apollogoo

タロット占い師アポロの goo ブログ。

シャドー

2007-03-07 10:28:33 | 漫録
XV 悪魔 (The Devil)

無意識の中に生じる影……心理学者のユングは「シャドー(シャドウ、shadow)」と呼びました。私たちが人間社会で自分を表現する仮面としての「ペルソナ」が大きくなれば、その影としての「シャドー」もまた比例して大きくなります。

現実社会(リアル)での仮面が「ペルソナ」であるなら、インターネット社会(バーチャル)での仮面が「シャドー」となることもあるでしょう。しかし、前回の記事「ペルソナ - 仮面」で書いたように、インターネット社会においてもペルソナは形成されます。そのペルソナが大きくなれば、今度は逆に現実社会にシャドーが形成されることになるかもしれません。つまり、どちらがペルソナで、どちらがシャドーであると決め付けられるわけではなく、それぞれの立場から見れば、どちらもペルソナであり、どちらもシャドーなのです

自分の中で、現実社会とインターネット社会が交わることのないパラレルな世界として認識されていれば、それぞれのシャドーを自分の人格として意識的に生きることができるでしょう。これが心理学で言うところの「光と影の統合」であり、精神的なバランスを取り戻すためには理想的な環境といえるかもしれません。

ところが、現実社会とインターネット社会の間に明確な境界線を作らず、どちらの世界にも共通のペルソナを持つような人の場合には、シャドーは生きるための場所を失い、無意識の闇の中に閉じ込められたまま、どんどん大きくなってゆきます。巨大化したシャドーが限界に達すると、ペルソナに悪影響を与え始め、病的な症状や奇怪な行動となって現れてくるのです。それが、「悪魔 (devil)」です。

もちろん、このような問題は今に始まったわけではなく、インターネットを利用していない場合でも同じように生じるものです。中世のヨーロッパなどでは、シャドーが生み出した悪魔に取り付かれた人々を「狂人」とか「魔女」などと呼んで迫害しました。

現代になってインターネットという新しい世界が生じたことで、たまたまシャドーが生きるのに都合が良い環境が出来上がっただけのことです。この世界で別の人格(ペルソナ)を演じることは、場合によっては二重人格や統合失調症などの精神障害をもたらす危険性もあるかもしれません。

これからの時代、人はいくつものペルソナを使い分けながら生きていくことになるのでしょうか? そして、それは本当に必要なことなのでしょうか?

今はただ、疑問符を振ることしかできません。


ペルソナ

2007-03-06 02:32:05 | 漫録
VI 恋人 (The Lovers)

インターネット上での発言は、その匿名性もあって、現実社会での発言よりも「自由」だと思っている人は多いでしょう。

現実社会では、言いたいことをズバズバと言ってしまうと何かと角がたち、人間関係を悪化させてしまう危険性もあります。社会生活を平穏無事に過ごすためには、遠慮だとか見栄だとか建て前だとかお世辞だとか、そういったカモフラージュで「本音」を隠しておいたほうが良いのです。

ところが、インターネットの世界では人間関係をそれほど気にせず、普段は抑圧されていた「本音」が遠慮もなしにどんどん出てきてしまったりします。たとえ失言があったとしても匿名性によって護られているので、現実社会での自分の立場が悪化する心配もありません。都合が悪くなれば他人を装って発言しなおせば良いだけのことです。いわゆる「成りすまし」の行為として嫌われていますが、他人のそういう行為は非難しながらも、ほとんどの人が自ら経験したことがあるのではないでしょうか。このような傾向が顕著に現れているのが、「2ちゃんねる」などの匿名掲示板です。

しかし、インターネットの世界は本当に「自由」かというと、そうでもありません。現実の世界(リアル)に対してインターネットの世界を仮想現実(バーチャル・リアリティー)と説明することもありますが、決してそれは「非現実(アンリアル)」ではありません。実は、この世界も現実社会と同様に、生身の人間が生活している人間社会のひとつの形態に過ぎません。いわば、パラレルワールドに存在するもうひとつの社会です。メールやブログなどに書いた言葉が、インターネットの回線の向こうにいる見知らぬ誰かに届いた瞬間に、あなたは強制的にこの社会の住人として生きる宿命を与えられることになります。

ブログなどの発言で信用を得たいと思うのであれば、たとえ匿名を名乗るとしても固定のハンドルネームを持ち、この世界での人格パーソナリティーを形成してゆく必要があります。そうなるともう、何の遠慮もなしに本音ばかりを発言し続けるわけにもいかなくなってきます。自分の発言には常に責任を持つ覚悟が必要になってくるのです。

結局、我々は現実社会においてもインターネット社会においても、本当の自分をさらけ出すことはできずに、常に仮面ペルソナ)をかぶり続けなければならないのです。


じどうとしょ

2007-03-05 06:08:26 | 漫録

先日ふと思い立って、久しぶりに図書館に行ってきました。私がいつも行くのは、その2階にある一般の図書室なのですが、1階には子供向けの「じどうとしょしつ」があります。今回の目的は、その児童図書です。

私は、毎日メールを書いたり、ブログの記事を書いたりして、たくさんの文章を書いているのですが、いったいその言葉はどこから出てくるのだろうかと、ふと不思議な疑問がわいてきました。いつも吐き出すばかりで、よくも無くならないものだなぁと。もちろん、毎日のように受信するメールの文章は目にしているし、他の人が書いたWebサイトやブログの記事もたくさん読んでいます。そういうところから日々吸収しながら、少しずつ自分の言葉も変化しつつあるのは感じています。しかし、うまく説明はできないのですが、何となく、言葉から魂が抜けていくような感じです。

それではダメだと思いました。そこで、いったい自分の言葉のルーツはどこにあるのだろうかと、昔のことを思い返してみると、「児童図書」に行き着いたのです。

小学生のころはたくさんの本を読みました。小学校の図書館にある本を片っ端から借りて、毎日本ばかり読んでいました。たいていは1日で1冊を読み終わるほどのペースで、今の自分でも信じられないくらいの速さで読んでいました。もちろん、子供向けの本ですから、1冊の文章量も少ないものが多かったとは思いますが、そういうものでは物足りなくなって、「世界文学全集」みたいな分厚い本を借りてきては読んでいたような記憶があります。

ともかく、そのころ読んだ、子供にも理解できる文章というのが、今の私が書く文章の基本になっています。妙に気取って、難しい言葉や、呪文のような専門用語を羅列した、大学の教授の論文みたいな文章は書きたくありません。そんな文章では、人のこころに響かないような気がするのです。もっとも、私の学力レベルでは、論文のような難しい文章を書こうと思っても書けないのですが……。

加えて、小学生の当時、私のあだ名は「辞書人間」と呼ばれていたほど、私は辞書が大好きでした。はじめは小学生向けの「学習国語辞典」というような普通のサイズの辞書を使っていました。その辞書をめくり、ありとあらゆる言葉を調べまくりました。普段何気なく使っている言葉でも、意味を説明しろといわれると、意外に戸惑う言葉というのはよくあります。たとえば、子供のころなどは、「バ~カ」「バ~カ」なんて友達同士でからかって遊ぶことはよくあると思いますが、もし、そのとき私に向かって「バカ」なんて言葉を言ったりしたら大変です。

バカって、どういう意味だよ?」

と、まじめにその言葉の意味を問い返されることになるからです。意外と「バカ」なんていう言葉の意味は説明しにくかったりするものです。そこで、私はすかさず、常時携帯している辞書を広げて「バカとは、愚か者のことだ」なんて説明を始めます。休み時間に校庭に遊びに行くときも辞書は持ち歩いていたし、辞書の必要のない音楽の時間にも、音楽室に辞書を持ち込んでいたりしました。学校へは、片道3キロほどの道を歩いて通っていたのですが、その間にも辞書がないと困るので、ポケット辞書は必ず持って歩いていました。やがて、普通の辞書やポケット辞書では物足りなくなって、お年玉をためて、ついに「広辞苑」を買ってしまいました。しかも、あの馬鹿でかくてクソ重い広辞苑を、手さげ袋に入れて、通学のときにも持ち歩いていた(ランドセルに入れると教科書が入らなくなる)のです。おかげで小学生にしては異常な腕力が付いてしまい、腕相撲ならクラスで一番強かったかもしれません。腕力ではなくて、知力をつけるべきなのですが……。

辞書引きのスピードもなかなかのもので、指先がページの場所を覚えているのか、不思議なことに、目的の言葉はほとんど辞書を開いた最初のページで見つけることができるようになっていました。ときどき、友達と辞書引き競争なんて事をして遊びましたが、私に勝てる者は一人もいませんでした。

そんなこんなで、児童図書から文章を学び辞書を使って豊富な語彙も身につけたおかげで、小学生時代に既に十分な文章力を身につけていたと思われます。ただ、「作文」というお勉強が大嫌いだったので、小学生のころにはまともな文章を書いたことはなかったと思います。中学生になると、夏目漱石などの小説を手本として少しずつ文章を書くようになります。高校では受験勉強をせずに、「国語表現」という科目を選択して、文章の書き方を学び、作文を楽しんでいました。大学へ行かなかったのは自分にとっては良かったと思っています。もし、大学なんて行っていたら、論文調の文章に毒されて、難しい文章ばかり好んで書く様になってしまったに違いありません。行ってないので想像ですが。

で、話は戻りますが、自分らしい言葉の原点を求めて、図書館の「じどうとしょしつ」へ行ってみたというわけです。今までは、「子供向け?興味ないね」と見向きもしなかったのですが、先日、初めてそこへ入ってみると、なんだかとても楽しい気分になりました。一般向けの2階の図書室はむずかしい本ばかりで、私が借りてきて楽しめる本というのはほんの一握りくらいしかないのですが、児童図書室のほうは、どれもこれも面白そうで、片っ端から読んでみたい衝動にかられてしまいます。懐かしい江戸川乱歩全集なんかもあって、いつか読み直してみようと思いました。文章の少ない絵本を眺めてみるのも悪くありません。図書館がこんなに楽しいところだと、今まで気が付かなかったのが不思議でなりません。

今回はそこで2冊本を借りてきました。内容はたいしたことはなかったので、わざわざ紹介はしませんが、これからもときどき児童図書室へ足を運んで、また昔のようにたくさんの本を読んでみたいと思います。

子供向けの本は、大人が「子供にも読めるように」と思いやりをこめて書いています。それに比べて、最近の一般の小説などは小説家のエゴ丸出しで、読み手に挑戦するかのような、妙にひねくれた内容のものが多いような気もします。知性を刺激するといえば聞こえはいいですが、人間性に悪影響を与えてはいないでしょうか。そんなものを読むくらいなら、児童書を読んだ方が、よっぽどこころの健康にいいと思います。

インターネット上にも、ドライでとげとげしい言葉ばかりが飛び交っています。顔文字や「」、「」なんていう記号的な笑顔で愛想笑いしてごまかしたりもしていますが、そういう言葉を使えば使うほど、逆にストレスをためてしまうということに、ほとんどの人は気づいていません。

みなさんも、最近なんだか言葉が変だと感じていたら、思いやりいっぱいの児童書を読んで、こころのリハビリをしてみてはいかがでしょうか。