Vばら 

ある少女漫画を元に、エッセーと創作を書きました。原作者様および出版社とは一切関係はありません。

今週の週めくりカレンダー デュ・バリー夫人

2015-08-12 16:25:11 | つぶやき

 宮廷におけるアントワネットの敵その1は、デュ・バリー夫人。いったい彼女はどんな女性だったのか?

 改めてフランス宮廷における寵妃の位置について調べてみると---

 「図説 ヨーロッパ宮廷の愛人たち 石井美樹子著 河出書房新社刊」

 著者石井さんはまえがきで、次のように書いている。(以下引用)

 王の結婚は国家にとって、最大の外交の駒。王は政略結婚を受け入れ、外国の王女を妻に娶り、国家に貢献するするのを求められたから、恋愛結婚など夢見ることさえできなかった。---略--- それゆえ王の恋愛は大目に見られた。フランスの王室では、王の公認の愛人(maitresse en titre)は、公式の役職だった。宮廷の儀式で一定の役を果たすことが求められ、その報酬として、貴族の称号と手当と年金が支給された。宮廷では王妃に次ぐ権力を行使した。王妃が陽の当たる地位に君臨する一方で、公認の愛人は宮廷の影の部分を背負い、国王や重臣がおかした失策や過ちなどの責任を一手に引き受けた。そのため国家が危機に瀕すると、国民の不満の目はもっぱら愛人向けられた。

 ルイ16世は愛人を持たなかったので、国民の怒りは外国人の王妃アントワネットに向けられた。国家の財政破たんの責任はあたかも王妃一人の責任であるかのように糾弾された。たかだか一人の女性の贅沢で、国家が破産するわけがない。ルイ14世のヴェルサイユ宮殿建造、隣国との相次ぐ戦争、アメリカ独立戦争への参加などの累積赤字がフランスを追い詰めたのである。しかしルイ16世に愛人がいたら、アントワネットの首が切り落とされることはなかったかもしれず、フランスの歴史は異なった軌跡を描いていたかもしれない。

 王は既婚女性しか「公認の愛人」にしなかった。愛人が王妃の座を望み、騒動を引き起こすのを避けるためである。愛人にしたい女性が独身の場合は、王は彼女に夫をあてがってから宮廷に迎え入れた。(無論、例外もある。)

 さて今週の週めくりカレンダーの主役はデュ・バリー夫人(1743-1793)。本名はジャンヌ・ベキュといい、パリのお針子の私生児として生まれた。父の名も身分も不明。ジャンヌは17歳の時、パリの婦人服店で働き始める。まぶたが半分眠ったように垂れ、相手を催眠にかけるような話し方をするジャンヌには妖艶な美しさがあり、多くの男たちを虜にした。20歳の時、自称ジャン・デュ・バリー伯爵と出会い、彼と暮らすようになる。伯爵の仲介で、高級娼婦として上流階級の男性を顧客に取り、男性を悦ばせるテクニックや、上流社会でのマナーを身につけていくうちに、ルイ14世、15世に仕えた政治家で軍人のリシュリュー公爵と知り合う。公爵はジャンヌをデュ・バリー夫人として、ルイ15世に紹介する。

 ポンパドゥール夫人の死後、ルイ15世は次々と新しい愛人を持ったが、夫人の代わりとなる女性に巡り会えなかった。しかしジャンヌを一目見るなり気に入った。この時ジャンヌ25歳、ルイ15世58歳。自称デュ・バリー伯爵は紹介料と言う名目で報奨金をもらい狂喜したが、彼には既に妻子がいた。そこで田舎に住む独身の弟を急きょ呼び寄せジャンヌと結婚させる。ジャンヌは結婚証明書にサインをすると、晴れてデュ・バリー夫人としてヴェルサイユ宮殿に入る。弟は結婚して数日後、謎の死を遂げている。当時、こんな歌がはやったとか。

 何という不思議!

 つまらない娘が

 つまらない娘が

 何という不思議!

 王から愛されて

 宮中にいる!

 ジャンヌの魅力は肌の美しさだった。当時、天然痘のため、多くの人の肌があばたに覆われていたが、幸いジャンヌはこの病気にかからず、白く滑らかな肌の持ち主だった。虫歯はなく、歯は真珠のように光り、ばらの花びらを散らしたお風呂でしばし沐浴し、清潔な体を宝石やリボン、レースで飾り立てた。

 1770年、アントワネットがルイ16世の花嫁として輿入れした時、デュ・バリー夫人は既に国王の公認の愛人として確固たる地位を築いていた。アントワネットは「国王を悦ばす役目」のデュ・バリー夫人を軽蔑し、決して声をかけようとしなかったが、この態度が外交問題に発展し、母マリア・テレジアからの助言に従いやむを得ず、1772年、新年の宴で最初にして最後の声かけをする。「今日のヴェルサイユには、たくさんの人が集まっていますわね。」アントワネットの譲歩、そしてデュ・バリー夫人のプライドが保たれた。

 1774年、ルイ15世が危篤に陥ると、デュ・バリー夫人は宮殿を追い出され、ルイ15世が彼女のために建てたパリ近郊のルーヴシェンヌの邸に移り住んだ。1786年、ルブラン夫人がデュ・バリー夫人のパトロンであるド・ブリザック元帥から依頼を受け、彼女のもとを訪れ描いた肖像画が次の2枚。この時デュ・バリー夫人は40代になっていた。髪には白いものが混じるようになっていたが、男性を魅了する美しさは相変わらず健在だった。デュ・バリー夫人が暮らしたこの屋敷には、フランス国王の寵妃の御機嫌取りをしようと、ヨーロッパ各地の王侯貴族や大使から贈られた途方もなく価値のある花瓶や柱廊、古代ギリシャやローマの彫刻などが無造作に置かれていた。

 デュ・バリー夫人は革命が起きる直前、宝石を盗まれてしまい、それがイギリスで売られていることを知ると、取り戻すためにドーバー海峡を渡った。そこへフランス革命の知らせが飛び込んできた。友人たちはこのままイギリスにとどまるよう説得した。取り戻した宝石を売れば、一生涯どうにか暮らしていけると。しかし夫人はそれをふりきりフランスに戻る。パトロンのド・ブリザック元帥に会いたくて。帰国後、元帥は夫人の目の前で逮捕され、ヴェルサイユに移送される途中惨殺された。革命家たちは殺害した元帥の頭を掲げて、屋敷に住むデュ・バリー夫人の鼻先に突きつけた。何ともグロテスク。(このあたりの事情は、wikiには違った記載がされている。どちらが真実だろう?)

 それからまもなく夫人も逮捕され投獄。1793年末、ロベス・ピエールが代表を務める革命委員会によって裁判にかけられ、死刑を宣告された。ギロチンを目にした時、恐怖のあまり夫人は金切り声を上げ、命乞いをした。群衆が動揺するのを見た執行人サンソンはすぐさま夫人を処刑したほうがいいと判断し、予定より早めて刑を執行。サンソンとデュ・バリー夫人は知り合いだった。サンソンは息子に刑の執行を委ねた。享年50歳。

 天国と地獄の両方を味わった女性---デュ・バリー夫人。イギリスにとどまっていれば、生き永らえることもできただろうに。愛する人に会いたくて、命の危険を顧みず祖国に戻る。彼女にはどんな高価な宝石よりも、愛する男性が大事。「まさか自分がギロチンにかけられることはないだろう。」とタカをくくっていたかもしれない。こういう女性には、平凡でつましい生き方は似合わないのかも?

 読んでくださり、ありがとうございます。



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