春になったら、また安土へ行こうと思ってるのだが・・・。
まだ一ヶ月以上先の話なので、
今日は、行った時に確認する予定の、
摠見寺の鐘について考えてみます。
現在の摠見寺には、大手道から見える位置に
比較的新しい鐘楼が建っていて、鐘が下げられています。
この鐘と鐘楼については、
「小杉放菴記念日光美術館」のサイトに、由来が載っていて、
(参照
TOP>小杉放菴について>小杉放菴についての詳細>小杉放菴と松岡範宗)
「・・・鐘もあった筈だと、ひとびと心がけて居るうちに、摠見寺銘のある鐘が三ヶ處で發見された、
代々の住持のうちに、鐘を賣った和尚、又作らせた和尚、又賣った和尚があったわけです、
其のうちの最も古き年號のを買いもどした、・・・
・・・松岡和尚在住期に果たせなかった鐘楼再建は、一九五五(昭和三十)年に、
安土町、能登川町、近江八幡市といった安土山近隣の町からの寄付により実現された。・・・」
ということで、現在摠見寺にある鐘は、
3ヶ見つかった摠見寺銘のある鐘のうちの最古のものということです。
他の摠見寺銘の鐘について、一つは判明していて、
参照(エボのメモ帳--大光寺の梵鐘--(09-06-03))
「吹田市にある浄土真宗本願寺派の大光寺にあり。
梵鐘の由来を記した掲額によると、寛永二十年十月に飯田加衛門入道宗運が鋳造。
大きさは高さ5尺、口径2尺9寸。
明治14年に大光寺の什物となった。」
ということで、寛永二十年に作られた鐘は大光寺にあり、
摠見寺の記録では、寛永二十(1643)年と天保二(1831)年に、
鐘供養を行った事になっているので、
現在摠見寺にある鐘は、
寛永二十年と天保二年に作られた鐘ではない事になります。
小杉放菴記念日光美術館のページには、現在の見寺の鐘が、
どこから来たのかについては書いていないのですが、
前に安土に行った時に撮った、超光寺鐘楼の写真に答えがのってました。
梵鐘由来
超光寺第四世鏡円法師が安土見
寺の梵鐘鋳造の功により、文政十年
その一つを賜りし名鐘なり、
戦後、摠見寺に鐘がなく、因縁ある
当寺の鐘を譲り、これはその代りに
受けしもの、
鐘楼は昭和五十五年三月門信徒に
より新築、
つまり、摠見寺に現在ある鐘は、もとの超光寺の鐘ということ、ですが・・・。
この由緒書きは少しオカシイ!!
摠見寺の梵鐘鋳造の話が出たのは、天保二(1831)年正月で、
鏡円法師の肝煎りで鐘供養が行われたのが、その年の5月26日なので、
文政十(1827)年の段階で、「梵鐘鋳造の功」などあるはずがない!
これはたぶん、天保十年の書き間違いで、
摠見寺の記録によると、
鐘供養に使った四本柱の仮堂を、天保九年に超光寺へ寄付したとされているので、
天保九年に超光寺へ下賜された仮の鐘楼が、天保十年に組み上げられて完成し、
落慶法要が行われた事の書き間違いであり、
梵鐘鋳造の功により賜ったのは、鐘ではなく鐘楼であると考えられます。
ともあれ、寛永二十年以前の最も古い銘のある鐘が、超光寺にあったということは、
寛永二十年に鐘が鋳造された時に、古い鐘が超光寺へ下賜されたもので、
天保二年の鋳造時には、寛永二十年の銘の鐘を貰ってはいないと思われます。
超光寺は天和二(1682)年創立、とされていますが、浄土真宗の寺院というのは、
もともと信者の道場として作られて存在していたものが発展していって、
本山の許可と免許を受けた所で寺院の創立となるので、
寺院創立前の寛永二十年の段階で鐘を下賜されてもおかしくはありません。
以上のことから、
現在摠見寺にある鐘は、
摠見寺~寛永二十(1643)年に超光寺へ~昭和三十(1955)年に摠見寺へ戻る。
寛永二十年銘の鐘は、
寛永二十(1643)年見寺~天保九(1838)年鐘楼から下ろされる~
明治十四(1881)年大光寺へ売られる。
天保二年銘の鐘は、
天保二(1831)年摠見寺仮堂~天保九(1838)年鐘楼へ~明治の頃売られる。
このように考えられます。
と、ここまできた所で新たな疑問が・・・・・・・
摠見寺は、信長が甲賀の寺院を徴発して移築により作られた物なのだから、
創建時の鐘に、摠見寺の銘が入っているはずがない!!!
ということは、現在の摠見寺の鐘は、正仲剛可の時代に、
秀頼・淀君の寄付によって作られたものではないだろうか・・・?
ということで、
この件の続きは、現在の摠見寺の鐘の銘を確認してからということで。(^^)v
江戸時代の摠見寺裏門は現在、超光寺の山門になっている。
この門については、摠見寺跡の発掘調査によって、摠見寺の裏門の礎石と
柱位置が一致し、たしかに見寺からの移築であると、証明されたのだが。
寛政3年9月に書かれた「境内坪数並建物明細書」の記録と若干違いがある。
ということで、今回はこの違いについて見ていきます。
「裏四ツ足門明キ八尺」超光寺山門の間口部は2m30cm、扉の大きさは普通、
軸穴距離で表すから、八尺でOK。
「唐居敷」門扉は現在、藁座にはめられているのですが、その下の礎石が、
唐居敷風に敷かれているので、元は唐居敷があり、腐食して傷んだので、
移築の際には使われなかったと考えられます。
「丸柱」現在も丸柱なのでOK。
「破風懸魚鰭付」現在懸魚はあるものの鰭は付いていませんが、
鰭は小さい部材で腐食しやすい位置にあるので、破損して紛失したと考えられます。
「二軒椽」室町時代風の、反り増しの強い二軒なのでこれもOK。
「獅子口弐ツ屋根瓦葺左右高塀屋根各瓦葺」これも現在と同じ。
これらは記録と現物が同じでOKなのですが・・・
「枡形三ツ斗」柱の上は大斗で桁行き方向のみ肘木がのる構成で、
三ツ斗では無いので、記録と違いがあるのですが、見方を変えると・・・、
梁行き方向には大斗が三つ並んでいる→大斗が三ツ→三ツ斗???
とりあえず、こう考えるしかないようなので、結論として、
記録した人は、あまり建築に詳しくないようです(^^)。
「雲板・大瓶束」この二つは現在の超光寺山門には使われていません。
雲板については、左右の高塀の屋根瓦があたる位置に付けられる柄振板の事を、
言う場合もあるので、あったとしても良いのですが、
門の中央部分には撥束が立ち、破風部分は板蟇股、
中央で棟木を支えるのは角材の束、各部材共、後補とは考えにくいので、
大瓶束が使用された形跡は全く無いと思われます。
では、どうしましょうか・・・・・・?
と思っていた所、初詣で山車を見かけて解決法を思いつきました。
山車などでは、破風の部分の彫刻を「大瓶束」と呼ぶ場合があります。
もともとは普通の大瓶束があり、その周りに彫刻が付いていたと思われますが、
江戸時代になると、山車が過度に彫刻化したために、彫刻と大瓶束の
区別が付かなくなって、破風部分の彫刻が大瓶束と呼ばれるようになりました。
建物明細書の記録を書いた人は、先ほどの「枡形三ツ斗」の例から考えると、
あまり建築に詳しくないと思われるので、
記録した人は、板蟇股という言葉を知らなかった→
記録した人は、破風部分の彫刻は大瓶束と呼ぶと思っていた→
板蟇股は禅寺で使われている雲板に装飾が似ている→
雲板に似ている大瓶束なので、これは雲板型の大瓶束だ→
雲板型の大瓶束だから→雲板大瓶束と記録しよう・・・(^^)
とりあえず、これ以外では記録にある大瓶束を理解できないので、
記録の作者が言う所の大瓶束は板蟇股の事であったと考えられます。
これらの考察から、裏門に関する記録の、
「枡形三ツ斗」と「雲板・大瓶束」は文字通りの形状ではなく、
梁行き方向に大斗が三つ並び、
破風部分は板蟇股であると思われるので、
現在失われてしまった表門についての記録にのっている、
「枡形三ツ斗」と「雲板・大瓶束」も裏門と同じく、
梁行き方向に大斗が三つ並び、
破風部分は板蟇股であると考えられます。
記録の動きから式次第を作ってみました。
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6/2 朝7:00 大鐘
--☆拈香法語☆-- 導師服装 伝法衣
殿鐘三会大衆上殿
導師拝請
七下鐘導師入堂
拈香師拝請
晋同三拝
拈香法語
拈香師退場
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対真小參の準備
--☆対真小參☆-- 導師服装 伝法衣
殿鐘三会
導師拝請
七下鐘導師入堂
小參師拝請
侍者問訊
両序問訊
侍者請法香
垂語
問答
提綱
小參師退場
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--☆諷経 行道☆-- 導師服装 九條袈裟
殿鐘三会
導師拝請
七下鐘導師入堂
宣疏跪炉
啓請
甘露門
行道
回向
散堂
--☆お斎☆-- 導師服装 布衣
喫斎(昼食)
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記録には無いものの、禅宗なので、どこかで
般若心經や大悲呪は唱えていたのではないかと・・・?
現代の一般的な法要は、
三番目の諷経と四番目のお斎のみだと思われますが、
信長150回忌の仏殿での法要は、全体が三部にわかれていて、
導師が何度も出入りを繰り返しています。
この、導師の行動ですが、仏殿東門から出入りし、
「殿後」つまり仏殿の裏側で着替えを行っています。
また、図によると仏殿東西の出入り口は、
南の角から少し北に離れた所で、東西対称の位置に作られています。
会場の形は、中央の須彌壇が北側に凹んだ配置になっていて、
通常の密教寺院の、内陣側に張り出すのとは逆の形式なので、
創建時からこの時までの150年の間に、
大規模な改修があったものと思われます。
安土城へ行く予定だったのだが、
雨だったので、予定変更して、
先月コピーしてきた
信長の150回忌法要の資料をUPしました。
図や解説はまた後で。
六月二日、辰の刻、
一番大鐘(だいしょう)、大衆(だいしゅ)衣を整う。
二番殿鐘(でんしょう)、大衆出頭。
衆集いて殿鐘を上げむ[と]、
両序(りょうじょ)立班(りつはん)、大衆同じく立つ。
拈香(ねんこう)和尚に告報(こくほう)す、
和尚、侍衣(じえ)侍香(じこう)聴呼(ちょうこ)を相(あい)随(したが)え、
出でて東門より仏殿に入り、東邊(へん)の椅子に坐(ざ)す。
侍衣・侍香・聴呼・齋(いつ)く[と]、和尚の後ろに侍(じ)す。
維那(いな)宗諄首座、位を離れ出でて拈香和尚に問訊(もんじん)し、
拈香の佛事を請(しょう)す也(なり)。宗諄首座、位に歸(かえ)る。
和尚中央に進み、侍衣、東序(とうじょ)の後に立つ、
侍香、和尚の後ろに侍す。
和尚、普同問訊(ふどうもんじん)す、侍香瓣香(べんこう)を捧(ささ)ぐ。
[和尚が拈香法語(ねんこうほうご)を唱える]
和尚、語を唱(とな)え了(おわり)て、牌前に進み香を炷(た)き、
中央に歸(かえ)りて問訊す。
身を轉(まろ)め、亦東門自(より)出でて、殿後に入る。
大衆、坐(とど)め休(きゅう)す。
行者(あんじゃ)、[殿]南に、對靈(たいれい)して
北面に陞座(しんぞ)の坐を設(もう)く。
椅子の後(うしろ)べに柱杖(しゅじょう)を靠(か)く、
左に大卓(だいたく)を設く、
上に香爐(こうろ)大香合(だいこうごう)拂子(ほっす)を安ず。
坐を設け了(おわ)る。
両序、位を轉(まろ)め立班、大衆同じく立つ。
和尚に告報(こくほう)、東門自(より)入りて東邊の椅子に坐す。
侍衣・侍香等前の如く。
維那、宗諄首座、位を離れ出でて和尚に問訊し、
是(こ)れ、陞座(しんぞ)を請する也。
和尚、位を離れ出でて南邊の椅子に坐す、
侍香、東序の後に立つ、侍衣・侍香、椅子の前に出でて問訊す。
次に西序次に東序、各位、問訊了る。
侍香、卓に進み請法(しょうほう)の香を炷(ちゅう)す、
身を轉(まろ)め、和尚に問訊し、拂子を進む。
和尚、拂[子]を拈じて垂語(すいご)。
禪客(ぜんかく)出陣して、問答す。
和尚、法語(ほうご)了りて下座(げざ)、
亦、殿後に入りて[伝]法衣を脱(あらた?)め、九條[袈裟]に換う。
両序立班、大衆同じく立つ。
和尚に告報(こくほう)、和尚出でて、中央に進み燒香、
行者(あんじゃ)磬(けい)を鳴らし、維那、啓請(けいしょう)を挙(こ)す。
和尚中央に立ち、維那、南無薩[婆]胆多(なむさぼたた)を挙(きょ)し、
和尚西序に問訊し、直ちに行道(ぎょうどう)、
次に大衆、次に東序、五段の大衆、歸位(きい)、両庵[班]立班、
和尚、燒香如常(にょじょう)、囘向(えこう)了(おわ)る。
和尚、亦、殿後に入りて、道具衣(どうぐえ)を脱ぎ、布衣(ほい)に換え、
書院に就(つ)き于(て)、叉手(さしゅ)着座(ちゃくざ)喫齋(きっさい)。
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織田信長が創建し安土城跡に残る見寺(滋賀県安土町下豊浦)は、これまで非公開にしていた本堂を、5日から毎週日曜と祝日に特別公開する。
同寺は室町時代の三重塔(重要文化財)や二王門(同)などが現存するが、本堂は嘉永7年(1854)に焼失した。現在の本堂は明治時代以降の建築で、隣に茶室がある。
本堂には本尊の聖観世音菩薩像や、江戸時代の制作とみられる織田信長座像を安置している。公開に合わせ襖を新調し、西村惠信・前花園大学学長の禅画『十牛図』を張った襖や、山本燈舟・同寺執事の水墨画『安土八景』、日本画家赤沢嘉則さんの『老櫻』などの襖絵が見られる。安土城天守閣跡から発掘された金箔瓦なども展示する。
加藤耕文住職は「地元や観光客から要望が多く、公開する事にした。茶室でお茶を楽しんでもらえれば」と話している。
特別公開は安土城跡入山料500円の他に特別拝観料1000円が必要。対象は高校生以上で、抹茶接待が付く。
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見寺の本堂が公開されるそうで、
早速見に行く予定を・・・・。
不景気なのに(不景気だからか)ヒマが無いのはなぜ?
ゴールデンウイークにはたぶん、時間が取れそうです。
安土町史の編纂事業は、昭和58(1983)年と60(1985)年に、
資料編1と2が出版されたのみで終わってしまったようです。
見寺の資料も調査されたのは一部であって、
存在しているはずの、信長の年回法要の記録は、
刊行された安土町史には載っていませんでした。
蒲生郡志あたりにはのってるのかも・・・?
と思っていた所、蒲生郡志は東京都立図書館で蔵書しているらしい、
次に東京まで行く時間が取れるのは3/14~になるので、
次の更新は3月末の予定になりそうです。
現存する織田信長の木像の資料が掲載されていて、
その中の見寺の項目に、
>3.総見寺 滋賀県 束帯 施主不明 旧本堂の御霊屋に安置されていた。
>本堂の火事の際、被災を免れる。
とありました。
旧見寺本堂内部に安置されていた物は、
嘉永7年11月16日の火災で、全て焼失したと思っていたのですが、
織田信長の木像が被災を免れて現存しているからには、
ほかにも焼け残った物がある可能性もあり、なにより、
見寺の織田信長の木像を調べる必要が出てきました。
並んでいる位牌の状態から考えて、
1761~1765の間に作成されたと思われる「方丈列牌図」によると、
信長の木像は、東牌堂と書かれる位牌壇の、ほぼ中央に置かれた、
鍵付きの御霊屋内に安置されていた事になっているので、
現存する信長の木像が、本当に被災を逃れた旧本堂内部のものであれば、
木像の大きさから御霊屋と東牌堂の、
だいたいの大きさが推測できる事になります。
とはいうものの、
たしか昨年、安土城へ行った時、見寺の入口には、
「拝観謝絶」だか「立入禁止」の札が掛かっていたので、
一般に寺の内部は公開していないようです。
というより、たとえ公開されていても、
信仰対象になっている信長の木像が、
本当に旧本堂に安置されていた物かどうか、という調査に、
見寺が乗ってくれるとはちょっと思えないので、
この件の解決は、ちょっと望みが薄いようです。
12月の記事見寺の扁額 その1 の続編。
見寺には、江戸時代の校割帳に載っていない扁額があって、
それが、写真上記の、額面に「扶桑第一山」と書かれた物です。
この扁額は形状から言って、
楼門に懸けられていたものと推測でき、また
現存するのに校割帳に書かれていないということは、
人の立ち入らない楼門内に保管され、忘れ去られていたと考えられます。
江戸時代の校割帳では、楼門には写真下の、建部伝内筆、
「遠景山 下漫々 捴見寺」("そう"は手偏に総の旁)
の扁額が掛かっていたとされているので、
もともと掛けられていた「扶桑第一山」を外して、
「遠景山・・・」の扁額に変えられたわけで、
さらに、建部伝内は信長の時代の人なので、
「遠景山・・・」の扁額は信長の時代に作られたもので、
見寺の創建時には、楼門以外の建物に
掛けられていたということになります。
では、楼門以外の建物というと、一般的に言って、
表門か本堂のどちらかになるのですが、
本堂の「圓通閣」の額が、江戸時代に作られたもので、
「遠景山・・・」の額を「圓通閣」に変えた可能性が高く、
見寺の創建時の扁額は、
楼門に「扶桑第一山」
本堂に「遠景山 下漫々 捴見寺」
が、掛けられていたと考えます。
やっと滋賀県史跡調査報告11のコピーを取ってきました。
やはり見寺創建時の楼門扁額は、
別のものが掛かっていたようだ。
と、扁額については解決したのだが、
また本堂内部について新たな難問が・・・。
ちょっと問題が手に余るので、詳細はまた後日。
画像は今日の富士山、
天気が良くて暖かかったので、久しぶりに窓を開けてみました(^^)