摠見寺 復元案

安土城にある、摠見寺(そうけんじ)の復元案を作成する プロジェクト日記

甲賀周辺の本堂や一枝寸法の時代傾向

2011-08-21 19:47:22 | 考察
これまでの考察で、見寺本堂の前身寺院は、

三間堂を五間堂に拡張されたもので、
一枝寸法は、0.6666尺 と推測しました。


甲賀周辺の中世密教本堂の例をみると、

長寿寺・円光寺・西明寺前身堂が鎌倉時代、
桑実寺が南北朝時代に作られた五間堂であり、

西明寺本堂の七間堂への改装が南北朝時代、
金剛輪寺・善水寺・常楽寺・園城寺金堂、
長命寺・浄厳院などが室町時代の七間堂という傾向からして、

甲賀周辺地域の中世密教本堂は、
鎌倉時代の標準が五間堂で、
室町時代になると七間堂が標準に変わったことが、
残された遺構の例から読み取れます。


また、
一枝寸法が、0.6666尺の例をみると、

平安末期の中尊寺金色堂から、鎌倉時代の
大報恩寺本堂・大善寺本堂・鑁阿寺本堂・
室生寺本堂(灌頂堂)など、
建立年代が、ほぼ鎌倉時代にかたよっています。


この例からすると、
見寺の前身寺院が五間堂に改造されたのは、
鎌倉時代ではないかと推測でき、
信長が移築したくなるには、
すこし時代が古すぎるような感じがしますが、


見寺三重塔の例をみると、
前身の長寿寺三重塔が竣工したのが、
安土城建設より百年以上前の享徳三(1454)年で、
これだけなら、信長の移築時にも、
だいぶ古い感じがしたと思うのですが、

長寿寺の三重塔は天文二十四(1555)年に、
西縁が壊れたのを修理しているので、
この時に全体の補修を行ったとすれば、
安土城建設の約二十年前のことで、

建築年代はたいして違わないのに、
常楽寺ではなく、長寿寺の三重塔が持ち去られたのは、
この時の修理で見た目が新しくなったことが原因と思われます。



この三重塔の例のように、
見寺本堂の前身寺院も室町時代に補修工事を受けて、
見た目が新しかったので移築されたと思われます。


と、
ここで疑問に思ったのが、発掘調査報告書では、
見寺の本堂は、もともと一重だったものを、
移築の際に二階部分を増築したものと推測しており、
見寺コンペの参加チームもその前提で計画していたのですが、


江戸時代に建てられた甲賀市水口にある大岡寺(だいこうじ)本堂は、


寄棟屋根の二重の本堂なので、

見寺前身本堂も、
移築の際に二階部分を増築されたのではなく、
もともと甲賀に建っていた時に二階部分を増築された物を、
信長が気に入って見寺に持ち去り、

甲賀地域には二重仏殿の記憶が残っていたので、
江戸時代に二重の本堂が建てられた可能性は否定できません。

それに、この大岡寺本堂、寄棟屋根以外にも、
柱の上にのみ組み物を置く所や、木鼻の形、
降り棟の取り付き部分より、少し下まで柱が見える所など、



見寺絵図に見える見寺本堂によく似ているので、
同じ系統の大工が作った可能性は十分に考えられます。



ということで、見寺本堂の前身寺院は、

甲賀地域において、三間堂として創建されたものが、
鎌倉時代に五間堂に拡大され、
さらに室町時代に二重仏殿に増築改装されたものが、
信長によって安土城へ移築されたと推測できますが、

ちょうど良さそうな例がありましたので、
次回は、見寺前身寺院と考えられる、
甲賀市の寺院について紹介します。





縁側、その2

2011-07-30 21:05:25 | 縁側
見寺の記録には、
5尺の縁側があったことになっているのだが、

調査報告の図を見ても、
縁側があったようにはとても思えない。

だいたい、
北側の縁束の礎石は全て残っているのに、
それ以外の縁束の礎石が全て紛失するとは思えないし…。

という所で、2008-05-22の考察が止まっていたので、その続き。


文化二(1805)年発行の木曽路名所図会の図では、
塔や書院・拝殿などには、縁側が描かれていますが、
本堂には縁側が無いように表現されています。

発掘調査報告の図を見ても、
北側の縁束の礎石は全て残っているのに、
それ以外の縁束の礎石が全て紛失するとは思えないので、

見寺本堂には縁側が無かったと言って良いのかというと、


寛政三(1791)年の見寺境内絵図には、
本堂の周りに「エン」の書き込みがあって、
同じときに作られた、
境内坪数並建物明細書においても、
「四方五尺縁」と書かれているので、

見寺の正式記録では、縁側が有ったことになっています。


見寺境内絵図成立から木曽路名所図会発行までは十四年間しかなく、
木曽路名所図会の取材期間を考えると、さらに年代は近くなり、
また、
信長の二百回忌法要は、天明一(1781)年に行われたばかりなので、
法要に向けて整備されたであろう建物が、
二十年も経たずに破損して縁側が撤去されたとも思われず、

縁側は、あったのか無かったのか問題なのですが、


延享二年改書の「遠景山見禅寺校割帳」の、廊下に置かれた道具の中に、

一、弐間半長床 新古 四枚
一、弐間長床     弐枚

というのがありました。

新古 四枚 という事は、
二間半の板が合計8枚の可能性があり、
二間長床が二枚なので、

境内絵図から考えても、それほど長いとも思えない見寺の廊下に、
合計10枚もの、二間や二間半の長い板が置かれていた、というのは変なので、

この長床自体が廊下だったのではないか、と考えると、

永平寺の廊下の形式に思い当ります。



永平寺の建物は禅宗様式なので、基本的には土間床なのですが、
建物の周囲に板が置かれていて、靴を脱いだまま歩けるようになっています。


このような板が、見寺本堂周囲に置かれていたとすると、

縁束の礎石は必要無いので、礎石が置かれてなくても問題なく、

動かせるものなので、木曽路名所図会の取材時には、
何らかの事情で取り外されていたとしても不思議ではなく、

縁側には違いないので、正式記録にも当然掲載されるので、


見寺本堂の周りは、土間床の上に、永平寺にあるような
移動可能な板(長床)が置かれていたものと考えられます。




一枝寸法の再考

2011-07-26 22:35:38 | 考察
寛政三年の「境内坪数並建物明細書」によると、
見寺本堂の屋根は出組と書かれています。

「匠明」の木割では、
出組の軒の出は地垂木の出7支、飛檐垂木5支となっていて、
垂木本数でいうと丸桁から地垂木6本、飛檐垂木5本で
軒を構成することになっています。

実際の類例を見ても、出組の五間堂の場合、
地垂木6本、飛檐垂木5本が一般的のようなので、

見寺の軒も、地垂木6本、飛檐垂木5本で構成すると考えると、

一枝寸法0.66666尺の時に、柱真から茅負まで9.33尺、
室町時代頃の瓦屋根の場合、裏甲の出がそれほど大きくはないので、
瓦の先端まで10尺程度とみることができ、
ちょうど瓦敷遺構に雨を落とすことが可能になります。


ということで、
見寺本堂の一枝寸法は、2008-09-28の考察で一度捨てた方の、

正面中央間の8尺を12支で割った、0.6666尺と考えます。


ちなみに2008年頃は遺構尺は1.005尺と考えていたのですが、
滋賀県の類例で、長命寺本堂の0.9990尺や石津寺本堂の0.9944尺のように
現行の一尺より短いものもあり、礎石の測量図上では誤差の範囲とも取れるので、

厳密にいえば同じはずはないのですが、

遺構尺一尺は現行の一尺寸法と同じ303mmとして計画します。







本堂一階、軒の出に関して

2011-07-18 15:10:33 | 考察
「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」によると、P17

建物8(書院跡)の入口に当たるL字型の花崗岩切石の前面に、
南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構があり、
建物8(書院)への導入路になっている。

と、されているのですが、



寛政三年の「境内坪数並建物明細書」には、

書院には式台があって、入口には明き五尺一寸の玄関門が建っている、

とされているので、

正式な導入路は、玄関門と式台を結ぶ中軸線にあるはずで、
発掘された瓦敷き遺構は、たとえ導入路だとしても、
門脇の潜り戸と、式台脇の通用口を結ぶ動線にしかなりません、

普通、導入路を作る場合、まず先に中央通路部分を作るのが常識であり、
中央通路には何もなく、脇の通用口だけに敷瓦の導入路が作られるのは非常識だ!



と思っていた所、2008年刊行の「特別史跡安土城跡発掘調査報告書1」
では、すこし表現が違っていた。


P87[瓦敷き遺構]
建物8の入口にあたるとみられるL字型に配した花崗岩切石の前面に南北方向に通路に向って延びる遺構である。L字状切石の前面には約1.5m四方の平瓦と軒丸瓦を平置きして敷き詰めたスペースがあり、これより南へ幅約40㎝長さ4mに亘り平瓦を菱形に飛び石状に配し、その間を軒丸瓦・軒平瓦の瓦当文様を見せるように埋め込み隙間に平瓦の木口面が見えるように差し込んで比較的に意匠をこらした通路としている。



L字状切石が建物入口の石敷きだとすると、
さらにその前面に約1.5m四方の瓦敷スペースがあるのは変なのですが、


延享二年改書の「遠景山見禅寺校割帳」の中にこんな部分がありました。

一、水溜大桶 内壱ヶハ庫理之用 壱ヶハ風呂屋之用 弐箇
一、用水溜桶 小手桶十五ヶ有  壱箇



二つの大桶が、境内東側の風呂屋と、境内西側の庫裏にあるのだから、
場所が書いて無くても、手桶が付属する残り一つの用水桶は本堂の消火用と考えられ、

付属する手桶十五ヶは、用水桶の上に五段に積み上げられていたと考えられます。


標準サイズの7~8寸の手桶を五つ横に並べると横幅が105㎝~120㎝になり、
積み上げる時には普通、間に一~二寸ほどの隙間が出来るので、
積み上げた手桶の横幅は、120㎝~150㎝と考えられ、
このサイズがほぼ用水桶の横幅と同じになるはずなので、

用水溜桶は、発掘された約1.5m四方の瓦敷スペースにちょうどぴったり納まることから、

この瓦敷きスペースは、防火用の用水溜桶が置かれていた場所であると考えられます。


また、見寺の書院と本堂は非常に近接しているので、
樋がなければ、雨の日に本堂の縁側が水浸しになってしまうので、
本堂と書院の接合部には雨樋が渡してあったはずで、
天水桶を設置するには、ちょうど良い場所ではないかと思われます。



残りの、南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構についてですが、
見寺三重塔周辺には、このような石敷きがされています。



この石敷きは、一見通路のようにも見えるものの、
塔の周りを廻る通路ではなく、常識的にいって三重塔の雨垂れ受けなので、

書院前の瓦敷き遺構も、

門脇の潜り木戸と通用口を結ぶ通路ではなく、
本堂の雨垂れ受けであると考えます。



瓦敷き遺構が本堂の雨垂れ受けだとすると、
本堂の軒の出は、本堂端に置かれた礎石の中心から
瓦敷き遺構の中心まで、約3mもあることになります。


出組の五間堂で3mの軒の出というのは、標準より長めなので、

2008-09-28の考察、一支寸法は174mm 0.5714尺では納りません、



ということで、次回はまた支割についてみて行きます。


三間堂を五間堂に増築

2011-07-10 12:15:48 | 考察
昭和49年発行の「滋賀県史跡調査報告11」の中に、
見寺本堂跡の実測図があり、

その図では、本堂梁行中央間は、
内陣梁間にあわせて外側の柱間も9.25尺になっています。


この柱間寸法の復元数値は、
「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」の、
まとめの部分でも踏襲されているので、

「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」P86
「側柱の柱間を桁行・梁行とも8尺等間にとっていること、」

という文は、単なる書き間違いであると考えられ、


見寺本堂の柱間は、桁行が八尺等間で、
梁行が変則の柱間であると考えられるのですが、

通常の五間堂は、桁行方向は中央間が広いか、脇間が狭いかのどちらかで、
等間というのは、ほとんど例がありません。

この、
非常に珍しい平面がどうして出来上がったのかと考えると・・・。



 滋賀県・湖東三山の西明寺本堂は、桁行が七間ある七間堂なのですが、
通常の七間堂より、軒高が低くて落ち着いた印象があります。

これは、鎌倉時代に建てられた五間堂の柱・組物をそのまま再利用して
改造したためで、軒高は五間堂の平均的な高さのまま拡大されたので、
西明寺本堂は、七間堂としての標準的なプロポーションをもっていません。


見寺の前身寺院が、増築によって作られたものと考えれば、
桁行と梁行の柱間の矛盾が説明できるのではないでしょうか。


つまり、初めに海龍王寺や海住山寺文珠堂のような三間堂があって、
それを増築して五間堂になったと考えれば、

海住山寺文珠堂は、桁行が8尺3間で梁間が7尺2間、
海龍王寺西金堂は、桁行が10尺3間で梁間が10尺2間、
海龍王寺経蔵は、 桁行が8尺3間で梁間が8.7尺2間

という例からして、三間堂の桁行は等間が原則であり、また、
見寺の内陣部分の、桁行が8尺3間で梁間が9.25尺2間という寸法は、
三間堂としても問題ない寸法だと考えれられ、

この三間堂を増築して、五間堂に拡大しようとすると、
中央の桁行三間部分は、必ず八尺等間になり、
通常の五間堂のように桁行を変化させようとすると、
両端の脇間を狭くするしかなくなるのだが、

八尺等間にした場合の、桁行合計40尺というサイズでも、
五間堂としては小さ目であり、
三間堂を増築して五間堂にするという制約のために、
桁行八尺等間になったと思われます。



梁行に関しては、桁行八尺等間なら外陣部分の梁間も八尺二間となり、
その後ろに内陣9.25尺二間が納まり、

鎌倉~南北朝時代の五間堂にいくつか例のある、
桁行より梁行が少しだけ長い、ほぼ正方形平面にするために、
梁行中央間を内陳梁間にあわせ、残りの側柱二間は
柱間をすこしずつ低減させて納めれば、

発掘された礎石配置のような平面になります。


ということで、

見寺本堂の前身寺院は、
三間堂をもとにして、五間堂に増築されたものと考えます。




八尺等間???

2011-06-20 20:50:20 | 考察
2010.05.06の記事から、本堂の考察が止まっていましたが、

やっと、条件をみたす構成にたどりついたので、少しづつですが進めていきます。



さて、

安土城跡発掘調査報告6、によると、

見寺(そうけんじ)本堂は

P86「側柱の柱間を桁行・梁行とも八尺等間にとっている」 とされていて、

前の見寺コンペの参加チームも、すべて八尺等間で復元案を作成していましたが、

調査報告書の図に、八尺等間の格子をのせてみると……




外陣は八尺等間なのですが、

内陣の両側にあたる部分の側柱は、どうみても八尺等間ではありません。

このプランでは、右側の柱はかろうじて礎石に乗せられますが、

左側は、そもそも礎石に乗せられないのだから、絶対に八尺等間のハズがない!





ということで、

見寺本堂の柱間は、桁行が八尺等間で、

梁行が変則の柱間であると考えられるのですが、

通常の五間堂は、桁行方向は中央間が広いか、脇間が狭いかのどちらかで、

等間というのは、ほとんど例がありません。



安土城跡発掘調査報告6で、側柱が等間の例に挙げている、

P87「山形県・黄金堂、栃木県・地藏院本堂等」などは、

すべての柱間が等間なので、等間にした理由は、

手抜き工事工程の省力化、によるものと思われますが、

見寺本堂では、側面の梁行の柱間を変えていたり、桁行も、

正面に三つ並ぶ扉の幅を変化させて、単調に見えないように工夫されているので、

桁行が等間なのは、何か別の理由があると考えられます。




この、

梁間は変化させているのに、桁行を等間にしなければならない理由、を考えると、

安土城跡発掘調査報告6・P86の

「来迎柱を後退させ内陣を広くとるところは新しい傾向を示しているが、」 

という結論とは、全く違った本堂の履歴が考えられるようになり、

「新しい傾向」と考えなくて良ければ、簡単に辻褄が合うではないか!



ということで、続きはまた近いうちに・・・・・  来月になるかも。





超光寺の鐘

2011-05-29 20:19:17 | 

5/3(祝火)に安土城へ行った帰りに、 超光寺の鐘も見てきました。

滋賀県では「飛び出し坊や」という子供の看板が 流行っている?らしく、

道端のあちこちに立てられています。

静岡県では見た事がないので、写真を一枚(^^)

 

超光寺では、憲法記念日にきちんと国旗を掲揚していました。

さて、

三年前に来た時には、全く気にしていなかった 鐘楼の鐘ですが、

今回は銘文をチェックしてきました。

ということで、超光寺の鐘の銘文、

---------------

照峯山超光寺第四世法
光院鏡圓上人者領主安
土惣見寺寛沖大和尚之
時開基贈大相國一品泰
岩大居士信長公二百五
十回忌法會天保二年六
月執行供養之爲大梵鐘
新鋳發願應特命而独力
經営供進矣領主嘉賞訣
功績而寛永二十年鋳造
之舊鐘下賜干鏡圓以爲
超光寺法器拝受爾来一
百二十星霜間晨橦夕撃
矣昭和十六年秋十月滋
賀縣知事近藤壌太郎閣
下安土史跡顕彰之爲有
惣見寺還付之懇請超光
寺住職檀信徒一同奉命
拝承仍而賜斯洪鐘者也

---------------


---------------

   銘曰
興亜戦時 舊鐘還元
新鋳洪鐘 藤公恵賜
昭和聖代 曾祖鏡圓
古功實現 末裔満悦
繖岳西麓 麗湖東畔
靈杵暁撞 梵音夕傳
頓覺迷梦 普益顕冥
天長地久 國豊民安
佛曰増輝 邦家泰寧


皇紀二千六百一年晩秋良辰

第六世照峯山超光寺住職
本願寺布教使宗務所出仕
親授壹等清谷恵眼謹識

--------------
鋳工人
 近江國長濱
第十五世 西川徳左衛門
          藤原重久
--------------

 

ということで2010-01-30の考察はだいぶ違っていました。

銘文によると、天保二(1831)年に見寺の鐘を作った功績で、

寛永二十(1643)年の鐘を見寺から貰い、

現在超光寺にある鐘は、昭和十六(1941)年に、

元見寺の寛永二十年の鐘を滋賀県知事の要請で

見寺に戻す代りに贈られたものと書かれているので、

 

現在の見寺にある鐘は、寛永二十年鋳造の鐘で、

吹田の大光寺にある寛永二十年の見寺銘が彫られた鐘は、

天保二(1831)年に鋳造され、作られた時に

旧銘が彫りこまれたものと考えられます。

 

見寺文書の

「天保二年辛卯五月廿六日鐘供養雑記」によると

天保二年正月に、鏡円法師が鐘の新調の話を出した時に、

最近鐘の鳴りが悪くて、須田村まで音が聞こえにくい、

といった理由が挙げられているので、

 

一般的に考えて、新しく作られた鐘は、音を大きくするために

寛永二十年の鐘より大きく作られたはずで、

現在の見寺に懸けられている鐘の口径は64㎝で、

吹田の大光寺の鐘の口径が64㎝より大きければ、

大光寺の鐘は、天保二年に鋳造された旧銘の鐘で決定!となるのですが・・・。

 

 

結局、創建時の見寺の鐘は、

いまだに見つかっていない、という結論になりました。

 

 

 


安土城見寺の鐘銘

2011-05-21 22:38:18 | 


安土城にある見寺の鐘の銘文


---------------

安土山見禅寺者

贈大相国一品泰岩大居士信長
公之開基也奕世佼其後裔
住山矣宗哲蔵主其葛而
敲磕干余門庭者有年乎茲
今也鑄洪鐘掛着於梵塲之
次乞銘之仍綴蕪詞充其請云

銘曰

日域靈刹 近左名區
高城陳蹟 效以鴻盧
寄相國廟 拓安土居

----------------

家業繼述 荘厳綿敷
圓通榜閣 清浄滞湖
巨鐘鍠爾 勤備緇徒
發賢聖 徳到獨孤
上達無上 麁久三麁
依聲覚性 記事啓愚
禮樂重器 法道要樞
時不可失 何離須臾
伏冀
大樹誕膺景福
長祝

----------------

寛永二十年癸未十月良辰

長徳山主特英壽采識焉





-----------------

大意

安土山の見寺は、信長によって作られました。
その後、信長の末裔が住職となり、
宗哲さんがいろいろ境内を整備して、
鐘を作ることになり、鐘に刻む銘文を
頼まれたので、こんな感じに文を作りました。
(銘文は省略)
寛永二十(1643)年十月
知恩寺住職の特英壽采が書きました。



(長徳山主特英壽采識焉)の後、
間隔が空いて、枠の後ろのあたりに、
製造者の名前らしき物が彫ってあるのだが、
写真の撮り方が悪くて読めなかった(T-T)

さて、この銘文からすると、
寛永二十年の鐘は、安土城の見寺と、
大坂の吹田市にある大光寺の、
二つ存在することになります。

同じ時に二つも鐘を作るとは考えにくいので、
どちらかの鐘が、天保二年の製作で、
造られた時に以前の鐘の銘文を写された、
いわゆる旧銘という事になるので、
両方の鐘を見てみないと、判断ができない、

ということで、この続きは、
吹田市の大光寺の鐘を確認してからということで……。

っていったい、いつになるのだろう?


摠見寺、信長像

2011-05-08 14:40:49 | 雑記

ゴールデンウイークに、安土城の摠見寺へ行ってきました。

安土城入口のトイレと休憩所が新しくなっていたので、
近江八幡市に吸収合併されて、
財政に余裕ができた効果かと思ったら・・・

駐車場料金500円を徴収する事で、
建設費と維持管理費をまかなう計画のようです。

見寺は、2年ほど前から日曜祝日の天気の良い日に公開との事で、
入口の券売機で1000円の券を買うと、受付で、
安土城跡のパンフレットと、摠見寺の特別入場券が渡されます。

摠見寺の入口を入って、石段を上ると、
来客用と一般用の、式台が二つ並んだ入口が見えてきます、

本堂はそれほど広くなく、八畳を三つ並べた方丈型本堂の間取りで、
仏間には、写真撮影禁止の札が出ていたので、隣の部屋の縁側から。

本堂の奥には茶室が二つあって、緋毛氈の敷かれた席に座ると、
抹茶とほうじ茶と羊羹のセットが出てきます。

目の前の庭には、蹲踞などもあって、なかなか良い所です。


さて、
本堂仏間は、八畳敷きの奥に、四畳敷きの部屋を介して、
二間を三等分する幅の、作り付けの厨子になっています。
それぞれの厨子には、四枚引違の格子戸がはまり、

中央間に、像高40㎝、室町時代の十一面觀音、
向って右側に、像高56.8㎝寛政八(1796)年の円鑑禅師(正仲剛可)坐像
向って左側に、像高68.8㎝の信長像が、安置されています。

摠見寺入口で売っていたパンフレットによると、
信長像の胎内には、舍利袋が納められており、
正徳四(1714)年十月二十七日と、寛保二(1742)年七月十三日に、
これを確認したとの墨書があった、とされているので、

現在、摠見寺の本堂に祀られている三つの像はすべて、
焼失前の本堂に安置されていたものと考えられます。

パンフレットには、信長像の横幅は書いてありませんでしたが、
安置されている場所の状況から見て、
横幅約90㎝奥行約60㎝位、だと思われます。

また、この信長像には、前にも紹介した泰巖宗安記のブログに、

>江戸時代末期、旧本堂が延焼した際、仮に某氏としておきましょうか、
>某氏のご先祖さんが、この木像入りの厨子を背負って下りた。
>この功で、当時の住職から、総見寺重宝である銀杯を賜ったと言う。


という記事が載っていたので、
背負って下りられる位の大きさの、移動できる厨子の中に安置されていたらしく、

1761~1765の間に作成された「方丈列牌図」によると、
信長像の入った厨子(御霊屋)は、八尺の柱間の東牌堂の中心に置かれ、
左右に大名用位牌が三つづつ並べられて、左手の柱に信忠像の掛軸が掛けられ、
位牌の状況から、東牌堂の東側は壁だと考えられるので、

焼失前の本堂に安置されていた、信長の厨子(御霊屋)は、
横幅1~1.2m、奥行0.7~1m、高さ1~1.5mの春日厨子であり、

1761~1765頃には、本堂に向って右端の柱間の一番奥にある、
脇壇の中央に安置されていたと、考えられます。


軌道修正(^^)

2010-05-06 22:40:00 | 雑記
え~突然ですが。

2008-09-28の考察、
一支寸法は174mm 0.5714尺
は、たぶん間違ってます!!

安土城跡発掘調査報告6 見寺 P84 の
>来迎壁を後退させ内陣を広くとるところは
>新しい傾向を示しているが、

という部分に、気を取られすぎでした。

「新しい傾向」と考えなくても、
”来迎壁を後退させているように見える”
状態は作れるじゃないですか!!

ということで、一年半かけて計算してきた支割りは、
もう一度最初から出直しです。