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ウズベキスタンが親日国の理由2

2016-04-15 04:35:13 | 親日国
元内閣官房参与・中川恭子氏「国際テロに遭った日本人被害者を救出するのは、日本政府の使命」(大紀元)より抜粋

ウズベキスタンの77%を占めるウズベク人は「日本人そっくり」の容貌をし、極めて親日的であると述べた。生活様式も畳こそなく絨毯であるが、夜は「敷き布団」「掛け布団」で就寝し、コタツで一家団欒を楽しんでいるという。現地人は「容貌だけでなくわれわれは日本人と心が似ている」と言い、日本人に対して、極めて好意的な社会だという。

 ウズベキスタンでは、1945年から46年の間、シベリア抑留日本人25000人が連行され、現地のインフラ工事に投入されたという。
その日本人たちの当時の仕事ぶりはとても丁寧で、その「成果」が現在でも現地に残っており、現地人たちは当時の様子を思い出し語っているという。ウズベキスタンの首都近郊・デカバードの市長によると、現地の水力発電所に使用される巨大貯水槽は当時の日本人が「手掘り」で構築したものだという。同市は、砂漠の中のひなびた町であったが、この水力発電により緑化し、以来55年間休まず電力が供給されていると今でも感謝しているという。

 また、首都の「ナボイ劇場」も日本人捕虜が使役されて建設したものだが、当時首都近郊の「日本人強制労働収容所」近くに居住していた現地人は、「少年の頃、よく収容所の壁の隙間から、日本人収容者に自家製のパンや果物を差し入れていた」という。

*前回の麻生副首相の答弁の中でも触れられていますが、このナボイ劇場の建設に当たった日本人は強烈な印象をウズベキスタン国民に与えた。
同じ捕虜となったドイツ人は監視の目がなければサボる、手を抜くのが当たり前であった。
しかし、日本人は黙々と働いた。これを見た同国の親は子どもに「日本人のようになれ!」と教育した。
その後に完成したナボイ劇場は後に同国を大地震が襲った時「ナボイ劇場に逃げろ」と言われ、事実地震後にこの劇場は無傷で残った。


現地は寒暖の差が激しいために、果物の糖度は非常に高く生育する。ウズベクの家族は、祖父母が孫と暮らすという昔ながらの「三世代同居、日本人家族の原型」を現在まで保持している。壁に囲まれた大家族の各家には、「葡萄」「杏」「桜」などの木が植えられており、当時の日本人捕虜の食糧事情を心配した現地人が食糧を差し入れると、数日してこれら日本人捕虜たちは、何と手作りの「玩具」を同じ場所に置いて謝意を表明したという。これらの行為は、現地人の道徳的規範として賞賛されていたという。

 中山氏は「結局、国と国とのつながりは、人と人とのつながり」と述べ、現地では、日本人捕虜の埋葬された墓地の位置を現在でも現地人が記憶しており案内してくれているという。
シベリア抑留者が「二度と思い出したくない」と言っているのに対し、ウズベク引揚者らは国内で良く連絡を取り合い、また現地に行って「ウズベク人との交流」を望んでいるという。日本大使館の調査によると、デカバード近郊の日本人共同墓地跡には、「土饅頭」が点々と有り、埋葬された人たちはみな20代の「若い日本人」であることが判明したという。中山氏は現地に桜を植えることを決意、2002年3月に桜の苗木1300本を「各日本人墓地」「タシケント中央公園」「首相官邸」などに植樹した。
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