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タロット占い師アポロの goo ブログ。

自殺 - Ten of Swords

2007-02-28 06:31:52 | 漫録
剣の10 (Ten of Swords)

占いの依頼の多くは恋愛に関する悩みです。恋愛にも、片想いや遠距離恋愛、浮気、不倫、ストーカー等々いろいろありますが、いずれにしても、人を愛するということは良いことです。恋愛で悩めるうちはまだ幸せだと思います。

しかし、世の中には恋愛以外のことでも悩みを抱えている人はたくさんいます。連日ニュースなどでも報道され、社会的な問題ともなっている自殺いじめなどで苦しんでいる人たちも多いはずなのですが、そのような相談の依頼が私のところにくることはほとんどありません

自殺やいじめなどの悩みは、占い師に相談するような内容ではないからでしょうか? いえ、そうではなくて、相手は占い師に限らず、「誰にも」相談できずにいるというのが本当のところではないでしょうか。

悩みの相談に乗ってくれる人は世の中にたくさんいます。親兄弟や友人。学校の先生やカウンセラー。お寺のお坊さんや、教会の神父さん。ボランティアの電話相談や、福祉施設などの相談員。精神科医や、臨床心理士や、弁護士。そして、占い師も……。

でも、その誰にも相談することができない。助けを求めれば手を差し伸べてくれる人は必ずいるはずなのに、一人で悩み続けて、最後は死を選ぶことしかできなくなってしまう。

私も同じように悩んだことがあります。ただ、私は自分でも「助けが必要だ」ということには気づいていました。そして、誰かに相談しようと思ったのですが、そのときの私にとって、他の誰よりも相談しやすいと思えた相手は「占い師でした。実際に、私は「自殺」の悩みを占い師に相談した経験があります。誰かに相談すれば必ず救われるというわけではありませんが、一人で悩み続けるよりはずっとましです。

悩みを抱えてしまった人には、まずは「誰かに相談しよう」という気持ちを持ってもらいたい。そして、その気持ちを受け入れる窓口として、私たちのような占い師がいるということにも気づいてもらいたい。私たち占い師も、そのための環境を作っていく必要があるのです。

メーリングリストやブログなどで、このような話題を積極的に投稿していくことで、悩みを抱えてた人たちに気づいてもらえるきっかけも増えると思います。この投稿もまた、そのための第一歩です。

私が今、「占い師」という仕事をしている真の目的は、そこにあるのですから。


タロットカードを検索せよ

2007-02-23 21:51:16 | 漫録
棒の8

私が「アポロのタロット占い」というサイトを立ち上げてから、もうすぐ10年経とうとしています。

そのサイト創設の初期のころからあるコンテンツのひとつとして、「タロット占い講座」というのがあります。タロット占いというものを、できるだけ多くの人に理解してもらいたいという思いで、いろいろと書いてきました。ただ、タロット占いを学ぼうとする人にとって一番興味があるのは、タロットカード 1 1 枚の詳しい解説だったりするのかもしれませんが、この講座では、あえてそのような解説のページは書いてきませんでした。

私自身、長い間占い師という仕事をしてはいるものの、占い研究家ではないので、実を言うと、専門的な知識はほとんどありません。もちろん、一般に市販されているタロットの解説書はいくつか読んで、それなりの知識はありますが、その程度のものであれば、わざわざ私が自分のサイトで中途半端な解説をする意味はほとんどないでしょう。市販の解説書を読でいただくなり、専門的な解説をしている他のサイトなどを検索していただいた方がよいかと思います。

何より、私が気にかかっていたのは、タロットを学び始めた初心者ほどカードの意味を知りたがるということです。それは、現代の教育というものが、そういう知識を詰め込むことばかりを重視してきたせいで、学びというものはそういうものだと多くの人が思い込んでいるからだと思います。より多くの知識や情報を身につければ学んだことになるというのは、どこかおかしいと思います。

余談ですが、私は地元ではトップクラスの進学校に入学しておきながら、ほとんど勉強をせず、大学にも行きませんでした。それは、その高校での授業が、大学に行くための知識を詰め込むだけの、あまりにも退屈なものだったためで、そういう教育方針に反抗して意地になって勉強を拒んでいたようなものです。当然成績も学年で最低レベルだったと思います。特に英語の成績などは 10 段階評価で 1 2 くらいで、英語の教師と授業中に喧嘩をするくらいだったのですが、それでもその 4 年後にアメリカに留学し 2 年間ほど生活してきました。受験のための英語なんて勉強してなくても英語圏で生活できるんだということを身をもって証明してやりました。

タロットの話に戻りますが、私が占い講座でカードの解説を書いてこなかったのは、初心者がそういう知識にとらわれて、カードそのものから学ぶことをおろそかにして欲しくなかったということもあります。初心者ほど、まずはカードそのものに親しみ、そこから感じられるものを素直に受け止め、自分自身の感性を大切にして欲しいと思うのです。それに、78 枚もあるカードのすべての意味を覚えてからでないと占うことができないというようなものではなく、カードを手にした者なら、今すぐにでも誰にでも気軽に占うことができるもの。それが、タロット占いというものなのです。解説書に書いてあるカードの意味など、実は無意味だといってもいいくらいです。

しかし、そんなことを言いながらも、そろそろカード 1 1 枚についての記事を書き始めてもいいかなという気もしてきました。というのも、先ほど Google などでタロットカードの情報を検索したりしていたのですが、意外に、というか当然だとは思いますが、個別のカードについて私自身が書いたページがヒットすることはほとんどありませんでした。そこでふと思ったのです。インターネットで何でも検索できるようになった今の時代、自分なりの考えを書いてブログなどで公開しておくことは、いろんな意味で有意義なのではないかと……。

完全なタロットカードの知識を提供するサイトとして存在しなくても、たとえ断片的にでも情報を公開しておけば、それを必要とする人が勝手に検索して有効活用してくれるでしょう。他の人と情報の共有ができるというだけでも十分有意義ですが、それを自分自身で検索して利用するという点でも、インターネット上に情報があったほうが便利だったりします。最近ではデスクトップ検索なども便利になってきて、自分のパソコン内の情報も有効活用できるようになって来ましたが、それでもインターネット検索の手軽さと情報量にはかないません。インターネットを中心に活動してきた私が今さら言うほどのことでもありませんが、これぞまさしく Web 2.0 的な、これからの時代の情報の活用法だと思います。

そんなわけで、これからはこのブログでもタロットカード 1 1 枚をネタにした記事を、もっと積極的に書いていこうかなぁなどと考えていたりするわけです。


生命の樹

2007-02-18 09:14:29 | 漫録
生命の樹

昨日の朝、起きる前に印象的な夢を見ました。人間の体に「生命の樹」が重なっていくというような夢でした。

夢の中ではその出来事に重要な意味があるということがわかっていたような気もするのですが、起きてからしばらくすると、覚えているのは人の姿と生命の樹のイメージだけとなってしまいました。仕方がないので、今回は生命の樹についての解説のみ、簡単に書いておきたいと思います。

生命の樹Tree of Life)というのは、旧約聖書に登場する言葉だそうですが、オカルトの世界では神秘思想(カバラ)の知識体系を図形化したものとして知られています。私が夢の中で見たのも図形化された生命の樹です。

VI 恋人

旧約聖書ではエデンの園の中央に植えられた樹とされているようですが、タロットカードにもエデンの園を描いたと思われる「VI 恋人」のカードなどに生命の樹らしきものが描かれていたりします。「VI 恋人」のカードの中で、イブの後ろのヘビが巻き付いている樹が「智恵の樹」であるとすれば、反対側のアダムの後ろに見える樹が「生命の樹」ということになりそうですね。他にもいくつかのカードの中に生命の樹らしきものが見られますが、「ペンタクルスの 10」などには、完全に図形化された生命の樹そのものが描かれていることもあります。近代のオカルティストたちは、タロットと生命の樹を関連付けて解釈することを好んだようですね。

ペンタクルスの10

私はタロットの解釈に生命の樹の知識を取り入れることはほとんどしません。神秘思想について詳しく学んだわけでもないし、熱心に研究しているわけでもないので、表面的な知識だけで安易に取り入れるわけにはいかないでしょう。生命の樹を学ぶことで、タロットの解釈に深みが増すこともあるかもしれませんが、タロット占い師にとって必須の知識というわけではないと思います。それに、うっかり「智恵の樹の実」を食べてしまったら、神の怒りをかって楽園を追放されかねません。知識への欲求はほどほどにしておきましょう。

詳しい解説はフリー百科事典の「ウィキペディア(Wikipedia」にある「生命の樹」の項目などを見ていただければ十分かと思いますが、最近では「ウィキペディア資金難で閉鎖」などといううわさ(あくまで噂であって、おそらくその心配はないと思いますが)もあるようですから、そのような事態に備えて、私のブログでもある程度の解説はしておきたいと思います。

生命の樹はセフィロトと呼ばれる 10 個の球と、それらをつなぐ 22 パス(径)によって描かれる図形です。セフィロトの単数形はセフィラと呼びます。セフィラにはそれぞれ以下のような番号と名前(意味)がついています。

  • 第 1 セフィラ - 「ケテル(王冠)」
  • 第 2 セフィラ - 「コクマー(英知)」
  • 第 3 セフィラ - 「ビナー(理解)」
  • 第 4 セフィラ - 「ケセド(愛)」
  • 第 5 セフィラ - 「ゲブラー(峻厳)」
  • 第 6 セフィラ - 「ティファレト(美)」
  • 第 7 セフィラ - 「ネツァク(勝利)」
  • 第 8 セフィラ - 「ホド(栄光)」
  • 第 9 セフィラ - 「イェソド(基礎)」
  • 第 10 セフィラ - 「マルクト(王国)」

タロットとの関係では、このセフィラの番号と小アルカナの数札の番号がそのまま対応します。小アルカナのカードの解釈に、これらのセフィラの意味を当てはめてみるとわかりやすくなるかもしれません。小アルカナに 4 つのスート(棒、カップ、剣、ペンタクルス)があるように、生命の樹にも 4 つのパターン(四界)が存在すると考えられています。なお、コートカードのキングは第 2 セフィラ、クイーンは第 3 セフィラ、ナイトは第 6 セフィラ、ペイジは第 10 セフィラに当てはめるそうです。

22 のパスは、ちょうど大アルカナの枚数と一致するので、それぞれのパスに 1 枚ずつ大アルカナのカードが当てはめられています。対応は先ほどの図で確認してください。ちょっとわかりにくいですが、セフィラをつなぐ線に 0 XXI までのローマ数字を振ってあります。その数字と大アルカナの番号が対応しています。

とりあえず、タロットをする者としては、この程度の知識は覚えておいて損はないでしょう。

しかし、その生命の樹が人間の体と重なって見えたというのは、いったいどういう意味だったんでしょうね?

実は、生命の樹と人間の体の対応ということについては、もともと存在する概念なのです。人間の体には中心線にそって縦に 7 つのチャクラがあると考えられているのですが、生命の樹も、上から順番に階層に分けていくと、

  • 第 1 層 - 「ケテル」
  • 第 2 層 - 「コクマー、ビナー」
  • 第 3 層 - 「ケセド、ゲブラー」
  • 第 4 層 - 「ティファレト」
  • 第 5 層 - 「ネツァク、ホド」
  • 第 6 層 - 「イェソド」
  • 第 7 層 - 「マルクト」

となり、それぞれが人間の 7 つのチャクラに対応することになるそうです。(7つの階層については「7枚目ごとにカードをめくる理由」という記事でも解説しています。)

というわけで、私が夢に見たものも、それほど特別なひらめきというわけではなく、もともとは私の記憶の片隅にあった知識のイメージだったのでしょう。

なぜそんな夢を見たのかはわかりませんが、強く印象に残っていたということは、何か重要なメッセージが込められているのかもしれません。

どなたか、この夢の謎解きに挑戦してみませんか?

(私はお手上げですが……)


ラップ音

2007-02-09 21:08:12 | 漫録

分杭峠から帰ってきた夜に聞いたラップ音は今でも時々聞こえます。ちょうど、アダムス・ファミリーに出てきた手のお化けが指を動かしてカタカタと床を這いまわるような音です。

あの日は心身ともに疲れきっていたので、そういうときによく体験する心霊現象みたいなものなのかなと思っていたのですが、それ以後は、精神状態や体調に関係なく、しかも、昼夜を問わず不定期に聞こえてきます。こういう現象に関して何も知識や経験がなければ、「正体不明のもの」に対する不安や恐怖心から、「幽霊」だとか「妖怪」みたいなものを勝手に想像してしまうのが人の性(さが)というものですね。

しかし、よくよく考えてみれば、天井でカタカタと音を立てているのはネズミか何かが走り回ったり、柱や壁をかじったり引っかいたりしているだけではないかというような気がしてきました。このあたりにはイタチだとかハクビシンだとかいうような動物も多いようなので、そういった類のものが天井をねぐらとしているのかもしれません。夜中に音が聞こえることが多いのは、彼らが夜行性だからと考えればつじつまも合うでしょう。

幽霊だと思うと怖かったものが、ネズミだと思うと鬱陶しいだけの騒音になってしまいます。

ところが、私はそのネズミの姿を見たわけではなく、「音が聞こえる」という現象そのものは、初めて聞いたときも今もまったく変わっていないのです。「ネズミだろう」というのも、しょせんは「幽霊かも」と思うのと同じような想像に過ぎないのです。

「ネズミだろう」は現実主義的な考え方。

「幽霊かも」は神秘主義的な考え方。

受け止め方はまったく異なるものの、そこにある現象(真実)はひとつしかありません。その正体は、実際に音がしているときに天井に上がって自分の目で確かめるまでは、「わからない」が正解です。

昔から気になっていたことではあるのですが、特に最近はインターネットの普及で様々な情報が簡単に手に入る時代となりました。人々は実際に学んだり経験したりしたことがないことでも、何でも「知っている」ような気がしています。情報を検索すればすぐに答えは見つかるので、「わからない」ことなどないと思い込みがちなのが今の時代。

ほとんどの人は実際に正体を見ていなくても、「ネズミだ」とか「幽霊だ」と決め付けることに何の疑問も持たないでしょう。「わからない」という感覚に慣れていないからです。

最近のスピリチュアルブームも、本当はなんだか「わからない」物に、霊だとかオーラだとかいうような「何か」を当てはめることで、意味のある「情報」として受け止めたいという人々の欲求の現れではないでしょうか。実際にはその正体を見ていないのに、「これは霊です」という情報を与えられれば、なんだかわかったような気がして安心してしまいます。「わからない」ことは不安でしょうがないのです。

そういった人の弱みに付け込んだのが霊感商法であり、うまく利用したのがスピリチュアル・カウンセリングです。スピリチュアル・カウンセリングというものは、前世などのよく「わからない」ものを、「ネズミだ」と言わずに「幽霊だ」と決め付けて安心させている(夢を見させている)だけなんですよね。まあ、ネズミでも宇宙人でも何でもいいんですけど。

ちなみに私は干支でいうとネズミ年生まれです。前世がネズミと言われたわけではありませんが、そういうイメージを与えることで一種のカウンセリングを行うのが干支占いです。亥年生まれは猪突猛進だとか言いますよね。実際には、この年に生まれた人がみんなそういう性格をしているわけではないんですが、反省材料としては意味があったりします。12 星座占いなんてのも同じ。女の子なら乙女座にあこがれたりするでしょう。サソリ座とかだといじめられたりしてね。干支や星座は生まれつき「決まって」いますが、前世なら普通はなんだか「わからない」ので、霊能者にとっては都合のいい情報源になるんですよね。

しかし、今の人はなかなか気づこうとはしません。「ネズミだ」「幽霊だ」と決め付けて安心しているだけで、その正体を実際に見て確かめたわけではないということを忘れがちだと思います。

物事を現実主義的に受け止めるもよし。神秘主義的に受け止めるもよし。どちらが正しいとか間違っているとかで争うのは無意味です。どちらも本当のことは何も「わかっていない」ということを認め、その上で、それぞれのアプローチの仕方で真実に近づく努力をしてゆけばいいのでしょう。

わかっていないのにわかったふりをして人々を導こう(惑わそう)としている霊能者の真似だけはして欲しくないですね。


本質を見抜く - 霊感

2007-02-05 21:43:06 | 漫録

最近、人の顔を見ると、「この人はこんな性格なんだな」とか判るような気がするときがあります。一見おとなしそうな人でも、「実は気が短くて怒りっぽいんだろうなぁ」とか思っていると、やっぱりその通りだったりします。見た目は怖いけど、「本当はやさしい人なんだよね」とか……。

長く生きていると、人は 2 つのことを学びます。1 つは、外見で人を判断すること。もう 1 つは、外見だけでは判らないことを見抜くことです。大人というのは、たいていこの 2 つの目で人を見ているわけです。

子供の場合、外見だけで判断してしまうことも多いでしょうが、その外見が何を意味するのかということを経験によって学んでいない場合には、大人でさえ気づかないような物事の本質をあっさりと見抜くこともあります。経験というのは、案外本質を見抜く目を曇らせるだけのものかもしれませんね。

経験によって曇ってしまった目を閉じて、こころの目を開くことによって、物事の本質が見えてくることもあるのですが、そこに見えるものを信じすぎてしまうのも危険です。そういった感覚に慣れてくると、人を見るとすぐに「この人はこんな人」と判断してしまう癖がついてしまい、外見からは判らないことまでわかってしまう自分は特別な能力を持っているんだと勘違いしてしまうこともあります。

そういった能力を生かして占いだとか霊感商法をしようと思うのは勝手ですが、たいていは自分の感覚を過信して、勘違いしている人がほとんどです。

はじめは「ただそんな気がする」というだけのものだったのが、商売になってしまうと、相談者を納得させるような理屈が必要になってきたりします。すると、本当は見えていないのに「背後霊がいる」とか「オーラが見える」とか言ってみたりする。しかし、嘘を言うわけにはいかないので、自分にはそういうものが見えているんだと思い込もうとする。人間の脳は想像したイメージと現実の出来事を明確に区別することができないので、「見える」と思っただけのことでも、その人にとっては本当に見えていることになってしまうのです。

霊感(洞察力)に優れていると自分で思い込んでいる人でも、本当はわからないこともたくさんあると思います。でも、相談者に質問されれば「判らない」とは答えられなくて、どうにか答えようと思って必死になって(あるいは無意識のうちに)考えをめぐらせることになるでしょう。そんなときに頼りになるのは、もはや霊感などではなくて、過去に蓄積された自分の経験だったり、知識情報だったりするわけです。それでも、相談者に答えを伝えるときは、「私の霊感によれば」などと見栄を張ってしまいます。占い師や霊能者たちは自分でも、その答えが霊感によるものだと信じていることでしょう。実際には本質を見抜いているわけではなく、物事の表面しか見ていないというのに。

最も重要なことは、こころの目で「見えた」と思っているものが、必ずしも物事の本質だとは限らないということです。中には自分が想像しただけのもの、過去に経験したイメージが作り出した幻想に過ぎないものもたくさんあります。自分のことを「霊能者」だと思い込んでいる人のほとんどは、そのような偽のイメージと物事の本質とを区別できずにいる「特別な人たち」なのです。

あえて名前を出しますが、スピリチュアルカウンセラーという肩書きで有名な「江原啓之」さんについても、以下の記事のような疑惑があるそうです。

 Aさんは当時番組内で霊能師の江原啓之氏(42)が担当していた「スピリチュアル開運術!」のコーナーに夫婦で出演。夫の失業、子どもの病気やケガ、Aさん自身の精神的疲労など、度重なる不幸から脱出する処方箋を求めて番組に出演を決めたという。
「『こたえて――』の別のコーナーに手紙を出したら“江原さんのコーナーに出演しませんか?”というオファーが日本テレワークからありました。江原さんの著作も持っていて大ファンだったので出演しました」
 ところが、Aさんはいざ番組に出演して愕然とする。江原氏が即興で霊視してくれるとばかり思っていたら、「事前に詳しいプロフィルの提出も求められ、自宅には日本テレワークの方から30分以上も電話リサーチがありました」。
 その上、「控室にスタッフから“ご主人か奥さまかどちらかで結構なんですが、昔、頭を打ったことありませんか?”なんて電話も。夫が“5歳くらいの時に階段から転げた”というエピソードを披露したら、江原さんは本番で、さも今、霊視で見えたかのように“ご主人、頭を打ったことありませんか?”って真顔で言うんです。呆れました」。
 Aさん夫妻は生放送中では時間が足りずおはらいができなかったため、後日、東京・原宿にある江原氏の診療所を訪れることになる。この模様は2カ月半後にオンエアされた。
「江原さんは主人に“亡くなった兄弟がいるはず。その方はまだ生きたいという願望が強くてあなたに憑依(ひょうい)している。母親も心配で憑(つ)いている” と言うのです。でも、兄弟を亡くした話は事前に話していたこと。一気にシラケてしまいました。今は江原さんに夢中になっていた時間を返してほしいです」

「カリスマ霊能師 江原啓之にも『あるある』疑惑」からの引用

ええ、私は江原啓之さんがそんな人なんだろうなとは最初から見抜いていましたよ……なんてことを偉そうに言ってしまったら私も同類ですが。この記事が真実を伝えているかどうかも判りませんしね。

人の感覚など、本当はかなりいい加減なものなのです。たまたま自分が思っていたことが「当たった」からといって、次も同じように「当たる」とは限りません。その程度のことで自分が特別な存在だなんて思い込んだりしないよう気をつけましょう。

こころの目だけでなく、経験で物事を判断することも、危険な道に迷い込まぬようにするためには必要なこと。

大人になるとは、そういうことなのです。


どろろ

2007-02-03 09:52:07 | 漫録

手塚治虫さん原作の映画「どろろ」観てきました。

原作の漫画やアニメは見たことがないので、特別に思い入れがあったわけではないのですが、命の大切さを描いた物語というところにひかれて、ぜひ観に行きたいと思っていたのです。

最近はあまりテレビを見ていないので、世の中の様子には疎くなっているのですが、それでも、インターネットで配信されるニュース記事のタイトルなどを見ていると、毎日のように残虐な事件が起きているようですね。 バラバラ殺人や幼児虐待、いじめや自殺……。このような事件は、何も今に始まったことではありませんが、最近は特に深刻化しているような気もします。

命の大切さというものに対する認識がどこかゆがんでしまっていて、平気で人を傷つけたり、生き物を殺したりしてしまいます。そういったことへの罪悪感すら抱けなくなっています。

たいていの人は、「自分はそんなことは絶対にしないから大丈夫」と思っているかもしれません。しかし、そう思った時点で、あなたは単に「傍観者」になって現実から逃げているだけなのです。本当に危険なのはあなた自身だという現実には、なかなか向き合うことはできません。

毎日どこかで悲惨な事件が起きていることを知っていても、まるでテレビドラマやハリウッド映画でも見ているかのような錯覚を起こし、「しょせんは他人ごと」としか思えない。そういった、私たち一人ひとりの認識の甘さも事態を深刻化させている要因のひとつではないでしょうか。

そして、ほんの些細なことがきっかけで、その手で命を奪っていたりするのです。気がついたときにはもう手遅れで、後悔することしかできません。

そういったことを憂いていたときに、ちょうど「どろろ」という映画が公開されることを知り、このタイミングで作られたこの映画に興味を持ったというわけです。

公開は先月 27 日でしたが、週末ということもあり、初日から観に行っても人が多くて大変だろうなぁという気もして、今日まで待ちました。今日はたいていの映画館では「映画の日」ということで、通常は 1700 円のところを 1000 円で観ることができます。しかも平日なので人は少ないはず。一番最初の上映時間に間に合うよう、朝早くに家を出ました。

映画館は、以前「ダ・ヴィンチ・コード」を観に行った「岡谷スカラ座」です。それ以来だとすると、もう半年以上も映画を観に行ってなかったことになります。予想通り、中はがらがらでほとんど人はいませんでした。ポップコーンを買ってきて、映画館のほぼ中央の座席を確保。ポップコーンをポリポリと食べていると、昔ロスに住んでいたころ、毎週のように友達と映画館に通って、バターたっぷりのポップコーンを食べながら映画を観ていたことを思い出します。あのころは、映画館に行くのがごくありふれた日常の出来事だったのに ……。

さて、映画の感想ですが、「どろろ」は 2 時間以上もある大作であるにもかかわらず、最初から最後まで飽きることなく楽しませてもらいました。ニュージーランドでロケをしたということで、背景の美しさにも期待していたのですが、その辺はほんの数カット、いいなぁと思う場面があった程度でした。まあ、背景を見せる映画ではないので、このくらいのほうがバランスが取れていて良かったのではとも思います。時代劇というと、水戸黄門だとか子連れ狼だとかをイメージしてしまうものですが、ロケ地のおかげで、そういったイメージとはまったく異質な空間を作り出すことには成功していたと思います。

思っていたほどおどろおどろしい雰囲気はなく、残虐な場面も少なく(ショッキングな場面はいくつかありますが)、子供が見ても大丈夫なレベルだったと思います。

他の人のレビューなどを見てみると、CG などで表現する妖怪の技術レベルが低すぎてがっかりしたというような意見をたびたび見かけるのですが、こういった表現は、これくらいのほうがちょうどよかったのではとも思います。リアルすぎると残虐になりすぎるとか、そういうことではなくて、こういうマンガ的なところがあるから映画は楽しめると思うのです。そもそも手塚治虫さんの原作自体が漫画であるわけで、その漫画としての面白さを、実写にしたからといって無理につぶしてしまう必要はないでしょう。実写だからこそ、マンガ的な面白さをどんどん取り入れていって欲しいと思うくらいです。もちろん、リアルすぎて現実との区別がつかなくなるというのも、大変危険なことだと思います。ファンタジーはファンタジーらしく描くべきなのです。

主人公の百鬼丸に妻夫木聡さん。どろろに柴咲コウさん。最初から最後まで、ほとんどこの 2 人だけで話が進んでゆきます。まるで二人舞台でも見ているような感じです。そういうシンプルな構成なので、非常にわかりやすい映画でした。(関係ないですが、「劇団ひとり」も出てたりして。)

男の私が見れば、普通は女優の柴咲コウさんに目が行ってしまうものですが、今回は、妻夫木聡さんがあまりにもかっこよくて、男の私でもほれぼれしながら見入ってしまいました。妻夫木聡さんが出ている作品は今回初めて見たのですが、少なくともこの映画では非の打ち所のない最高の演技だったと思います。やっぱり、ただのイケメンアイドルとは違いますね。

柴咲コウさんのほうは、「どろろ」を演じるという点では見事だったとは思います。ただ、残念なことに、女性としての魅力ゼロの役柄。それは仕方のないことなんですが、なんで柴咲コウさんなのかなぁと、最後まで腑に落ちないまま終わってしまいました。カワイイけれどブサイク(カワブサ?)でした。

悪役(百鬼丸の父)の醍醐影光役に中井貴一さん。貫禄のある演技で、この映画をきりっと引き締めてくれました。百鬼丸のような若者が父を乗り越え大きく成長していくというテーマ(たくさんあるテーマのひとつですが)を描くには最高の配役だったと思います。前半のシーンで、自分の子供を犠牲にしてでも野望を成し遂げようとする醍醐景光が描かれますが、それはまさに、現代のもっとも忌むべき悪を象徴したものといえるでしょう。最後には、逆に自らを犠牲にして子を救うことになるわけですが、今の大人たちも、これからはそういった使命に目覚めるべきなのです。

百鬼丸は自分の体の 48 ヶ所を魔物に奪われているので、死体から作った人工の体を持っています。最初に出来上がったのが人工心臓。手足のみならず、目も耳も、声もすべて人工です。まるでフランケンシュタインのような体なのですが、魔物を倒すことで奪われた体のパーツをひとつずつ取り戻すことができます。

人工の部分は魔法の力がかけられているのか、刺されてもすぐに傷がふさがってしまいます。心臓すら人工なので、ほとんど不死身です。一度、どろろに心臓を刺されたこともありましたが、もちろん平気でした。

喉を取り戻したときは初めて自分の声で喜びの叫びを上げ、耳を取り戻して初めて聞いたどろろの声に「うるさい」とわめき、取り戻した腕を魔物に噛み付かれて血を流し、苦痛にうめく。目を取り戻して初めてこの世界の美しさ(ニュージーランドの背景が映えます)を知る。体を取り戻すごとに、「なんだか世界が小さくなったようだ」と百鬼丸は言う。

でも、それが生きているということなんだと、百鬼丸が感じていたように、観客もまた気づき始める。

心臓を突き刺しても死なない百鬼丸は、まさに、「命の大切さ」を見失ってしまった現代の我々の感覚を象徴した存在です。そこには、生きる喜びなど感じられるはずもありません。世界はただ虚しいばかり

今こそ、私たちも百鬼丸のように失ったものを取り戻し、「」というもの、「生きる」ということ、そして、「」というものに、真剣に向き合うべきなのです。

この映画の最後に百鬼丸が取り戻した体は「心臓」でした。私はこれを見て救われたような気がしました。体のパーツはまだ半分残っているので、これで最後というわけではないのですが、心臓を取り戻したことで、ようやく生きた血の通う人間らしさを取り戻したような気がしたのです。

百鬼丸はもう不死身ではなくなってしまいました。刺しても傷は消えないし、いつかは死ぬのです。でも、それが、人間らしく生きるということです。限りある命だからこそ、生きる喜びもある。この映画を見て、ひとりでも多くの人にそういったことを感じてもらえればと思います。

必死に生きて何が悪い!