昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

親日国トルコ10 日本人をトルコが救出5

2016-05-12 04:35:52 | 親日国
事件当時、イランに駐在していた野村豊大使は、当時を振り返って、こう語っている。
フセイン大統領の言うタイム・リミットの前日の18日夕方、ビルセル大使(駐イラン・トルコ大使)から、「明日、トルコ航空機が2機来る。空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話が来ました。

その頃はだいぶ大分空襲が激しくなっていたので、在留邦人は郊外の温泉地のホテルや、テヘラン市内の高級ホテルの地下室等に避難していました。大使館員は翌19日の明け方までかけて手分けして邦人の居所を探し、希望を募りました。

そして19日の晩に2機、一つは19時15分、もう一機は直前の20時頃飛び立ったのです。

野村大使はビルセル大使と家族ぐるみの付き合いをしており、それが、こういう際にもスムーズに連絡をとれた一因であろう。
ちなみに邦人が脱出した後も、野村大使と大使館員49名は現地に残った。

同じく、前日の夜、トルコ航空では日本人救出機の飛行準備を進めていた。機長のスヨルジョ氏は語る。
このフライトの飛行命令が出たのは、前日の夜でした。翌朝に飛行ルートを決定し、準備をしてアンカラに飛び、アンカラで最新情報の取得や給油などを済ませ、現地へ向かうということでした。

救援機に乗り込んだ客室乗務員でもっとも若かったキョプルルさんは、「イラク爆撃の話を聞いて恐怖心はありませんでしたか?」と聞かれて、こう答えている。

私にとっては予定外の仕事で緊張しましたが、怖くはありませんでしたし、非常に有意義な業務であるため、興奮したことを覚えています。
当社では職務上の命令でも、危険な業務であると自分が判断した場合は拒否することもできますが、私たちは非常に規律ある組織だったので、各人が業務の内容を理解し、また、人間として他者を助けるということが大切ですので、この任務を皆、喜んで引き受けました。
キョプルルさんはこの任務のことを夫には伝えたが、父母には心配させたくなかったので、話さなかったという。

この客室乗務員キョプルルさんの言葉を一時行くことになっていた日航に聞かせたい。
父母には心配させたくなかったので、話さなかったという事は危険を考えていたと言う事だ。
日航の組合は”安全の保証”を求め、結局取りやめた。誰もが万が一危険”の状況には関わりたくない。私だってそうかもしれない!
しかしやらねばならない時もある。
日本人が特別これらの危険を避ける民族なのではない。福島原発事故では危険を顧みず立ち向かった東電職員もいたではないか。
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