独白

全くの独白

 人間と戦い

2017-06-29 14:52:38 | 日記
西部劇が好きでよく見たものである。
イーストウッドなどが纏っていたポンチョの値を調べてみると、数万円する。
無理に買っても使う機会はあまり無さそうである。
あれを纏ってただ歩いてみても、只のペルー人である。
ペルー人でも悪くは無いが、イーストウッドに成るには馬とテンガロンハット、それに何よりガンベルトに挿した拳銃が足りない。
勢い良くポンチョを捲って肩に掛けると同時に、腰の銃を引き抜くのでなければ成らない。
引き摺る程丈の長いレインコートに、テンガロンハットのジョン・ウェインも様になっていた。
併し使い勝手は良く無さそうである。鞍に跨れば足は濡れ放題であろう。カウボーイも楽ではない。
カウボーイが只、牛を追ってする旅を描くだけなら、あれ程多くの西部劇は作られなかったろう。
カウボーイや賞金稼ぎや保安官の腰の銃こそが西部劇を創ったのである。
西部劇でも他の映画でも、芝居でも文学でもそこに争いや戦いの登場しないものは無いと言って良かろう。
愛の与からない作品が無いのと同様である。
恋人同士の愛は登場せずとも、故郷への、国家への、人類への愛、芸術への学問への家族間の愛等のうちどれかは必ず描かれる。
撃ち合いや決闘や戦争は登場せずとも、自身との、時間との自然との、嵐との親との戦い等の内のいずれかは必ず描かれていると言って良かろう。
映画も芝居も仮想現実であり、現実との関係は極めて密接である。言葉の上では半ば現実ですらある。
映画館から出て来る者は皆、登場人物に成り切っている。
文学でも、私小説であろうとなかろうと、読者と言うものは作品の中に自身を投影させてしまっている。
これらの作品は一見荒唐無稽に見えても、現実界の真実をそれぞれの方法で、捉えて見せてくれているからこそ吾人を納得させ、その気にさせるのであろう。
すると詰まり現実界では、愛がそうである様に、争いや諍いや戦いと吾人とは、切っても切れない間柄にあるという事に成ろう。
確かに私の様な平和愛好者でも、銃や刀剣にはえも言わず惹かれるのである。
平和への愛が滅びないように、戦争も無くならない訳である。
私の今日等も、朝の睡魔との闘いから始まった。