
現役最高齢の映画監督新藤兼人さんが、
老衰のため、100歳で亡くなった。
新藤兼人は、今の広島市佐伯区の出身であることは、
みなさんはよくご存知のとおり。
1950年に「近代映画協会」を作り、自らがシナリオを書いて、
自らが資金を調達するという映画作りを歩み始めた。
いわば、“独立プロ”の先駆者的存在であった。
1951年には、「愛妻物語」、1952年には、「原爆の子」を
製作。「愛妻物語」の主演乙羽信子は、こののち、新藤兼人のよき
パートナーとなっていく。
その乙羽信子の遺作となったのが、1995年の「午後の遺言状」。
しかし、独立プロでの映画製作は非常に厳しく、その解散記念
作品として製作したのが、1960年の「裸の島」である。
それからも、新藤兼人は映画を作り続けた。
そして、99歳で作り上げたのが、「一枚のハガキ」。
車椅子での製作となった。
私も、新藤兼人の映画はよく観た。
広島で、公民館で寝泊りしながら、映画を作ったこともある。
殿山泰治や乙羽信子の顔を見に出かけたこともある。
そして、私自身も、一時映画制作にかかわりたいと思ったときが
ある。
新藤兼人が設立したシナリオ専門学校の試験を受けようかと
真剣に考えたこともあった。
現役最高齢の映画監督であった新藤兼人さん。
日本映画史上に残した足跡と業績は、後世に長く語り
継がれていくことは、間違いないし、
広島が生んだ“偉大な映画監督”“シナリオライター”である。
いつも、ありがとうございます
老衰のため、100歳で亡くなった。
新藤兼人は、今の広島市佐伯区の出身であることは、
みなさんはよくご存知のとおり。
1950年に「近代映画協会」を作り、自らがシナリオを書いて、
自らが資金を調達するという映画作りを歩み始めた。
いわば、“独立プロ”の先駆者的存在であった。
1951年には、「愛妻物語」、1952年には、「原爆の子」を
製作。「愛妻物語」の主演乙羽信子は、こののち、新藤兼人のよき
パートナーとなっていく。
その乙羽信子の遺作となったのが、1995年の「午後の遺言状」。
しかし、独立プロでの映画製作は非常に厳しく、その解散記念
作品として製作したのが、1960年の「裸の島」である。
それからも、新藤兼人は映画を作り続けた。
そして、99歳で作り上げたのが、「一枚のハガキ」。
車椅子での製作となった。
私も、新藤兼人の映画はよく観た。
広島で、公民館で寝泊りしながら、映画を作ったこともある。
殿山泰治や乙羽信子の顔を見に出かけたこともある。
そして、私自身も、一時映画制作にかかわりたいと思ったときが
ある。
新藤兼人が設立したシナリオ専門学校の試験を受けようかと
真剣に考えたこともあった。
現役最高齢の映画監督であった新藤兼人さん。
日本映画史上に残した足跡と業績は、後世に長く語り
継がれていくことは、間違いないし、
広島が生んだ“偉大な映画監督”“シナリオライター”である。
