました。
信直の妻(晴政の娘)が先に死ぬと、いよいよ信直の立場は微妙なものになっていき、両者の関係は険悪なものになっていきました。

(この合間をぬって津軽を奪い独立したのが、後の弘前藩主・大浦(津軽)為信です)

このとき八戸政栄は、信直の境遇を哀れに思い、信直を根城に匿ったそうです。

南部晴政が死ぬと、嫡男・晴継が後継となりますが、晴継は直後に病死してしまいました。
これは病死のほか、石川信直による暗殺説、九戸氏による暗殺説があります。
(さらに一説では、信直が晴政・晴継父子ともども攻め滅ぼしたというものもあります)

南部家を誰が継ぐか。
これをめぐり、晴政のふたりの娘婿が争うこととなりますが、八戸政栄は石川信直を推し、信直が当主に就きました。
信直は南部家を代表して、関白・豊臣秀吉に面会し、秀吉は信直を南部家の大名と認めました。
八戸政栄はこのとき留守を任されていましたが、これにより政栄をはじめ他の南部一族は信直の臣下に組み込まれることとなりました。
これを良しとしない九戸政実・実親兄弟は、南部家からの独立を画策して挙兵しますが、豊臣の大軍に攻められ滅亡しました。

以後、政栄は信直とその子・利直をよく補佐したといいます。
慶長15年(1610年)に死去。



さて儀式での食事はというと・・・

 

御前に鏡餅も供えられているし、餅なんだろうな~と思ったら、そうではないとのこと。
淑女によれば、餅は貴重品であったので、滅多には食べられなかったそうです。
じゃあこの味噌汁に入っているものは何かというと、豆腐だそうな。
味噌汁の隣りの白い直方体は、これも餅ではなくて生の大根なんだとか。
あとは煎り大豆と黒い何かと、酒。
とても質素なものだったといいます。



主君・政栄より栄典を受ける「年男」。
前年の勲功から毎年ひとり選ばれ、「武事始め」では甲冑をまとうのが通例であったといいます。



広間を去り、その裏手にある細長い重宝の間へ。
その名のとおり、南部家に伝わる家宝をしまっていた部屋のようですが、現在は当然そのようなものはなく、写真板だけです。

左は赤絲威鎧(兜、大袖付)【国宝】で、鎌倉時代末期の甲冑です。
大袖と兜の金物装飾から「菊一文字の鎧」とも呼ばれています。
右は白絲威褄取鎧(兜、大袖付)【国宝】で、こちらは南北朝時代の甲冑。
南部信光後村上天皇から拝領したものといわれています。
そして2領の甲冑はいずれも八戸市内の櫛引(くしひき)八幡宮に奉納されています。



主殿最後の間は祈祷の間
根城には東善寺があり、その住職が祈祷を行った部屋とされています。



主殿の外に出ました。
時刻は午前10時59分、そろそろ時間がなくなってきました。
淑女もそれを察し、解説は駆け足になってきます。

 

主殿の南側、常御殿跡と、工房【復元】です。
100名城スタンプは、常御殿跡の柱と、工房、主殿を絵柄にしているようです。



本丸南端の建物は板蔵【復元】。



主殿の脇にある縄文時代にもあったようなコレは、納屋【復元】。
米、味噌、梅漬けなどの食料が保管されていたそうです。
かの竪穴式住居のごとく地面を掘り下げており、これにより中が涼しくなるという効果があるそうです。



根城の本丸は半分程度しか回っていなかったのですが、次の目的地のために時間が差し迫っており、泣く泣く根城の登城を終了とさせていただきました。
詳細にガイドしてくれた淑女とともに、八戸市博物館まで戻ります。


根城の広場の入口である旧八戸城東門まで戻ったところで、淑女が突如商売モードに。
100円で手作りのしおりを売っているとのこと。
あれだけ熱心にガイドしてくださった淑女を、私が無下に扱うことはできるわけはなく、感謝の気持ちを込めて100円を寄付させていただきました。


博物館にて手荷物を回収。
そして退出する刹那、



誰だい、あんたは!?
ゆる~いお姿の彼を詮索することなく、バス停まで急いだのでした。






さて、淑女の問題の答えです。



鶴のくちばしを見てください。もうおわかりですね。
右の鶴はくちばしが開いているのです。






根城・第2章~複雑怪奇な南部一族

2016-10-25 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 9 時 0 8 分

青 森 県 八 戸 市

八 戸 市 博 物 館





午前9時に開館する八戸市博物館



館前には南部師行(もろゆき)公騎馬像が立ちます。


南部師行は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した武将です。
甲斐国(山梨県)に所領を持っていた師行は、新田義貞の軍に加わり、鎌倉幕府の討幕に武勲を立てました。

後醍醐天皇による建武の新政が始まると、陸奥守・北畠顕家(あきいえ)に従い、義良(のりよし)親王(後村上天皇)を奉じて奥州へ下り、鎌倉方の残党を平定する任務に就きました。
このとき顕家の命により、糖部(ぬかのぶ)(青森県東部から岩手県北部一帯)を治め、根城を築城して拠点としました。

建武の新政が混乱をきたし足利尊氏が反旗を翻すと、北畠顕家は強行軍で上京し、ついには尊氏を九州へと敗走させました。
この間師行は、尊氏方の武将と戦いを繰り広げています。

尊氏が九州に逃亡したあと、顕家はふたたび奥州に下りましたが、尊氏が軍を立て直し京へと攻め上ります。
師行は顕家に従い上京、尊氏方の軍勢と連戦することになります。
度重なる戦の果て、石津の戦いでついに潰走、顕家・師行主従は奮戦の末討ち死にしたのでした。



そしてこの師行ですが・・・
盛岡城主となった南部氏とはまた別の家柄で、「根城南部氏」の祖と称されます。
盛岡城の南部氏は当初三戸を拠点としたので「三戸南部氏」と呼ばれます。



・・・・・・今話は登城記、というより複雑怪奇な南部家をなんとか文章にまとめてみたというような内容になりそうです。



入館料は大人250円で、史跡根城の広場との共通券が400円です。
共通券は100円お得となっているので、私も共通券を購入しました。

博物館入口の受付で、100名城スタンプをもらうことができます。



5番、根城!
根城をめぐるのは次話・・・この絵柄の光景はどこにあるのでしょうか???

さて館内へ。
展示物を鑑賞する前に、まずはコインロッカーへ。
なにを隠そう、博物館に入った主たる目的はコインロッカーで手荷物を保管することです。
展示の鑑賞はおまけ程度に考えていたのですが・・・南部家が複雑なのでしっかり展示を見てしまいました。



最初に目にするのは、「八戸を襲った津波の高さ」の表示です。
東日本大震災で八戸に襲来した津波の高さは、1階の床面を0メートルとしたときに2階の天井のさらに3メートル上にも及んだそうです。
我々の想像をはるかに超える災害だったと実感。



2階に上がり、展示室へ。
展示内容は大きく分けて、縄文時代の出土品などの考古展示、南部地方の生活習俗を取り扱う民俗展示と、南部家の行跡を扱う歴史展示に分かれます。
「信長の野望」好きの私は、考古展示をすっ飛ばして歴史展示に足を停めます。

・・・「信長の野望」では伊達政宗をプレイする私にとって、南部家(南部信直)は最初の方で滅ぼしてしまうことは秘密です。


まず「甲斐源氏から糠部南部氏へ」のパネル。



根城南部氏も三戸南部氏も、もとは同じ源氏(河内源氏)をルーツにしています。

河内源氏の2代棟梁・源頼義
その長男は源義家(八幡太郎)で、鎌倉幕府を開いた頼朝、「牛若丸」義経に続くのですが、南部氏の祖はこちらではなく三男の義光(新羅三郎)です。

新羅三郎義光の嫡男・義業(よしなり)は、常陸国(茨城県)に勢力を構え、のちの佐竹氏の祖となります。
義業の弟・義清(武田冠者)も常陸国那珂郡武田郷(現在のひたちなか市)に所領を得ますが、紛争を起こして甲斐国に追放となりました。
義清の一族は甲斐国で勢力を伸ばし、「甲斐源氏」と称されるようになります。

甲斐源氏からは、戦国大名武田信玄を輩出する武田氏をはじめとする諸氏に分かれます。
そのひとつ加賀美氏から出た光行が、その所領であった南部郷(現在は山梨県の最南端に位置する南部町)から南部姓を名乗ったのが、南部氏の発祥といわれています。



つぎは「南部氏の流れ」のパネル。



南部氏の祖・光行の孫・時実(ときざね)から、三戸南部氏と根城南部氏に分かれていきます。
南部家の宗家は三戸南部氏であるとされています。

光行は源頼朝に仕え、糠部の地に所領を得たようですが、実際に居を構えることはなかったようです。
(光行が糠部の地を所領として得たという記録は、後世に記された家伝にしかなく、また天文8年(1539年)の本三戸城の火災で大部分が燃えてしまったといいます)

鎌倉幕府の討幕のおり、根城南部氏の祖となる南部師行後醍醐天皇南朝に与し、北畠顕家とともに奥州に下って根城を築き、糠部郡を治めたのは前に述べたとおりです。
師行は顕家とともに戦死してしまいますが、弟の政長が跡を継ぎ、根城南部氏は南北朝時代を通じて南朝を支持しました。

一方三戸南部氏は、南部守行北朝方につきました。
元中9年・明徳3年(1392年)の南北朝合一では、守行が政長の子・信政を説得して室町幕府に帰順させました。
時の将軍・足利義満は、守行の忠節と政長の篤実を称賛したといいます。

これまで活躍してきた根城南部氏は、このときより表舞台から退き、代わって三戸南部氏が出てきます。
根城南部氏は以後姓を「八戸」と名乗っていくこととなります。
一説によると、実は根城南部氏が南部宗家だったところ、このとき入れ替わって三戸南部氏が宗家となったともいいます。
それでも南部一族の間に明確な上下関係はなく、三戸南部氏を盟主とする同盟、連合のようなものでした。

その関係が変化するのが戦国時代の末期、三戸南部氏の当主はのちの盛岡藩の藩祖となる南部信直のころです。
豊臣秀吉による天下統一事業が進み、惣無事令(私闘禁止令)が発布されました。
そして南部信直は南部家を代表して秀吉に帰順したため、秀吉は信直を大名と認めたのでした。
これは、他の南部一族は信直の臣下に組み込まれることを意味し、さらに信直に背くことは惣無事令に反するため秀吉政権に背くことを意味しました。
実際に、信直からの独立を図った一族の九戸政実らは豊臣の大軍に攻められて滅ぼされました。

こうして南部家は三戸南部氏を頂点とする組織に生まれ変わり、江戸時代になると盛岡城に居を移し盛岡藩が成立しました。
三戸南部氏は「盛岡南部氏」と改称されます。
一方根城南部氏は、江戸時代初頭に居城を根城から遠野の鍋倉館に移ることとなりました。
のち姓が「八戸」から「南部」に戻ることを許され、「遠野南部氏」と称されています。





時は江戸時代に入り、展示の内容は八戸藩に関わるものが中心となります。
まずは八戸城御殿模型

八戸藩の成立は盛岡南部氏の分割相続によるもので、三八城公園の段で記述しているのでここでは割愛します。
「八戸南部氏」というと、江戸時代に成立した八戸藩の家系を表します。



八戸藩領地目録(写し)
許可証にあたる朱印状に添えてある書状で、将軍が藩主に認めた領地のリストです。
この写しは貞享元年(1684年)5代将軍徳川綱吉より与えられたものを、八戸藩の控えとして書き写したものだそうです。



将軍家に認められた八戸藩の版図はこんな具合です。
八戸藩の母体ともいえる盛岡藩の版図がなんとも広大です。
同じ青森県ということで、仇敵?ともいえる弘前藩と黒石藩の版図も載っています。
かつてはこれらすべてが南部家の版図であり、「三日月の 丸くなるまで 南部領」という歌(南部領を旅すると、領内に入る頃は三日月だったのに、抜ける頃には満月になるくらい広大だ、という意味)もありました。

肝心の石高はというと、江戸時代後期になると 盛岡+八戸≒弘前+黒石 といったところ。
岩手県は広大な割には平地が狭く、津軽平野を抑えた弘前藩の方が経済力があったようです。



博物館でもひときわ目を惹く調度品、八戸南部家旧蔵・大名婚礼調度【青森県指定文化財】です。
調度品に描かれる蒔絵の家紋は2種類あって、



ひとつは鶴が向き合って翼を広げる「南部鶴」



もうひとつは薩摩藩島津家(くつわ)十字」です。
八戸藩9代藩主(最後の藩主)南部信順(のぶゆき)は、薩摩藩主島津重豪(しげひで)の十四男で、天保9年(1839年)八戸南部家に婿養子として迎えられました。
このときの調度品が、現在も保存されているというわけです。
信順は天保13年(1842年)に家督を継ぎ、明治維新まで藩主を務めました。

幕末の戊辰戦争では、盛岡藩の南部宗家をはじめ東北諸藩は奥羽列列藩同盟を締結し、薩長が主導する新政府軍に抵抗しました。
薩摩出身の信順は列藩同盟の圧力を直に受けることとなりましたが、同盟に列しながらも新政府軍と誼を通じ、八戸藩領を戦火の手から守り抜きました。



明治2年(1869年)の版籍奉還で、信順は藩主の座を下り八戸藩知事に任ぜられました。
正式な官名は「知藩事」ですが、画像のとおり地名が冠となる場合は「●●藩知事」というそうです。ややこしい。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、八戸藩はその幕を閉じることとなります。



最後に、民俗展示を少しだけ。



なんとなく気になった「猫イラズ」の看板。

 

食用菊の王様・「阿房宮」のコーナー。
八戸は食用菊の栽培が盛んで、味噌汁の具やおひたしなどにして食べたり、干し菊にして保存するのだそうです。
お造りに添えてある菊も「阿房宮」という種なのだそうです。



博物館の外に出ました。



移築されている旧八戸城東門【八戸市指定文化財】。
ようやくながら根城の登城にまいります。



100名城登城の旅・第15弾「北日本完全制覇!」第13話へ続く。


根城・第1章~翻弄する空き地

2016-10-15 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 7 時 5 0 分

青 森 県 八 戸 市

中 心 街 で バ ス を 待 つ



平日の出勤時刻とほぼ変わらない時刻にホテルをチェックアウトし、八戸城跡を見て回りました。
そのうえでこの日最初の100名城・根城(ねじょう)【国指定史跡】を登城すべく、バスが出ている八戸市の中心街まで歩いてきました。



八戸市の中心街です。
そして八戸は全国でも珍しい青空ターミナル(中心となる建物がないターミナル)で、中心街に乗り場が点在しています。



中心街を西に伸びる市道にある八戸中心街ターミナル5番のりば(六日町バス停)
ここから田面木(たもぎ)経由 八戸駅行きのバスに乗ることになります。


ここでひとつの問題。
根城の開城時刻は午前9時となっています。

・・・・・・まだ早い・・・。


 

バス停の対面にある複合ビル「ガーデンテラス」
その1階にあるタリーズで時間をつぶしました。


そして8時35分、定刻どおりにやってきた南部バスに乗車。


【今回のバス乗車記録】

八戸中心街ターミナル 5番のりば(六日町バス停) 8時35分発
南部バス (T60)司法センター・田面木・日赤病院経由 八戸駅行き
根城・博物館前バス停 8時45分着

*乗車時間 10分  *運賃 150円




午 前 8 時 4 5 分

根 城 ・ 博 物 館 前 に 到 着


 

ほぼ定刻どおりに根城・博物館前バス停に到着しました。
赤い帯が印象的な南部バスの車両ともお別れ。


時刻は午前9時前。
目的地の史跡根城の広場は開場していません。

ここで事前にプリントアウトしておいた資料を見ると・・・

 (※私が準備した資料はこちら ⇒ http://www.hachinohe-cb.jp/nejo/upload/nejou_info.pdf )

史跡根城の広場の外側にある三番堀沢里館跡は見学できそうです。
この地図をたよりに、先に見学することにしました。



ただの空き地じゃねぇの?



いちおう周りには土塁のようなものもあります。


人様の私有地にも見える“三番堀のようなもの”をそのまま歩くわけにもいかず、地図をたよりに沢里館跡へと向かいます。



民家が居並ぶ住宅街。この道でいいはずですが・・・



空き地に出てしまいました。
道筋ができているので、普段から人の往来があるようです。私も歩きます。



道筋の真ん中で左を見ると、どうやら博物館前で見た空き地が途中で折れ曲がり、続いているようにも見えます。
やはりこの空き地は三番堀なのでしょうか?



こんどは右側。空き地はまだ続くようです。
しかし草ぼうぼうなので無理な突破はせず、公道沿いを歩きます。



ふたたび空き地を貫く道筋。
たどって行くと、別の公道に出ました。
結局、この空き地が三番堀であるという確証は得られませんでした。




次は小高く盛り上がった土地。沢里館跡でしょうか?

 

付近にあった観音堂
「奥州南部糠部(ぬかのぶ)三十三観音」の第12番霊場・根城隅ノ観音だそうです。

観音堂の横。



高く積み上がった土塁。
やはりここが沢里館跡なのか・・・?



土塁が途切れている箇所がありました。
ここから中に入れそうです・・・が、やっぱり草ぼうぼう。
短パンという軽装で来ていた私は草地に入りたくなかったので、ここで沢里館の探索は打ち切り。





根城・博物館の面する国道104号線に戻ってきました。
時刻は午前9時09分、両施設は開場しています。





先ほどの空き地まで戻ってきました。
よくよく注意してみると・・・



ひっそりと石標が立っていました。やはりここは三番堀だったのです!
しかしこの石標、哀れにもごみ集積所にされてしまっています。





三番堀であることがわかりモヤモヤ感が晴れたところで、八戸市博物館に入館することとしました。





盛岡城・後章~東北唯一の総石垣

2016-10-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 4 日 ( 水 )

午 後 5 時 0 2 分

盛 岡 城 跡 公 園



盛岡城【国指定史跡】の登城、本格的に開始。

時は夕刻、午後5時すぎ。
通常ならば登城の儀はできない時刻なれど、盛岡城は年中無料開放。
暗くなってしまわない限り、いつでも見聞することができるのです。

不気味な灰色の空の下、大手側にあたる北側から登城していきます。



まずは、さきに詣でた櫻山神社周辺から。



端整に成形された石による算木積みの角、そして側面はこれも成形がじゃっかん粗い石を用いた打込接ぎの石垣。
造成されたのは江戸時代中期と判明している石垣です。
その証拠が・・・



普請奉行銘石の存在です。

「宝永二 乙酉歳 九月二日
 奉行 野田弥右衛門 川守田弥五兵衛」

宝永2年は西暦換算で1705年、当時は将軍・徳川綱吉の晩年期です。
文字は現代人にも読みやすい楷書、私でも解読することができました(*^^)v




瓦御門跡を通り、三ノ丸へ。
進路が折れ曲がっているので、ここはかつては枡形構造だったのかな~と思いをはせてみます。
しかし手持ちのガイドマップを見ると、どうも枡形構造ではなく、門はひとつだけだったように記載されています。



三ノ丸に入りました。



三の丸の石垣・・・ではなく、三ノ丸の崖っぷち?から望む二の丸の石垣です。
この石垣は高さが約14メートルあり、盛岡城では最も高い石垣だそうです。



お次は二ノ丸



石垣によってカギの手に曲がった通路。
ここは車御門跡で、この先が二ノ丸です。



市民に親しまれている公園らしく、歩道が整備され樹木が整然と植わっていて落ち着いた雰囲気です。



二ノ丸の通路から外れた場所、片隅に立っているのは、石川啄木の歌碑です。


不来方(こずかた)の お城の草に 寝ころびて
空に吸はれし 十五の心


南部家の所領ははじめ現在の青森県から岩手県北部地方に及んでおり、居城は三戸城(青森県三戸)にありました。
南部信直の代、所領は岩手県中部にまで拡大するも、同族の大浦為信の離反で青森県津軽地方を失いました。
(ちなみにこの離反で信直は父・石川高信を討ち取られてしまいました。このため南部・津軽の怨讐は江戸時代を通じて続き、現在もなお津軽と南部は仲が悪いとか??)
そこで信直は、豊臣政権の有力者・蒲生氏郷浅野長政の助言もあり、また南が野心家・伊達政宗の領地と接することとなったため、居城を「不来方」の地に移すこととしました。

しかし着工翌年、信直は病没、嫡男の利直が継ぎます。
利直は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、所領を守りました。

慶長20年(1615年)ごろ、城がほぼ完成しました。
利直はこのときに地名を「盛り上がり栄える岡」という願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めました。

その後も工事は続き、利直の子で3代藩主・重直の代になり、寛永10年(1633年)に全城域が完成しました。
以後、明治4年(1871年)に廃城になるまで、南部家の居城であり続けました。



もう少し二ノ丸。



二ノ丸のふちから望む、三ノ丸の石垣。
粗く成形された大石に細かい石を埋め込む打込接ぎ、石を不規則に積む乱積みで造成されているこの石垣は、江戸時代初期のものです。


二ノ丸の先へ。



盛岡城のシンボルのひとつといえる朱塗りの渡雲橋。その先は本丸です。
本丸と二ノ丸を橋で結ぶ構造となっている城郭は、盛岡城と高知城だけだそうです。
またかつては「御廊下橋」と呼ばれていて、本丸から二ノ丸まで続く御殿の一部をなしていて、屋根付きの橋となっていたそうです。

 

橋の下は通路になっています。
本丸も二ノ丸も完全に石垣で囲われています。



本丸に入りました。



かつては御殿があった本丸も、いまでは植樹がなされていて落ち着いた空間になっています。



本丸の中央部にぽつんと残されている台座は、南部中尉銅像台座です。
戦前には南部家42代南部利拝の銅像が立っていましたが、戦中時の金属類回収令で接収されてしまい、現在も台座だけが残っているのです。


本丸を取り巻く石垣。



渡雲橋側の隅櫓跡



その反対側の納戸櫓跡



別の出入口・御末御門跡



現在はあずまや「凌虚亭」が立つ御三階櫓跡
いずれも大きな石が用いられています。
盛岡の採石の豊富さを物語っているようです。



御末御門より本丸を出て、淡路丸という曲輪に入りました。



淡路丸と本丸を隔てる石垣は、野面積みという自然石をそのまま積み上げたものとなっています。





この石垣は盛岡城内で最も古いものとされています。



本丸の周囲を時計回りに歩き、腰曲輪へ。



ここでついに雨が降ってきてしまいました。
神社で神頼みしたのに効果がなかったのか・・・・・・いや、それでも小雨程度だったので、この程度で済んでいるのは南部公のご神徳でしょう。
そう思いながら、城めぐりを続行します。



腰曲輪は本丸の北側。
こちらの石垣も古そうな野面積みです。



本丸を取り巻く石垣も、南西部に差しかかるとその姿が変わってきます。
だいたいが古式の野面積みなのに対し、こちらは石を成形して隙間なく積み上げる切込接ぎです。

時代が下るにつれ御殿が増築されていくと、本丸は手ぜまになっていきました。
そこで従来ある石垣のさらに外側に土を盛り、石垣を造成していったそうです。
造成された石垣が、新式の切込接ぎによるものだそうです。



本丸の西側。
御殿を増築するために、石垣からさらに張り出した建物ができたそうです。


本丸の北西側です。



二ノ丸と本丸をつなぐ渡雲橋まで戻ってきました。

 

渡雲橋をくぐって本丸北東側へ。
このあたりが100名城スタンプの絵柄になっている場所ですね。



さらに外側を周っていきます。



本丸の外側・淡路丸のさらに外周です。

 

淡路丸をとりまく石垣。
全体的に盛岡城の石垣は、それぞれの石が大きめです。
こちらの積み方は粗く成形した石を積み隙間を小石で埋める打込接ぎです。
右の画像中央部にある石に残っているくぼみは、石を割るときに打ち込んだくさびの跡です。


さきほどの淡路丸と腰曲輪の周囲を取り巻く帯曲輪



鶴ヶ池と呼ばれる水濠代わりの泉水が流れています。
この泉水は、天然の水濠にもなっている中津川につながっています。


淡路丸南東部の石垣。



画像右側のカドの部分には小さな櫓があったそうです。
そして画像中央右寄り、シダレザクラの木の近くに黒い穴のようなものがあります。
これは蛇口という排水口の樋で、外周の石垣にはところどころに備えられています。


さらに南東部。



石垣のカドがふたつ。なかなかの光景ですなぁ。
ここの上には二重隅櫓【現存せず】が建っていました。
南方から見ると、この櫓の延長線上には本丸の御三階櫓があり、あたかも5重の天守のようにも見えたそうです。


少し歩いて南側。このあたりは腰曲輪の石垣が目に入るところです。



白壁の蔵が1棟建っています。
この蔵が盛岡城唯一の現存する建物で、彦御蔵【現存】です。
もともとは別地にありましたが、市道の整備のため現在の位置に移築されました。
ちなみに現在彦御蔵が建っている場所は、別の蔵である米内蔵があったところだそうです。


南西側。

 

なかなか圧倒的な石垣です。


西側。



小さい曲輪・榊山稲荷曲輪を取り囲む石垣です。
カドの石垣の勾配は、西国や近畿の城郭と比べると緩やかであります。
ちょうど寺の屋根になぞらえて「寺の勾配」というそうです。



榊山稲荷曲輪付近の石垣。ここにも蛇口があります。
こちらの勾配は、少々急になっていますね。


北西側、二ノ丸西側を取り巻く石垣。



見ごたえのある高い石垣が続きます。
造成時期は、江戸時代中期だそうです。
よく見ると蛇口もあります。


さらに進み、二ノ丸北側と三ノ丸西側の石垣に着きました。



画像中央が14メートルの高石垣、左が江戸時代初期の石垣です。



盛岡城をぐるりと1周したところで、今回の盛岡城の登城はこれにて終了。





盛岡城・前章~プラザおでって&櫻山神社

2016-10-04 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 4 日 ( 水 )

午 後 4 時 1 7 分

J R 盛 岡 駅 東 口 バ ス プ ー ル



早朝5時半よりさいたまを発って約11時間。
コインランドリーの探索に手間取りながらも、手荷物を預けて盛岡駅を出ました。



夕刻に差しかかってようやく、この日の城攻めが始まります。

この旅最初の城は、盛岡城【国指定史跡】。
築城以来盛岡藩南部氏の居城であり、明治維新後は岩手公園となって市民の憩いの場となっています。

盛岡城は公園なのでほぼ年中開放されています。
そのためまずは100名城スタンプを確保しておくこととしました。



今回利用する交通手段は、盛岡都心循環バス「でんでんむし」です。
どこまで乗車しても100円というリーズナブルなバスで、まずはスタンプ設置場所であるプラザおでってに向かいます。



左回りコースの「でんでんむし」に乗車します。
右回りでも行けますが、遠回りのため時間がかかってしまいます。

あと、岩手県内のバスは、Suicaなどの交通系ICカードは使えません。


登城に割ける時間が限られている中で、この日は道路も混雑ぎみでした。
盛岡も交通量が多いのかな・・・と思いながら車窓を眺めると、



盛岡秋祭り(盛岡八幡宮例大祭)の山車行列に出くわしました。
前々から旅の準備を進めてきましたが、この日に大祭があるとは想定外。
残念ながらお祭りを楽しむ時間がない私にとっては、祭りによる渋滞にヤキモキするしかできませんでした。



盛岡城跡公園前バス停付近。
目の前に盛岡城の石垣が現れます。なかなかに圧倒的。
ですが、ここのバス停では下車せず、もう少し先へ。

バスは岩手地方裁判所、岩手県庁、盛岡東警察署といった公の機関が立ち並ぶ中央通へ。
この通りにある県庁・市役所前バス停で降りることとしました。

料金箱に100円玉1枚を投入して、下車。


【今回の乗車記録】

盛岡駅東口バスのりば 16番のりば 16時20分発
岩手県交通 盛岡都心循環バス「でんでんむし」 左回り
県庁市役所前バス停 16時29分着

*乗車時間 9分  *運賃 100円


最初の目的地はプラザおでって。
その最寄バス停は、盛岡バスセンター
このとき私はカン違いしていて、そのひとつ前で下車してしまいました。
すぐに誤りに気が付きましたが後の祭り、仕方なく手持ちの地図を頼りに歩くこととしました。


下車して徒歩10分。



レンガ造りの格調高い建造物は、旧岩手銀行本店本館【国指定重要文化財】です。

中央停車場(現東京駅)を手がけた辰野金吾葛西萬司が設計を担当しました。
明治41年(1908年)に着工し、3年後の明治44年(1911年)に竣工し、当初は盛岡銀行の本店として開業しました。
しかし盛岡銀行は昭和6年(1931年)に昭和恐慌のあおりを受けて破たん、2年後に解散することとなりました。
昭和11年(1936年)、岩手殖産銀行がこの建物を買い受け、本店としました。
昭和35年(1960年)岩手殖産銀行は岩手銀行に商号変更し、昭和58年(1983年)本店を移転しましたが、引き続き中ノ橋支店として使用されました。
平成6年(1994年)現役の銀行建物としては初めて国の重要文化財に指定されましたが、平成24年中ノ橋支店は隣地に新築し、この建物は現役を引退ということになりました。
現在は「岩手銀行赤レンガ館」として内部が公開されています。



旧岩手銀行本店本館と道を挟んで向かいにあるのが、



プラザおでってという観光案内施設です。
「おでって」とは、盛岡弁で「おいで」という意味で、「おでってくなんせ」(おいでください)が短くなった表現だそうです。

この日は例大祭があったからか、プラザおでって前広場にも出店が出ていました。
しかし私は出店のニオイ攻勢をくぐり抜け、プラザおでって2階へ。



ひとまず6番! 盛岡城!
少し失敗してしまいましたが・・・絵柄は本丸・二の丸間の石垣です。

ここでは盛岡城跡公園のパンフレットも入手できます。
中のガイドマップは、盛岡城の見どころが細かく記載されていて、登城時におおいに役立ってくれました。



それでは盛岡城跡公園へ。



プラザおでってのそばを流れている中津川
盛岡城を防衛する天然の水濠の役割を果たしたことは、想像に難くありません。
先に見えるのは、おそらく岩手山でしょうか??
(実際は岩手山ではないようです)



中津川に架かる中の橋を渡った先に、まず見えてくるのはもりおか歴史文化館です。
本来ならばここで盛岡城の歴史を学び、盛岡を統治した南部家の歴史を学ぶのがスジというものですが、なにぶん時間がありません。
ここでも100名城スタンプがもらえますが、歴史文化館は割愛させていただきました。



歴史文化館前の広場には、ペットボトルで再現した御三階櫓【現在はない】が展示されていました。





今度こそ盛岡城跡公園に入ります。
しかし「もりおかじょうあとこうえん」という読みはなんだかヘンな感じがします。


そもそも盛岡城跡公園は、もとは「岩手公園」という名称でした。
盛岡城が明治政府に明け渡され、城内の建物は破却されました。
その後明治39年(1906年)、「岩手公園」として一般に開放されました。

そして長く「岩手公園」の名称で親しまれていました。
岩手県出身の作家・宮沢賢治の作中でも「岩手公園」が出てきます。

しかし平成18年(2006年)、開園100周年を記念して盛岡市は公園の名称変更を発表しました。
これに対しては反発が強かったらしく、名称変更から愛称設定とトーンダウン。
そして愛称が「盛岡城跡公園」となったのでした。



私も「岩手公園のままでいいんじゃねぇ?」とは思いますが、とにかく紆余曲折、賛否両論ある盛岡城跡公園を歩きます。


まずは、公園の外郭を囲う池泉・鶴ヶ池です。



中津川と同様、盛岡城を守る水濠の役割も担っていました。


その先に、



櫻山神社神門が立っています。



櫻山神社は江戸時代中期の寛延2年(1749年)、盛岡8代藩主南部利視公が初代信直公のご遺徳を偲び奉るため、神殿を建立したことに始まります。
さらに盛岡藩11代利敬公は信直公を「櫻山大明神」と尊称し、文化15年(1818年)には南部家初代光行公を、大正元年(1912年)には利直公、利敬公を合祀致しました。


(櫻山神社社務所の立看板より)


さらに看板の案内表示を丸パクリさせていただいて・・・櫻山神社の御祭神となっている南部家の4人の当主をかんたんに紹介すると、


(1)南部家初代 南部光行
800年を超える南部家を興し、北東北の平安に努めた「永続神」
(2)南部家26代・盛岡藩初代 南部信直
戦国を英知・勇気・決断をもって駆け抜け、盛岡に藩を拓いた「開拓神」
(3)南部家27代・盛岡藩2代 南部利直
城を築き、町を整え、農産業の振興と五穀豊穣、領地安堵を図った「安泰神」
(4)南部家36代・盛岡藩11代 南部利敬
法律と 消防組を整え、学問を奨励し、藩校教育を推進した「学問神」


(櫻山神社社務所の立看板より)


・・・というわけで、



雨を降らせず、空を晴れさせたまへ~
4柱の御祭神を詣でました。
天候の安泰だから、今回のご担当は南部利直公でしょうか。


境内をもう少し歩いてみました。

 

御神木でしょうか。石垣の上に植わっていて、葉を繁らせています。
石垣と神木が一体となっているかのような、見事な姿です。

神木脇の階段を上がると、目の前にそびえ立つ大きな岩。



烏帽子(えぼし)です。兜岩とも呼ばれています。


盛岡城築城時、この地を掘り下げた時に、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。
この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の“お守り岩”として、今日まで崇拝されています。


(櫻山神社社務所の立看板より)


一般的に、東北地方は石垣に用いられる石の産出が少なく、石垣のある城郭は少ないとされています。
その中で、盛岡城は東北唯一の総石造の城郭といわれていますが、盛岡の地は東北にはめずらしく採石に適した地だったのかもしれません。



石垣で囲われた曲輪と、その上に鎮座する烏帽子岩。
烏帽子岩の大きさもさることながら、石垣を構成する石がなかなか大きいのも目を惹きます。
(この画像では遠近法で烏帽子岩が小さく見えますが、実際見たところでは石垣の石も大きかったです)



この後は櫻山神社の境内を出て、石造りの城郭へと足を踏み入れます。





再訪!姫路城・後編~天守をめざして

2016-04-23 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 2 時 1 1 分

兵 庫 県 姫 路 市

世 界 遺 産 ・ 姫 路 城





千姫ゆかりの西の丸から望む天守。
いよいよ、その天守に向けて足を運ぶとしましょう!

天守をめざすルートは複数あります。
まずは正攻法のルート・・・ではなく、「下道」とよばれる、いわば裏道ともいうべきルートから進んでいきます。



西の丸を出て、二の丸へ戻りました。



まずは小さくぽっかり開いた通り道、るの門【国指定重要文化財】です。



この門は埋門うずみもんという門で、戦時になると土砂で埋めてしまい通行できなくするものです。



るの門の前にある石垣。
よく見ると断層のように切れ目が走っています。
右側の石垣が古く、羽柴秀吉の時代に築かれたものです。
その石垣が、池田輝政の代にて増築されました。


るの門を通過。



三国濠から眺めているのは天守ではなく、先ほどまでいた西の丸。
化粧櫓【国指定重要文化財】、ヌの隅櫓【国指定重要文化財】、ワの渡櫓【国指定重要文化財】へと続く百間廊下が見えます。



ちょっとだけ出っ張った石垣は、をの門跡



すぐ先にある櫓門・ぬの門【国指定重要文化財】。
かつては、これらの2門で枡形虎口を形成していました。



ぬの門そばにある扇の勾配は、姫路城でも一二を争う見事な石垣です。




ぬの門を通過。
門からはリの一渡櫓【国指定重要文化財】が続き、



リの二渡櫓【国指定重要文化財】、チの隅櫓【国指定重要文化財】、太鼓櫓南方土塀【国指定重要文化財】に囲まれる上山里曲輪とよばれる空間に入りました。



大山里にはお菊井戸とよばれる井戸があります。
怪談「番町皿屋敷」にまつわる井戸なのだとか。





このあたりはちょうど天守の下。
大天守【国宝】と西小天守【国宝】がよく見えます。



太鼓櫓【国指定重要文化財】を従えるりの門【国指定重要文化財】をくぐれば、天守まではもうすぐなのですが・・・



ここまでか・・・。



上山里を経由しての下道からの登城は断念。
いったん二の丸に戻りました。



ろの門【国指定重要文化財】から、正攻法のルートで天守へ。



通称「将軍坂」を上ります。
坂の上には目指すべき天守がそびえ立ちます。



「将軍坂」の先に構えるはの門【国指定重要文化財】。



はの門をくぐって振り返ると、こんな感じ。


さて・・・い、ろ、は、と来たから、次はにの門だったか・・・。
にの門はなかなかの難所だったはず。



この道の突き当りを左に折れ曲がったところにあったはず・・・



ここで通行止めかよ~!!
前回の登城の時よりも天守に近付けていないではないか!!



こうして、午後の時間めいっぱいを費やして登城する予定であった姫路城を、失意のうちにあっさりと退去するしかなかったのでした。


ああ、あと3日、あと3日遅かったならば・・・。





再訪!姫路城・中編~千姫物語

2016-04-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 1 時 2 3 分

兵 庫 県 姫 路 市

世 界 遺 産 ・ 姫 路 城







平成の大修復が完了し、グランドオープン3日前の姫路城。
白亜の天守群をもっと見たい!という欲求を抑え、まず向かったのは西の丸


西の丸は前回の登城でも訪れたところでしたので、記述をあっさりにしようと思っていました。
しかし今回の記事編集にあたって、旧サイト上での編集ミスで、記事が散逸していたことが判明したのです。

というわけで、しっかり内容のある(かどうかはわかりませんが・・・)記事を編纂してまいります。



・・・ともかく、まず向かったのは西の丸。

この西の丸は、姫路城で最大の曲輪となっています。
天守のある本丸側の曲輪が、塀で囲まれそれぞれが小さな空間で区切られているのとは対照的です。


もともと現在まで残る姫路城の城郭を築いたのは、「姫路宰相」の異名をとった池田輝政
輝政は関ヶ原の戦いでの活躍により、播磨姫路52万石を領することとなり、姫路城を改修しました。

輝政が姫路城を改修した時代は、いまだ戦国の風紀が色濃く残っていた時期。
大坂には豊臣秀頼が健在でした。
そのため、姫路城は戦争に備えた造りになっていて、曲輪を塀で細かく仕切り、要所要所に門を構えるなどしていたのです。

輝政の孫・光政の時代。戦国時代は終わり、天下泰平の世が固まろうとしていた時期。
光政は鳥取、次いで岡山に転封となり、代わって本多忠政が15万石で姫路に入りました。
西の丸の増築が始まったのは、忠政の時代になります。
このころになると、戦時の備えよりも平時の利便性が優先され、曲輪は広くとられ、その中には御殿が造営されていました。



西の丸の入口は、西の丸南門跡から。



不自然に塀が途切れているのは、この先に武者溜りと呼ばれる空間があったためです。
戦時に門を突破してきた敵兵に横槍を入れるための備えでした。
西の丸が平和な時代にできたものとはいえ、戦争のための備えは残されていました。

城主本多忠政は、西の丸に御殿を造営し、嫡子忠刻(ただとき)と、その妻千姫を住まわせました。
千姫は2代将軍徳川秀忠の長女なので、相応の格式をもってお迎えする必要があったのでしょう。
忠刻と千姫の婚礼では、徳川家より10万石の大金が化粧料(持参金)として下賜されています。





西の丸から眺める天守群は見事の一言。
パンフレットの表紙にも採用されている、ある意味おなじみのアングルです。


西の丸は、まず西の丸南門から続くカの櫓北方土塀【国指定重要文化財】、



曲輪南東のカの隅櫓【国指定重要文化財】、そこから続くワの櫓東方土塀【国指定重要文化財】、



二階櫓のワの隅櫓【国指定重要文化財】と続き、さらにそこから百間廊下と呼ばれる長屋で囲まれています。

百間廊下はまずワの隅櫓から始まり、



レの渡櫓【国指定重要文化財】、ヲの隅櫓【国指定重要文化財】(中央から右)、



ヲの隅櫓からタの渡櫓【国指定重要文化財】(中央)、ルの隅櫓【国指定重要文化財】(右)、



ルの隅櫓からはヨの渡櫓【国指定重要文化財】が長く続き、



ヨの渡櫓が長~く続いて、



ヨの渡櫓からヌの隅櫓【国指定重要文化財】(中央)、カの渡櫓【国指定重要文化財】(右)、



カの渡櫓を経て、最後に化粧櫓【国指定重要文化財】まで続きます。
ワの隅櫓から始まる百間廊下は、終点の化粧櫓までおよそ300メートルにわたります。


それでは百間廊下に入ってみましょう。
ワの隅櫓から中に入れますが、中は土足厳禁。ここで靴をぬぐこととなります。



百間廊下は姫路城の外郭になるため、敵の侵入に対する備えも必要となります。
建物の西側、北側には、このような石落としが配備されています。



窓枠の下についている溝。
結露によってたまった水は、この溝から外へと排出できるという工夫です。



百間廊下から望む、百間廊下&天守群。



やはりどうしても天守に目がいってしまいます(^_^;)

百間廊下は、中間地点のヨの渡櫓へ、



ヨの渡櫓への入口には、このような大きな木戸があります。
ここから先は、奥女中たちが生活をしていた西の丸長局
そのため男性が中に入れないように、厳重な扉が備わっていました。

 

ふたつの面格子。
それぞれ東南側の格子(左)と西北側の格子です。
曲輪の外側にあたる西北側の格子は、太く、格子が白漆喰で覆われて耐火構造になっています。
いっぽう東南側は木造の格子がそのままあらわになっています。
ここからも戦時への備えを見ることができます。


西の丸長局の終点・化粧櫓に着きました。



おやおや~、千姫さまはいまだにカルタをなさっていらしたのですね~(*^_^*)


千姫は、2代将軍徳川秀忠と妻小督おごうの長女です。
小督の父は北近江の大名浅井長政、母は織田信長の妹

千姫はなんと7歳で豊臣秀吉の子秀頼に嫁ぎました。
豊臣と徳川の仲をとりもつという政略結婚でしたが、秀頼との夫婦仲は良好であったようです。

慶長19年から20年(1614・15年)の大坂の陣により、大坂城は祖父家康と父・秀忠の大軍勢に攻められます。
そして秀頼は自害。千姫は救出されました。

このとき、どうしても千姫を救出したい家康(秀忠とも)は、「千姫を助け出した者には、千姫との婚礼を許す」というおふれを出したそうです。
燃え盛る大坂城をかいくぐり、坂崎直盛の軍勢が救出に成功します。
しかし直盛は50をとうに過ぎた初老、さらに火傷を負っていたため顔はすこぶる醜かったそうです。
千姫は直盛への婚礼を強烈に拒絶してしまったそうです。


大坂城落城後、千姫はイケメン貴公子本多忠刻に出会い、彼との婚礼を強く望んだそうです。

このことに面目をつぶされた坂崎直盛は激しく憤り、千姫強奪計画を企てましたが露見。
最期は江戸の屋敷で自害して果てました。(内通した家臣に殺されたともいいます)

ともかく本多忠刻に嫁いだ千姫は、姫路での生活を愉しんだといいます。
しかし忠刻は早逝してしまいました。

その後は姫路を退去し、江戸城に住まい、出家して最愛の夫・忠刻の菩提を弔って余生を過ごしたそうです。



千姫が人生でもっとも幸せであった時期を過ごした姫路城西の丸をあとにします。





再訪!姫路城・前編~白すぎ城でもいいじゃない

2016-04-13 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 1 2 時 4 0 分

兵 庫 県 姫 路 市

J R 姫 路 駅



姫路駅に到着。
これから向かうはいうまでもなく姫路城【国指定特別史跡・世界遺産】です。

前回の登城では平成の大修復をやっていて、天守が覆いの中に囲まれてしまっていました。

  ※前回の登城のようすはこちらから ⇒ http://blog.goo.ne.jp/bamboo-and-sparrow-0123/e/37e1cc85f73df827d48b5646ca43c323

そして今回も、大修復終了まで3日前という微妙な時期ながら、それでも姫路城は外せないだろうと判断。
こうして姫路城へと向かっているのですが・・・



真っ白な大天守【国宝】が、その姿をあらわにしています!



姫路城の入口である桜門橋にたどり着きました。





前回の登城で見れなかった分、食い入るように大天守を撮影しまくりです(^_^;)



大手門【復興】をくぐります。



やっぱり天守を仰ぎ見てしまいます!

ふと視線を天守よりそらすと、車いすの老婆を押す紳士・・・
どこかでみたことのある顔だが??

思い出しました! 俳優の榎木孝明氏です。
なにかの撮影か?とも思ったのですが、クルーを引き連れていなかったことから、どうもプライベートで来ていたようです。

  ※榎木孝明氏についてはこちら ⇒ 榎木孝明オフィシャルサイト

美しき天守群に目を奪われがちですが、



高い石垣と厳重な櫓の配置もまた魅力です。



手前方にあるのはカの隅櫓【国指定重要文化財】。



南西のはずれに建つのはワの隅櫓【国指定重要文化財】。
足元の扇の勾配もまた見事です。



でもやっぱり天守が素晴らしい!
手前方に構えるチの渡櫓・隅櫓【国指定重要文化財】、その上段に天守群がそびえ立ちます。
中央の真っ白な大天守【国宝】は最近まで修復工事をしていたため、屋根瓦が銀色に輝き、真っ白に見えてしまいます。
その左隣の西小天守【国宝】、その隣乾小天守【国宝】の屋根瓦の色が対照的です。



それでは姫路城の内部に突入します。



当時は修復工事中とのことでしたので、入場制限がありました。
そのためか、入城料は格安の400円。
現在は1,000円になっています。

入城を管理する管理事務所には、コインロッカーも整備されており、



100名城スタンプもこちらにございます。



姫路城内部への入口は、菱の門【国指定重要文化財】です。



菱の門をくぐると、方形の三国濠



そこから眺める天守群も素晴らしい。

こうなれば早いとこ天守に近づいていきたいところですが、まずは寄り道をして西の丸を回っていきます。





赤穂城~最後の近世城郭

2016-04-04 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 前 1 0 時 2 2 分

兵 庫 県 赤 穂 市

大 石 神 社





大石神社を参拝して、いよいよ赤穂城【国指定史跡】登城へ。


大石神社を訪れる前に、

 

すでに大手門は通過しています。
つまり大石神社は赤穂城の城内、三之丸に鎮座しています。

神社から少し進んだところで、

 

通路の左右でえらく様相が変わるお濠。
通路の左・東側が二之丸外堀、堅固な石垣が築かれている西側が二之丸内堀です。



お濠を東西に隔てる二之丸門跡を越え、二之丸へ。



二之丸外堀のほとりにたたずむ銅像は、山鹿素行です。

山鹿素行は、陸奥国会津(現在の会津若松市)で生まれました。
若くして江戸に出て、大学頭林羅山から朱子学を学び、甲州流軍学者小幡景憲らから軍学を学び、その他多様な学問を修めました。
しかし幕府の御用学問ともいうべき朱子学を批判したため、幕府より赤穂藩へ流罪となってしまいます。
赤穂藩では罪人ではなく賓客として扱い、赤穂藩士の学問の師となりました。大石内蔵助も門弟のひとりであったそうです。
のち幕府より赦免され、江戸に戻りました。




赤穂に配流されていた山鹿素行は、大石頼母助たのものすけ良重の屋敷で8年ほどの期間を過ごしたそうです。
大石頼母助は、大石内蔵助の大叔父にあたる人物で、赤穂藩の家老職にありました。
二之丸門付近に屋敷を構えていて、現在はその屋敷門が整備されています。


大石頼母助邸のすぐ近くに、



本丸門が構えています。


赤穂城は、正保3年(1646年)に赤穂藩藩主・浅野長直の命により、甲州流軍学者の近藤正純が縄張りを設計しました。
慶安元年(1648年)に幕府へ築城計画を届け出て受理され、築城が始まります。
途中、赤穂に滞在していた学者・山鹿素行の助言も受けて縄張りが変更され、寛文元年(1661年)に完成しました。
近世で最後の城郭ともいわれます。
5万石の浅野家にとって赤穂城は大きすぎる城であったようで、計画にあった天守はついに建設されませんでした。

その後は、長直の孫・内匠頭たくみのかみ長矩ながのり赤穂事件で浅野家は断絶。
永井氏、次いで森氏が2万石で入封し、幕末を迎えました。
明治維新後、廃城。



本丸門の先は文字通り本丸なのですが、あえてすぐには入らず、二之丸をぐるりと回っていきましょう。




本丸門から時計回りに歩くと、まず見えてくる厩口門(台所門)【復元】。

浅野家の時代には厩口門、森家の時代になると台所門と呼ばれていました。
門は高麗門の形式ですが・・・それよりも石垣です。
門の左側の石垣は、すぐ脇で曲がっています。
こうすることによって、門を破ろうとする敵軍に横矢を浴びせかけることができます。
曲線を多用する縄張りは、甲州流軍学に基づいているものだそうです。



堅固な石垣が組まれている本丸側に対して、



三の丸側は土塁が積まれていて、石垣の石を節約しています。
おおむね、外側は石垣、内側は土塁のようです。



本丸門とはちょうど反対側、刎橋門跡です。

 



それにしても本丸の縄張りは複雑で、至る所から横矢を浴びせることができるようになっています。



二之丸を回っていると、突如現れる白壁・西仕切
南北を二分していて、西仕切門によって行き来できました。
またこの門扉は、一部が横板を張らない構造(透かし門)になっていて、門扉を閉めながらも敵軍の様子をうかがうことができるようになっていました。



西仕切の先は赤穂城二之丸庭園【国指定名勝】がありますが・・・
この日は工事中のため中には入れませんでした。


刎橋門跡の反対側には、二之丸から外に通じる水手門があります。





築城当時、二之丸の外は川に面していて、満潮時には海水が石垣まで達していたそうです。
米俵などの物資が、この門を通して城内へ運ばれていて、水手門のすぐそばに米蔵が建っていたそうです。


ふたたび本丸門へ。



まずは高麗門形式の二の門を通過。



櫓門である一の門は、二の門の右斜め前に構えます。



二の門にて100名城スタンプを発見。



60番、赤穂城!
絵柄はまさにスタンプが設置されている本丸門、そして本丸御殿跡です。



赤穂城の本丸へ。



発掘調査の結果から築かれた本丸御殿の遺構。
本丸の面積の多くを御殿が占めていたようです。



おや、あの女性は・・・?



天守台からなにかを眺めているようです。
私も上ってみます。



御殿の遺構がかなり広大であるとわかります。
御殿のところどころには小さな中庭があったようです。



天守台の北東方向に厩口門(台所門)



同じく南西方向に刎橋門
向こうには海側の玄関口であった水手御門が見えます。


さて赤穂城本丸には、赤穂城本丸庭園【国指定名勝】があると聞いていたのですが・・・



この池が国指定の名勝なのか・・・?
この日は松の木と木蓮の花弁の色彩が美しかったのですが・・・これが本丸庭園・・・なのだろう、多分!
ということで、本丸庭園をしばし散策。

 



あれれ? 「赤穂城本丸大池泉」??
ここは本丸庭園ではないのか?
しかし天守台から眺めたところ、「庭園」と呼べるのはこの池泉だけ・・・。



もやもやしながらも、本丸門から退出しました。



本丸門、二の丸門跡を相次いで通過し、大石神社付近を通っていくと、



住宅街への入口の前に、塩屋門跡の石垣がひっそりたたずんでいます。



赤穂城の裏口にあたる塩屋門を出て、赤穂城の登城は終了。