本丸の茶屋で一服したあとは、いよいよあこがれの天守群に討ち入ります!
討ち入りますよぉ~!
討ち入りますよぉ~!!
おや? 天守の入口とは違うところにある高麗門。
この門は紫竹門【国指定重要文化財】です。
紫竹門の先にも櫓が連なっているようです。
高い石垣がこれでもかと連なっています。
紫竹門をくぐりました。
門の前には、このように竹が植えられていたそうです。
門の上にそびえ立つのは、天守群の一角をなす小天守【復元】。
小天守から続いて、天守群の隅に立つ南隅櫓【復元】。
こちらのルートは松山城の裏手のようですが、防御が固いです。
天守群からいったん離れると、すぐに搦め手を守る乾門東続櫓【復元】、乾門【復元】、乾櫓【国指定重要文化財】が現れます。
紫竹門付近の崖っぷちから見えていた櫓群は、これらの門構えです。
「乾(戌亥・いぬい)」は、方角で北西に当たります。
この先は搦め手のルートです。
門扉の上が格子になっているのは、敵方の動きを見通せるようにする工夫なのだそうです。
ちょっとだけ乾門を出て、乾櫓を見上げます。
さすがは戦国の生き残り・加藤嘉明が建てた名城、裏手の守りもしっかりしています。
松山城は、慶長7年(1602年)加藤嘉明により工事が着手され、翌年に嘉明の居城となりました。
このとき「松山」の名称がついたといいます。
その後も工事は継続、寛永4年(1627年)に一応の完成を見ました。
しかし嘉明は、完成直前に伊予松山20万石から陸奥会津40万石に転封となりました。
あらたに蒲生忠知(会津若松城を大改修した氏郷の孫)が、出羽上山から移りました。
忠知は二之丸の築造を行い、完成させましたが早くして亡くなり、嗣子不在のため断絶となってしまいます。
この後伊勢桑名より松平氏が入り、明治維新まで伊予松山を治めました。
その間松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の治世の天明4年(1784年)、落雷により天守が焼失してしまいます。
その3代後の松平勝善により城郭復興がなされ、安政元年(1854年)天守も蘇りました。
これが現在の天守です。
乾門から紫竹門に戻ります。
さきほどの南隅櫓(右側)と北隅櫓【復元】、それらをつなぐ十間廊下【復元】。
天守群や、乾門の防衛ラインとは離れたところにある野原櫓【国指定重要文化財】。
唯一現存している望楼型二階櫓で、松山城天守の原型になったともいいます。
紫竹門から本丸に入り、天守群の正面に戻りました。
今度こそ、天守に討ち入ります!
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