この記事は9月に掲載したものです。

浅羽佐喜太郎公記念碑
静岡県袋井市梅山 常林寺
【浅羽佐喜太郎の支援と日本退去】
借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以前行き倒れになった同志のグエン・フォン・ディを助けたばかりでなく、東京同文書院への入学手続きや学費まで払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いするほかはないとグエン・フォン・ディに相談をします。グエンの件があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていました。
ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、グエンに書状を託します。しかし、公のこれまでの厚志に何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。
なんと 朝持たせた手紙の返事が夕方には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円という大金が出てきました。
(この1700円という金額、当時の一円は、現在の価値で約3800円に相当し、佐喜太郎が持たせた金額は、現在の貨幣価値で640万円以上になります。)
その手紙には~『いま、私の手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。』~とほんとうに簡潔で温かい言葉が添えられていました。
1909年 明治42年3月、クォンデ候とチャウは日本政府から国外退去を命令されます。
10日以内の退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。
グエンに紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、佐喜太郎は早々にチャウの手をとり招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲みよく談じ、チャウらを守れなかった大隈や犬養を酷評します。
退去から9年後、1918年 大正7年 ファン・ボイ・チャウが再び日本の土を踏んだ時には佐喜太郎はすでに結核で亡くなり、佐喜太郎への報恩のために懸命な姿に感銘を受けた浅羽村の村長らも動き出し、建立されたのが、現在、静岡県浅羽町梅山の常林寺にある大きな記念碑です。
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