昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

親日国トルコ4 山田寅次郎という快男児2

2016-05-06 02:20:13 | 親日国
以下の内容はYOMIURI ONLINE新おとな総研から、転用しています。

情緒あふれる洋風建築が残り、多くの若者でにぎわう中心部のイスティクラル通り。あちこちから陽気な音楽が聞こえてくる。赤い車体の路面電車が、ゆっくりと通り過ぎる。
トルコ滞在中の寅次郎が支配人を務めた日本製の調度品などを販売する商店があったのは、この通りだった。今は跡形もない。

 通りで雑貨店を営む男性(43)は、寅次郎を知っていた。「自分がその時代にいたら、寅次郎と話してみたかった」とほほ笑んだ。エルトゥールル号遭難に関する国営テレビのドキュメンタリー番組で寅次郎を知り、感銘を受けたという。

 1890年9月。明治天皇を表敬後、帰国の途に就いたオスマン朝の特使や随行軍人らを乗せたエルトゥールル号が暴風雨に見舞われて沈没した。寅次郎は、犠牲者を悼み、1年以上も日本全国を駆け回り、現在の約一億円に相当するとされる義援金を集めて92年、トルコに渡った。

 官民の熱烈な歓待を受け、その後20年間、トルコにとどまって両国貿易の道を切り開いた。日本とトルコの要人らの橋渡しをし、後にトルコ共和国初代大統領となった士官学校時代のケマル・アタチュルクらに日本語を教えたとも言われる。

 「寅次郎はトルコと日本の関係史で最も重要な人物。彼が二つの国を結びつけた」。こう断言するのは、1995年にその番組制作に携わったハ リッジ大学(イスタンブール)のエロール・ミュタージムラル教授(58)だ。「寅次郎は我々に助け合うことの大切さを教えてくれた」と語り、講義では欠かさず、寅次郎の話を取り上げるという。彼の思いは今のトルコにも受け継がれていた。

ボスポラス海峡に架かる橋を越え、ヨーロッパ側からアジア側に渡ると、2005年に高速道路の立体交差周辺に開園した私立庭園の一角には「山田寅次郎広場」があった。
 


 日本のNPOがトルコとの友好の証しにと、エルトゥールル号の犠牲者を悼む桜500本余りを同年に贈った際、庭園を造った親日家のアリ・ゴ キイットさん(86)が名付けたという。「人々を幸せにすることが自分にとっての幸せ。その私の哲学をまさに実践していたのが寅次郎だった」。ゴキイット さんは語る。

 トルコは、今や世界有数の親日国とまでいわれるが、その礎を築いたのが寅次郎だと知っている人は少ない。それでも、桜がほぼ満開となった8日には、庭園で年1回の事故犠牲者慰霊祭が開かれ、広場に集ったトルコや日本の関係者約300人が永遠の友情を誓い合った。寅次郎の志はこれからも、人々の胸の中で生き続けていくのだろう、と感じた。
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