14歳でフランスに嫁いだマリー・アントワネットに、こと細かく宮廷での作法を教えたノアイユ伯夫人。そのあまりの厳しさと細かさに、アントワネットが「エチケット夫人」とあだ名を付けたほど。いったい彼女はどんな生涯を送ったのか?
↓ 1770年、アントワネットが御輿入れする際、フランスとオーストリアの国境近くまで出向き、引き渡しの儀を終えた後さっそく任務を開始したノアイユ伯夫人。
↓ ヴェルサイユ宮廷では、アントワネットにこと細かく礼儀作法を指導。
↓ とうとうアントワネットは、彼女を「エチケット夫人」と呼ぶ。
ノアイユ伯夫人の正式名称はAnne-Claude-Louise d'Arpajon, Comtesse de Noailles。1729年3月7日、フランス貴族の家に生まれる。1741年11月17日、わずか12歳でフランスでも有力貴族のノアイユ伯爵家に嫁ぐ。当時これはかなり玉の輿婚だったらしい。ノアイユ伯爵夫人は夫との間に6人の子をもうけるが、そのうち3人は幼少期に亡くなる。その後マリー・アントワネットの結婚に当たり、彼女の教育係を任じられる。「エチケットこそ宮廷に於いて最も重要。特に文章化されていないものこそ、しっかり叩きこまないと。」との信念で、彼女は14歳の王太子妃をビシバシ指導。アントワネットは彼女の細かさに辟易し、4年後ノアイユ伯夫人を解雇。自分と気の合う女官と交代させる。
↓ こちらがノアイユ伯夫人の肖像画。いかにも一筋縄ではいかない感じ。
フランス革命が勃発後も夫婦で国内に留まる。革命政府は夫人と夫フィリップに死刑執行の評決を下し、1794年6月27日、夫婦共にギロチン台に上る。亨年65歳。
14歳の少女にとって、口うるさいオバサンの存在は耐えがたかっただろう。だが…耳の痛いことを言ってくれる人こそ、本当はそばに置いておかなくてはいけないことがわかる頃、人はもうかなりの年になっている。特に君主なら、なおさら。厳しいことを言ってもらえるうちが花。でもそんなこと、若いアントワネットにはまだわからない。その結果、聞こえのいいことばかり言う女官だけで周囲を固めたアントワネットの行く末は…。オスカルは、アントワネットとノアイユ伯夫人とのやりとりをどう見ていただろう?「あの細かさは、私でも耐えられないな。」と思っていたか、「年長者の言うことも一理ある。」と感じていたか?宮廷での処世術はフランスに限らず、どの国でも大変。現代もそうかもしれない。
読んでくださり、本当にありがとうございます。
ノアイユ伯夫人は、アントワネットに立派なフランス王妃になってほしくて、重箱の隅をつつくような指導をしたのでしょう。14歳のアントワネットにはそれが耐えがたく、王太子妃の特権で彼女を解雇してしまう。
国外に亡命することなく、ギロチン台に上がることになった夫人は、フランス革命をどう見ていたでしょうね。このような人の存在が、実はとても貴重であることがわかるのは、ずっとあとになってから。人生、うまくいかないものです。
短い間しかアントワネットに仕えていなかったのですね。もっと長いと思っていました。また最期が・・・! 知らなかったので衝撃的でした。記事にして下さりありがとうございます。